一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

一瞬の地上人生~されど大切な人生

f:id:gsirakaba:20200422161523p:plain地上人生とはいかにあるべきか、について考えます。

一瞬の地上人生ではあるが、大切な地上人生です。ですから、地上人生を真剣に大切に生きなければなりません。地上での出来事に無関心であってはならないのです。今苦しんでいる人に関心を向けなさい、そうして真に苦しんでいる人が問題を自分で解決するように手助けしてあげなさい、ということになると思います。

その人がその苦しみを自身の霊的成長の糧にするように手助けするということであります。ゆえに無暗に何でもかでも、助けるということは避けなければならないということになります。その苦しみがその人自身の霊的成長に必要なことであるなら、なにも手助けはせずに見守ることが必要ということになるのです。その苦しみはその人にとって必要なのです。
なにもせずに見守る、ということは見守る人にとっては辛いこと、苦しいことです。つまり共に苦しみを体験するということなのです。そうした苦しみについてはシルバーバーチも体験したことを述べています。

『時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。その時の私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください 』 シルバーバーチの教え(上)P 102

このブログでも少し前に触れましたが、日本スピリチュアル・ヒーラーグループではスピリット・ヒーリングを行っています。そこでのスピリット・ヒーリングの目的を説明している文章の一部を以下に記します。
『"ヒーリング”という名称から人々は、病気治しが「スピリット・ヒーリング」の目的であると思っていますが、本当はそれが目的ではありません。もちろん霊医たちの心は、地上人の苦痛を取り除いてやりたいという愛の思いに満ちていますが、スピリット・ヒーリングの最終目的は、地上人の“霊的救い・魂の癒し”にあるのです。ヒーリングを通して、地上人の「霊的無知」という“魂の病気”を直そうとしているのです。』
この説明は、病気治しが主眼ではないと述べているのです。驚くことに病気は治っても治らなくてもどちらでも良い、というのです。魂の病気を治すことを目的としているというのです。

ここで目を転じて、現代西洋医学を見てみましょう。ここでは、病気を治すことはできておりません。驚かれるでしょうが本当のことなのです。
高血圧症や糖尿病という国民病ともいえる病気について、医師は薬を飲み続けてください、と言います。治りましたから薬は止めましょう、とはほとんどなりません。これは病気を治したことにはなりません。

現代西洋医学では、病気を治すことができないのです。かくも無力な状況にあります。病気が治るということは,もう病院へは行かなくても良い状態になることを言います。ただ症状を薬で抑える為に一生病院通いを続けるだけです。ほかの病気でも状況は同じです。風邪が治った、病気が治ったとしにたら、それは病院が、医師が、薬が治したのではなく、患者本人の備えている力が直したのです。その力とは規則正しい生活、すなわち適切な休養・運動、そして栄養と正しい心の持ち方などの本人の努力の成果なのです。病気は自分自身が治しているのです。

 発展途上国の多くの人々が貧困で飢餓に苦しんでいます。そこで食べ物を与えたとします。それはそれで、その時の命は救われます。しかし、それは一時の解決策であり真の問題解決にはなりえません。
一時的救済と同時に、再び飢えに瀕することから脱却する手助けをしなければならないのです。それはどのようにすれば良いのでしょうか?
貧困・格差、あるいは戦争・紛争はどうして生じるのか、これを明らかにしなければなりません。これらは個人が、国家が、“己が第一”という利己主義から脱却することで解決します。世界同胞みな兄弟であることに気づくことです。
自分や自分に与する者のみを大切にすることから脱却するのです。実に簡単な事なのです。それを人間は難しいことにしてしまいます。ただ欲張らなければよいのです。お金がそんなに大切ですか?物もそんなに沢山必要ですか?地位、名声、権力を欲しがることを卒業することです。
お金も物も、それらはべて一時的な意味でしかありません。人間は死後も生き続ける永遠の存在であるからには、そうした一時的な目に見える物に執着することで大切な地上人生を費やすことは無意味なことなのです。地上人生は永遠に続く霊界生活のための準備期間ですから、もっと大切なことに意識を向けてまいりたいものです。未熟者である自分ですが、そのことをいつも思い出すように気を付けています。

21世紀の現在、「霊的真理」がすでに高級霊界からこの地上世界に降ろされています。指針は示されているのです。本来ならば人類はその指針に沿った、摂理に一致した生き方をするべきなのです。しかし、すでに述べたように地上は悲惨な状況が展開されています。
悲しいことに、私達の地球にはまだまだ識字率の低い地域が数多く存在します。2015年、読み書きのできない大人は約7億8100万人という報告があります。また、その日の食糧にも事欠く人たちは2018年、8億2100万人(国連による報告)とあります。身を横たえる家もなく路上や野外で夜を過ごす人たち、劣悪な衛生状態の中で死んでゆく人々。これらの人々には霊的な成長を説いている暇はないのです。指針を指し示しても、そうした歩みがまるでできないのです。恩恵に与ることができないのです。今すぐに活用できる具体的な支援が必要なのです。高次の真理を示しても、受け付けられないのです。

繰り返します。こうした悲しむべき問題の根本的解決にはどうしたらよいでしょうか。一言で言うなら、世界に巣くう利己主義をなくし、利他愛に生きるようにすればよいのです。真の解決にはそれ以外にはありえません。これがこれまでに私が学んだ真理が教えるところです。
世界が利他愛に生きにるには、5年や10年でできるようなことではなく、何百年もあるいは1000年をも要することになるかもしれません。だからと言って何もせず手をこまねいていてはいけないのです。
こうした地道な具体的、物質的援助だけに終始するのではなく、一歩進んだ人たちに向け、霊的真理の普及を同時に進めることが求められています。具体的な物質的援助はやろうと思えば多くの人たちにも可能です。しかし、霊的真理の普及は先に霊的真理に導かれた者にしかできません。そしてそれがその者の使命でありましょう。

シルバーバーチが60年間、霊界通信を通して語り続けてきた「シルバーバーチの霊訓」は人類に是非とも必要な教えを網羅しています。
地上人の近視眼的視野では得られない、これまでの人類に欠けていた、無視してきた膨大な量の叡智が収められています。まさに人類に与えられた宝といえます。

この度の人類が向き合わされているコロナウイルスという災厄も、まさに大きな試練なのだろうと思われます。是非とも、互いに非難しあうのではなく、助け合って叡智を求めて乗り越え、さらに世界の平和へと転換させてまいりたいと思います。

 

あなたに平和が訪れんことを

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あなたの心は平和の内にあるでしょうか?
これまで、人々は毎日あれこれと忙しく動き回ってきました。

いま、思いもしなかったウイルスの出現により、人類は否応なしに立ち止まされています。
皆、一刻も早くこの災厄が去ってくれることを願っています。私も同じ気持ちです。
しかし、今、人類が大切な事に気付かなければ、苦しみは続くでしょう。いえ、もっと苦しみは増すことでしょう。そして、これは永遠に続く事ではありません。どういう形で終息するかは今はわかりません。しかし、”人間が何故存在しどう生きるべきかは”、必ず理解しなければなりません。それは宿命であります。

今、人々はこの混乱に翻弄されています。些か乱暴に思えるかもしれませんが、この問題より”人間はなぜ存在し、どう生きるべきか”このほうが大問題であり、最も関心を向けなければならない事なのです。本来、全てはそこから始まるのですから。

まさに世の中は”終末の時”の様相を呈しています。人類が悟るべき時なのです。
人類は有史以前から、神を求めてきました。数知れない宗教を興し人々に教えを説いてきましたが、本当の救いには至らず、反って反目を煽り世界を混乱に落とし入れてきました。人々の心に平和をもたらすことはできず、代わりに憎しみ、怒り、そして争いをもたらしたのです。人類はこれ迄、ず~と不幸の内にあったのです。それは、ただただ人類が必要とする普遍的真理を見いだせなかったからにほかなりません。

2000年前にナザレの地にイエスなる人物が現れて愛の神を説きました。人間の在るべき姿を説きました。しかし、当時の人類の未熟さゆえに、彼を十字架に架けてしまいました。その後も歴史は皆様がご存知の通り人類に平和はなく、安らぎはありませんでした。苦しみの長い時を経験してきました。これは、この苦しみは、必然とも言えるでしょう。個人をとっても、人類全体にとっても犯した罪の償いは何処かで何時かはせねばなりません。私達人類は2000年間、償いのために苦しんできました。

時満ちて、今から100年前「シルバーバーチの霊訓」がもたらされました。イギリス人のモーリス・バーバネルという人物を霊媒として、高級霊界から人類に必要な霊的真理が地上に降ろされたのです。人類の途方もない混乱、悲劇は真理を知らない、無知であると言うことに原因があるのです。

真理を知らないと言うことは、自分が如何に生きたら良いのか解らないということになります。目的もなく何をしたら良いかが解らず日々は過ぎて行きます。焦りはあります。虚しさを覚えます。手あたり次第目の前のことをこなして何となく暮らして、気がつけば既に老境にあり、己れの死を意識せざるを得なくなります。眼前には「死」「死んだら全て終わりか」「死後の世界はあるのだろうか」という果てしない疑問が現れます。そしてこれに関して明確な回答はこれまで得られず、諦めてまいりました。これは私自身が辿ってきた歩みでもあります。

私はそれでも求めてきました。若いころから諦めたり、いやでも何かの手応えを探してというあがきの繰り返しでありました。

世の中が、世界が平和であって欲しい、と願っても己自身の内面が平和でなければ一歩が踏み出せないのです。ですから、あなたご自身は今、平和の内にいますか?と問うのですた。だた、完全なる平和は今すぐには得られないでしょう。なぜなら、周りの人達、そうして世界中の誰もが幸せになれていないとしたら、あなたが真の幸せを覚えることはないからです。しかし愛の神の懐に暫しの間抱かれ、深い安らぎと平和の時を持つことは可能でしょう。あなたが心がけ次第で、そうした境地が得られると私は信じています。あなたと周りの方たちに平和と安らぎが訪れますように。

人類に突き付けられた災厄

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 このたびの新型コロナウイルスについて考えてみたいと思います。まずは皆さまが自粛に疲れて居られるのではないかと気がかりです。お見舞い申し上げます。
今はひたすら守るべきことを守り、あとは内省の時を持つことであろうかと思います。

私たちは日ごろ、あれこれと忙しく動きまわって過ごしています。忙しいことで大切な事を考えないようにしているのかも知れません。例えば、必ずやってくる自身の”死”について。
ある人はご自分のスケジュール帳がぎっしりと埋まっていることに寧ろ安心しているかのような方もおられます。本当にそれが必要なのですか?と問いたくなるようなことも含めてです。

 人類の歴史は数々の災厄に見舞われて来ました。戦禍であったり、今回のような伝染病であったり、または干ばつや内戦による飢餓、そして震災、洪水などなどです。
天災、あるいは人災といわれるものですが、譬え天災だとしても、人類の英知を結集するなら小規模に留めたり、未然に防ぐことが可能なるものもあるでしょう。

例えば、洪水を例に取ってみましょう。川の上流の森林をむやみに伐採したりしなければ防げたかも知れません。
今回のコロナウイルスはどこからやって来たのかは色々憶測がなされていますが、たとえばコウモリやセンザンコウがもたらしたとするならば、彼らを食用にしたり、実験に用いたりせずに、自然界で人間と共生するならば、問題は生じないでしょう。もし、生物兵器だとしたら、これは人類の傲慢さ、利己主義がもたらす人災と言えるでしょう。
いずれにしろ、人間は己の未熟さ、愚かさゆえに自分自身を破滅に導いているのです。

 人間とはいかなる存在で、いかに生きるべきなのか。これらについてシルバーバーチは1918年から、60年にわたってイギリスのモーリス・バーバネルという人物を霊媒として霊界から通信を送ってきました。

人間とは肉体だけの存在ではないのです。精神、そして霊からなる存在であることが、現代人の多くは理解していません。
肉体は物質です。そして物質はときが来れば分解し土に還ります。 しかし霊は永遠に生き続けるのです。私たち人間は死んでも死なないのです。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、どうぞ今こそ『シルバーバーチの霊訓』をじっくりお読みくださいませ。

今、さまざまな活動の自粛が要請されています。これをチャンスと捉えて、見えない世界、霊的な分野にチャレンジしてみてください。

きっと人間をそして世界、宇宙を広く、深く俯瞰してご覧になれることでしょう。

災いをご自分にとっての好機とされますよう、希望いたします。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

ガーデニング

「災い転じて福となす」という言葉があります。今、私たちは未曽有の災厄に見舞われています。一切の物質的価値観から目を転じる時がやって来たのでしょう。物も、そして人の命でさえもそれのみを追い求めてはならないことに気づかなければなりません。これまでの価値観ではもはや人類は生き延びていくことは出来ないのです。

私の趣味はガーデニングです。北海道の春は遅いのですが、それ故にやっと巡ってきた春はこころ浮き立つ思いです。3月も終わり庭の雪がすっかり溶けてなくなりました。 

       クリスマスローズ:ヘレボルス・ニゲル 真っ白の花を雪の中から一番に顔を見せてくれるのは、クリスマス・ローズの原種ニゲルです。これはドイツ・オーストリアの山中に自生する清楚な花です。それらの地ではクリスマスのころに咲き出すので、そのような名前になったようです。
私の庭でも雪の中から咲き出しました。沢山ある我が家のクリスマス・ローズのなかで一番好きな花です。昨年株分けして、今二株咲いています。他のクリスマス・ローズはもう少し後に咲出します。 同時期に咲くのがクロッカスですね。   

                 クロッカス - Wikipedia 黄、紫、白があります。

それから少ししてチューリップが咲きます。これは色々の種類を植えています。サーモンピンクの大、紫罹ったピンクの中、オレンジの小、 黄色の極小などです。
5月のゴールデン・ウイーク頃に、ようやく桜が咲き始めます。桜は白と八重のピンクが在ります。 6月にはバラが咲きます。バラは全部で7本あります。 昨年までは赤のつるバラがありましたが、四方へ蔓が伸び、私の手に負えなくなり、残念ながら処分いたしました。長年慈しんできたバラでとても躊躇しましたが仕方がありません。
狭いマンションの庭です。それなのに40年間で100類ぐらいの植栽になってしまいました。少しづつ整理しなければなりません。 

今年の冬中、ベランダの手すりにエサ皿を設置してシジュウガラ たじみ百景/多治見の野鳥ヤマガラ階の窓の外にヒマワリの種を置いて ... にエサやりをしました。シジュウガラ、ヤマガラ、コガラ、鶯と4種類が来てくれて楽しいですね。写真はヤマガラです。

それから、我が家には猫が居ます。名前は「たまごろう」白黒の八割れでもと野良ネコです。野良なのに初めて会った時、「あなたの家の子になる」と訴えてきました。 そして15年になります。最高にかわいいですね。癒されています。

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これでお分かりかも知れませんが、私は動植物全般、生き物が大好きです。 こうした性格傾向は幼い時に暮らした山奥での生活が原体験となっているのだと思います。そしてそれ故とは言えないのかも知れませんが、人間相手はどちらかというならば苦手でした。過去形で書きましたが、実は未だその傾向で苦労しています。  

桜やバラはまた何時かアップしますね。      

認知症について~その②

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生物としての人間はいずれ肉体の死を迎えます。
「ピンピンコロリ」ということにあこがれる人は沢山います。しかし、それは心筋梗塞脳梗塞、そして戦死、事死故、自死でしかありえません。
本来の死に方は老衰であると言われています。
老衰で死ぬ場合、どのような経過をたどるのかを簡単に説明します。

これといった病気もなく、段々と食が細くなります。これは生理学的には老化することにより、人体の組織、器官、細胞の機能が低化、代謝が低くなり食物を必要としなくなるからです。また霊的には次のように考えられるでしょう。。即ち、霊界へ還るときが来ると、霊は肉体とお別れしなければなりません。ですから人間は食物を摂らなくなります。この時点ではまだ意識はしっかりしています。食が細くなったからと言って、無理やり介護者が食べ物を口に放り込むことをしてはいけません。本人が食べたい時に食べたいだけを食します。
そしてやがて何も食べなくなり、水だけになります。当然体重は落ちとても痩せてしまいます。それで良いのです。当然点滴などもしません。このころには意識はもうろうとしてきます。そしてやがて眠るように息を引き取ります。遺体はすっきりと軽く、本当に楽になったことが解り、周りの者たちも安堵します。

これに対して、食べなくなったからと言って病院に入院させるとどのようなことになるでしょうか?まず、経管栄養か大量の点滴を行います。経管栄養とは少し前までは鼻からチューブを挿入し流動物を流し込むやりかたが主流でしたが、今は外から胃に穴を開けて栄養補給をする胃瘻に変わっています。
チューブは栄養チューブの他、点滴チューブ、尿管カテーテル、酸素吸入チューブ、心拍数と血液中の酸素濃度を測るパルスオキシメーターなどが付けられます。場合によっては動脈ライン、気管内挿管チューブなども加わります。これを俗にスパゲッティ症候群と呼んでいます。
そして代謝が落ちているため当然排泄されない水分で、肺を始め全身水ぶくれの状態で苦しんで死を迎えます。溺死です。

介護療養型医療施設(いわゆる老人病院)ではまともには注視できない光景が展開しています。6人の高齢者が薄暗い部屋で臥床しています。丁度昼食時間であり、彼らの側には点滴ポールにぶら下っている流動食の袋が見えます。そこから経管栄養剤が胃ろうから注入されています。誰一人声を挙げたり、身動きをしたりしません。何故なら、彼らはもう殆ど意識がないからです。ただ、意識もないまま肉体を生かされ続けているのです。こうした部屋が廊下に沿ってずーと幾つも並んでいます。実際に私が目撃した光景です。
 強制栄養により10年も意識がないまま、生かされるという社会問題、人権問題が発生しているのです。
当然こうした医療の在り方に疑問の声を上げる人達が現れてきています。ではどうして未だこれへの解決手段が講じられないのでしょうか。
一つには医療を行う側、医師たちが人命第一主義に凝り固まっている、対象が誰であれ、どんな手段を講じても少しでも長生きをさせるのが自分の使命であるという信念です。
例えば事故の場合、救命を第一とするのは当然理解できます。そうすべきでありましょう。しかし、病が進行しもはや死期が近い場合、あるいは老化が進展し自分で食事を受け付けなくなった時は、自然の流れにまかせるのが妥当でありましょう。それが出来ないのは唯物的思考に囚われている人間の限界なのでしょう。

そうしてとても大切なことは、譬え医師に「あなたのお母さまは口から食べることは誤嚥の危険がありますから、胃ろうを創りそこから栄養物を与えるという方法が適切と思いますが、どうしますか?」と問われた場合です。 
よく考えずに、「そうですか、それではお願いします。」と答えれば、あなたのお母さまは10年間も胃ろうからの栄養補給でそのまま生き続ける、ということもあるのです。お母さまはそれを望んでいたのでしょうか?そしてあなたご自身はそうした生き方を望んでおられますか?
元気なうちに本人の意思確認をしていおくとが大切な理由はこうした事態を避けるためにも絶対に必要なのです。ちなみに私は日本尊厳死協会に入会しています。自分の意志を文章にしております。(living will―終末期医療における事前指示書)
無駄な延命は摂理に反すると思われます。地上に生まれ、そこでの使命、仕事を果たしたら安心して次の生に移るのです。あくまでもそれが自然であり、人間だけではなく生きとし生けるもの全ての在り方と思います。

ここまで、認知症に限らず死に瀕した者の在り方について述べてきましたが、ここからは認知症に関してです。認知症は高齢化した現代人には避けて通れない問題です。
アルツハイマー型は全認知症のうち約60%を占めています。認知症になることは誰もが望んではいないのにも関わらず、多くの人が発症しています。本当に避けることはできないのでしょうか?多くの人が認知症になるといっても、全ての人ということではないことに注目しましょう。
避けることも可能である、ということです。つまり予防です。何の手立てもせずに漫然とこれまでの生活態度を続けてはならないのです。アルツハイマー病の脳に見られるβアミロイドは病気が発症する25年も前から蓄積が始まっているのです。ですから、予防は早いほうが断然良いのす。中年期のあなた、そしてお若い方も、今すぐにご自分の生活を見直されることを強くお勧します。
今、解っている予防あるいは対策を挙げてみます。
生活習慣病(糖尿病、脳および心血管障害、高脂血症、高血圧)を予防、治療をする
・食事を見直す(魚を食べる、動物性脂肪を減らす、抗酸化物質を含むのもを食べる)
・運動をする(有酸素運動など)
・達成感を味わう(趣味など)
・他の人と交流する、共同作業をする(ボランティアなど)
他に教育歴や環境(ストレス)が関係するとも云われています。
教育歴については次のような見解があります。 生来の知能、受けた教育、職業の質によって造られる何かが、アルツハイマー病の病理に対する抵抗力になるのではないか、というものす。これに関連して言えることとしては、「頭を良く使う」事の大切さが挙げられています。
ストレスについては豊かな環境(マウスの実験で回し車で自由に遊ばせる)では神経細胞の新生が盛んに行われた、と報告されています。

結論として言えることは、アルツハイマー病にならない生活習慣とはつまり、昔から健康的な生活として奨励されてきたものなのです。
欧米化された食事、美食は健康の大敵です。
ホリスティック健康学・栄養研究所では生活習慣病を引き起こす原因となる”欧米食”を見直し、食生活を根本的に改善することの必要性を訴えています。詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。

次に認知症の主な症状と基本的な対応について少し述べます。
初めは記憶障害、見当識障害です。いわゆる物忘れです。それから妄想、徘徊、不安、焦燥、うつ状態、せん妄、さらに失行(衣服の着脱、リモコン操作、お金の払い方、トイレの使い方が解らなくなる)、暴力行為、さらに進行すると、歩行、食事、排泄などの基本的能力、言語が失われて殆ど会話がなくなります。最終的に寝たきりとなります。

治療は根本的な治療法は現段階ではありません。
・抗認知症薬としてアリセプトなどがありますが、進行をゆるやかにするだけ
睡眠障害に対して睡眠薬
・不安を抑えるための精神安定剤、という状況です。

 次は基本的対応です。
・どうしてそのような行動をしたのかを考える
・自尊心が保てれるように対応する
・「できないこと」を責めず、「出来ること」に注目して引き出す
・役割を奪わない
・一人の人間として対等に接する
以上、まとまりに欠けるようですが、認知症について述べさせていただきました。
皆さまがより良い人生を送ることが出来ることを祈念してこの項を閉じます。

 参考文献
 「アルツハイマー病にならない」 井原康夫 / 荒井啓行著 朝日新聞社刊 2007.08  
 「スマート・エイジングー人生100年時代を生き抜く10の秘訣」 村田裕之著 徳間書店 2019.02

 

認知症について~その①

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先日、認知症研究の第一人者で、ご自身が認知症になった長谷川和夫氏のドキュメンタリーをテレビで見る機会がありました。老人医療、介護に関わる者なら誰もが知る精神科医で、1974年に「長谷川式簡易知能評価スケール」を発表、日本老年精神医学会を創設、学会を牽引、認知症の研究、診療の第一人者として活躍されてきた方です。

氏は現在91歳になられ、認知症デイケアセンターに通所されているようです。
奥様とお嬢様に支えられつつ、落ち着いて穏やかな日々を送っておられる様を拝見する事ができとても安堵しました。事実、物忘れはあるでしょう。日常生活では何かと不都合があるでしょう。しかし、たとえ認知症になったとしても、悲観する事はないと感じました。これまでの人生において、沢山学び人々に廣く貢献してきた事によって培われた人格の高潔さが伺えました。

もう一例、少し前のことになりますが、レーガンアメリカ大統領が全世界に向けた手紙の一部をここで取り上げてみます。(彼は2004年6月に93歳で肺炎で亡くなっています。)

「ですから、私は私がアルツハイマー病であることを皆さんに知ってもらうのは意味のあることであると考えています。こうして皆さんにお伝えすることによって、アルツハイマー病への関心が高まることを心から願っています。そうすればこの病気に罹った方やその家族の苦しみを理解することにもつながるでしょうから。今のところ、私はとても元気です。私は残された日々を、これまで過ごしてきたのと同じように過ごすつもりです。これからも同じように、愛するナンシーや家族と人生を分かち合います。(中略)私のアルツハイマー病が進行するにつれ、残念ながら、家族は重荷を背負うことになるでしょう。ナンシーをこの苦痛から解放する方法があれば、と思います。そしてその時がくれば、皆さんの助けを得て、ナンシーは信念、そして勇気をもってそれに直面すると私は信じています。」

なんと率直で気高い内容かと、改めて想いを深くしました。

人は高齢になってそれまでの人生の刈り入れを致します。
無知で我がままな生き方であったか、それとも他の人のために喜んで生きてきたか、人生の刈り入れの時に結果が示されるのです。

老齢期の看護、介護に関わって来た私達が度々口にする言葉に、「認知症になるとその人の素が出る」というものがあります。本当にそうなのです。若い頃にはなんとか表面を繕って社会生活を全うしますが、高齢となり更に認知症になれば、いわゆる理性でのコントロールが覚束なくなり隠されていた本性が表面化するのです。この理性でのコントロールについて、脳科学的には背外側前頭前野の機能不全で感情の抑制がきかなくなることによると言われていますが、ある人は穏やかで謙虚で好々爺と言われるようになり、又ある人は従来の我がまま、高慢さがさらに強くなり他人にとって迷惑な存在となるのです。
ある意味で本来の自分になる、とも言えます。好き嫌いの感情がはっきりと隠すことなく表現されるようになります。
老化現症は避けられません。私は必ずしもそれが憂うべきこととは思いません。社会の常識という囚われから自由になれるのです。夢にまで見た自由です。
高齢になると今まで出来ていた事が出来なくなる、自分自身のケアさえ出来なくなります。その究極が「下の世話」です。他人に下の世話をしてもらうことは本人の自尊心を大いに傷つけます。認知症になることで、その屈辱を回避できる。認知症とは神さまが与えて下さった恩恵であり、神さまの深遠なる配慮なのかもしれません。こうした声はなにも私だけではなく、以前から云われてきたことであり一考を要すると思います。

確かに社会からは生産性のない生き方しかできない、役に立たない者「お荷物」として見られることが多いのですが、彼らはかって今日の経済発展に多大な貢献をしてきた大先輩なのです。今その役目を終えてゆっくりと疲れを癒しているのです。

しかし、ここで重大なことを見過ごしてはなりません。それは、今述べてきたようにその人間がこれまでどのように生きて来たか、が問われているということです。
より良い結果を得るためには、それにふさわしい生き方を若いころから心掛ける以外にはあり得ないのです。生きて来たように死ぬのです。
人間としてより良い生き方をするためにはは無知であってはなりません。年を取ってから始めては遅すぎるのです。勿論なにもしないよりははるかに良いのですが。

世の常識は間違っていることが大変多いことを心に止めなくてはなりません。常識に囚われず、また他人任せにするのではなく、自分の人生は自分で構築してゆくという覚悟が必要です。

わが国では認知症に関してはあまり良いイメージがありません。
 認知症とは好ましからざる病気ないしは状態であり、
▪ ああはなりたくない
▪ お荷物だ 
▪ 不快な存在だ 
▪ 国家予算の大分を占めており、何とかせねばならない
などであり、つまり人間として尊重されていない存在だというのです。だからぞんざいに扱ってもよい、そもそも自業自得であるというのです。そんな人に大切な我々の税金を使うのは許されない、となります。
一方で「病気だから仕方がない」「誰もがいづれ認知症になるのだから、社会、国家が面倒を見るのは仕方がない」という声もあります。

2007年12月に愛知県で認知症のTさん(91歳)が電車に跳ねられて死亡するという事故がありました。JR東海は家族に720万円の損害賠償を請求し、一審の名古屋地裁は全額の支払いを命じました。これがマスコミで報道されたことにより、衝撃の声が沸き起こりました。
私もあの時は本当に驚き、この国はどうなっているのであろうかと危惧しました。これはむしろ事故死した高齢者の家族がJRを訴えるほうが当然と思いました。その理由は安全への注意義務を怠ったことに過失がある、と感じたからです。この判決に対して多くの人達が声を挙げました。「認知症の高齢者を24時間一瞬の隙も無く見守ることは不可能」「あまりにも認知症の介護の実態を知らない判決」と。そして2016年3月に最高裁が一審の判決を覆して逆転判決い言い渡しました。この9年間はご家族にとっての苦しみは如何ばかりであったでしょうか。

認知症は20世紀の終わり頃までは、「痴呆」と呼ばれており人前には出すことのできない存在とされ、家に閉じ込められていたり、精神病院へ収容されるという人権が全く無視されるされる時代でした。2004年になって「認知症」と改称され、認知症にたいする理解が進むようになり、その人たちに対して尊厳を守ろうとする動きが始まりました。

現在、65歳以上の高齢者のうち、7人に1人、462万人が認知症と云われています。そして2025年には5人に1人とその数が増加すると予測されています。
発症率は実に80歳代後半では40%、90歳代後半では80%が認知症になると言われています。

それでは我が国における認知症に対する取り組みを概観してみることにします。

先にも書いたように2004年に痴呆から認知症と呼称が改められました。その後いくつかの施策が発表されて来ました。
最新では2019年6月に認知症施策推進大綱が発表されました。基本的考えは以下の通りです。
認知症の発症を遅らせ、認知症になっても、希望を持って日常生活を過ごせる社会を目指し、認知症の人や家族の支援を尊重しながら「共生」「予防」を車の両輪として施策を推進する。
具体的には
①普及啓発、本人発信支援
②予防
③医療・ケア・介護サービス介護者への支援
認知症バリアフリーの推進、若年性認知症の人への支援、社会参加支援
⑤研究開発、産業促進、国際展開
となっています。
これらの施策に関して、国や自治体、企業などがどのような対策をしているか、私は殆ど解っていませんが、九州の大牟田市では独自のやり方で認知症への取り組みを展開しています。「大牟田方式」と呼ばれており、2004年から一般市民が訓練に参加、成果を上げています。
徘徊見守り大牟田方式と言われるもので、そのやり方とはこうです。
・家族が行方不明者として警察へ捜索願を出す。
・その情報を市内の役所、企業、公共機関へ配信≪愛情ネット≫する。
・すぐに見つかる。
というものです。
私の住んでいる札幌市の地域包括支援センターは住民に対して「認知症サポーター」になるための初歩的な指導を実施しています。また、認知症に特化してはいませんが、区の介護予防センターでは、月一度軽い運動教室を行っています。

ここから私の体験したことを書いてみます。

私は認知症グループホームに嘱託の看護師として2年程働いたことがあります。
そこで感じたことは、できることなら、こうした施設には入居したくないという事でした。そこでは人間としての尊厳が踏みにじられているという印象を受けました。

職員たちは訓練も受けていますし、工夫もなされていますが、極めて不十分なのです。
先ず挙げられることはマンパワーの不足です。高齢者一人ひとりに対する気配りが出来ません。当然事故も起こります。活気がありません。皆じ~と座っており、本を読むでもなく、テレビを見るわけでもなく、何もしていません。よれよれの人形のようです。形ばかりのおやつの時間があります。年に何度かの季節のイベントが催されます。喜んで参加しているようには見えません。職員に言われるがままに折り紙を折っています。

そしてマンパワーに関連するのですが、自由が制限されています。外出したいといっても自由ではなく、職員の時間のある時に限られるのです。

また、病気により不自由になった身体の機能回復に向けたリハビリが受けられません。Sさんは室内を壁などに伝って歩くことができますが、廊下に出る時は車いす使用と制限されています。
私の母の場合は(母はこの施設の入居者でした)施設で入浴中に転んで大腿骨頸部骨折をし、病院へ移送されて手術を受けました。創傷が治癒したら即退院です。病院でのリハビリは全くありませんでした。退院して施設にもどっても一切リハビリはありませんでした。私はリハビリを受けさせてください、と申し入れをしましたが受け入れられませんでした。完全な車いすでの生活になりました。認知症の人にリハビリは危険であり、衰えた機能を回復に導くということはあり得ない、とされているようでした。何が危険かというと、彼らが自分の意志でリハビリをしようと介護者のいないところで動くことが危険ということです。ここではリハビリという考えがそもそもないのです。機能の回復ということは完全に諦めている所なのです。

私は医師でも理学療法士でもありませんが、母の場合リハビリを順調に進めるならば、骨折まえのように歩行は可能になると観ていました。
肉体は使わなければ退化します。筋肉も脳細胞もです。機能は衰えるのです。
ところがこの施設では、衰えるに任せて何もしません。ただただ徐々に弱り死にゆく時を待っているだけなのです。

さらに問題と感じたことは、入居者が「ここが痛い」「具合が悪い」と言ってもまともに受け止めようとしないということです。
曰く「あの人はいつもああなんです、人の気を引こうとしているんです。」それに対して私は「そうした受け止め方ではなく、本当に痛いのかもしれない、きちんと対処しましょう」と助言するのですが聞く耳を持っていませんでした。これが介護支援専門員(ケアマネージャー)の態度でした。介護支援専門員は、施設管理者であり、嘱託看護師の私には施設の運営方針に口出しする事はできませんでした。
ちなみにその高齢者の方はしばらくして全身に転移したがんで亡くなりました。

自分の母を施設に入居させたことについて、私は後悔とともに他に方法はなかった、という自己弁護の思いが錯綜しました。

ここでの経験は10程前のことですので、今は少しは改善していることを願うところです。

今回は認知症について思うことを述べましたが、次回は認知症の要因、症状、予防、ケアについても言及したいと思います。

ご意見など御座いましたらどうぞコメントを御寄せください。

 

 追記

世界は今、ウイルスとの戦いに翻弄されています。人々は為政者を始め皆パニックとなり、冷静な判断が出来にくくなっています。
アメリカにおける昨年秋から5カ月間のインフルエンザによる死者数は1万8000人以上、と言われています。
日本における季節性インフルエンザの死者数は3000人/年ということです。
そして今回の日本でのコロナウイルスによる死者数は3月18日現在29人です。

たったこれだけのデータですが、これは何を意味すると思いますか?
私たちはもっと冷静にならねばなりません。

たしかに、人類の歴史は感染症との戦いとも言われています。古代エジプトのミイラのゲノム解析などから、天然痘との闘いの痕跡が見られるという報告があります。
スペイン風邪(1918~1919)のときは死者5000万人、14世紀のペスト流行時では死者推定1億人とされています。これは当時のヨーロッパの人口の1/3とのことです。

ただ、恐れるのではなく人類はもっと賢く、そして国際協力という形の利他愛に目覚めなければならないのです。

自然破壊を止めねばなりません。動植物の虐待を止めなければなりません。耐性菌の出現を許してはなりません。

具体策の一つとして、元長崎大学熱帯医学研究所教授で、国立国際医療センターユニセフなどを通して感染症対策に従事してきた國井修氏が日本にもCDCを作るべきと主張しています。

CDCジョージア州アトランタに本部を置く、米国疾病対策センター。ここでは感染症対策だけでなく、慢性疾患予防、健康増進、出生異常、発達障害などさまざまな健康分野の研究センターである。

 

 

 

 

 

 

 

アドラー心理学に学ぶ

 

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人間にとっての幸福とは何か。これは哲学が一貫として問い続けてきたテーマです。 そして心理学も又自分を知り、人間存在を知り幸福になるためのアプローチを模索してきました。
学問分野での区別はありますが共に人間存在について、そして幸福についての学問ということになります。 

最近アドラー心理学についての著書を読みました。かって、ユング心理学を学んだ時期もあり、心理学とは「分析心理学」が最高である思っていました。ですからアドラー心理学については名前こそ承知していたものの、その内容に関しては全く知りませんでした。というより当時は知る必要さえないとの位置づけをしていたように思います。

200万部を突破しベストセラーとなった、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」(著者:岸見一郎 / 古賀史健 ダイアモンド社)2冊を読みました。

ルフレット・アドラー(1870~1937)はオーストリア出身の精神科医・心理学者で、フロイトユングと同時期の人物であり個人心理学(アドラー心理学)を確立しました。
アドラー心理学には「常識へのアンチテーゼ」という側面があります。
フロイトらが主張する原因論を否定し、トラウマを否定します。人生において他者の承認を求めないこと、課題の分離を提唱します。

そして私が最も感銘を受けたのは、「自立」についての考え方に在ります。

「幸せになる勇気」の152ページからの一節を引用します。

褒められることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっと褒められる」を求めます。その人は「依存」の位置に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになる。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方「私」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それが本当の個性というものです。

私はスピリチュアリストを自認していますが、日々の歩みの中で迷い悩むことは多々あります。今最も明らかにしたい課題はこの「自立」ということでした。
いつも自信のなさに翻弄されてきたように思います。
そしてもう一つ、自立に関連するが重大なことに気づくことができました。

アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、全ての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。
横の関係とは対等な関係ということです。上下関係ではないのです。そしてまた、劣等感とは、縦の関係の中から生じてくるというのです。これもとても合点のゆく点でした。
縦の関係というのは、(介入について見てみると)対人関係を縦で捉え、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまうというのです。相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいるのです。
介入しないということは、今困難に遭遇している人を放っておくことではありません。つまり「介入」ではなく,「援助」が必要というのです。そしてその援助とは褒めることではなく、勇気づけることであると言うのです。
褒めることとは相手に「能力がない」ということを意味します。褒めるということは能力のある者がない者に下す評価そのものであるからです。

思い悩む・不安・心配というマイナスの思いが生じるということは、真理の理解が十分ではないことを物語っています。真理を本当に理解するならば、心配や不安など一切生じるはずはないからです。それでも尚真理を受け入れたとしても、それを現実の生活、対人関係に生かすことが出来ない、という困難さを感じるのは私だけではないように思います。スピリチュアリズム普及会ホームページの11.スピリチュアリズムへの敵対者との戦いの中に次のような一節があります。

譬え真理を受け入れた人間であっても、一定の霊性レベルに達していないかぎり、実感を持って真理を理解することが出来ません。“知”では分かっていても、“情”では納得できないという状態に陥ってしまいます。霊性が未熟で「魂の窓」があまり開いていない人の場合には、霊的エネルギーを少ししか取り入れることが出来ないために肉体的感情に支配されるようになり、霊的世界に対する実感を持てなくなるのです

この文章の中の“情”での理解、とはどういうことなのか・・・。 私が思うにはこれまで述べて来た「自立」「縦の関係」が関わっているように思います。

私はこれまでの人生で縦の関係で生きてきたために、その囚われの中での思考がすっかり習い性になってしまっていました。これが障害となり、真理をストレートに情のレベルに届かなくなっていたように思います。
ところで「縦の関係」という言葉からは、幼少のころの親への絶対なる信頼、安心感の獲得、といったプラスのイメージと、大人になっても自立できないマイナスのイメージとがあります。後者としては、依存、甘え、責任転嫁、卑屈さ、劣等感、嫉妬、猜疑心などを挙げることが出来ます。

霊性が高い・低い“ということは地上に誕生した時から、すでにある程度決まっているでしょうが、誕生後にどれだけ努力したかが大きく作用します。
その努力とは利他愛の実践であり、また己を知り足らないところを補い誤りを正す、そして苦しみに対しての正しい対処、という絶え間ない日常生活での戦いでしょう。 この戦いは小さいことから、人生を左右するほどの大きなことまで実に多様であると思います。
スピリチュアリズムを受け入れたといっても、その時点までの人生で様々なことを体験しており、間違った考え方、習性が魂に沁み込んでしまっていることもあります。
それを真理に照らして間違いを捨て、新しい価値観を習慣化するには、殆ど気の遠くなる道のようにさえ感じられます。 それでも希望はあります。気づいた時から実践することで成長進化は約束されます。この道は永遠の道なのです。喜びの中に歩めるのです。これを祝福と言わずに何と表現できましょうか!

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。この現実に対して、アドラーは極めてシンプルな回答を用意しました。即ち、「私は共同体にとって有益である」「私は誰かの役に立っている」という想いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる、というものです。
これはまさに霊的真理の訓える「利他愛の実践」を彼の言葉で述べたものです。
アドラーは地上生活中には多分スピリチュアリズムに出合っていないであろうと思われます。時代的には可能であったでしょう。それでも彼は己に託された地上での仕事を自身の全てを懸けて臨んだことが伺われます。尊敬すべき大きな魂の持ち主でした。