一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

貴船菊~霊性への気づきに至る道

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今年も我が家の庭で秋明菊シュウメイギク咲きだしました。秋の訪れです。これを見ていてふと往年のある時を思い出しました。

私は10日間の瞑想修行のため京都を訪れていました。それが終了して鞍馬山へ出かけようと思い、叡山電鉄鞍馬駅へ向かいました。

鞍馬山は標高584mの山で牛若丸が天狗相手に剣術修行をした所として有名であり、パワースポットとして人気の霊山となっています。鞍馬寺の本尊は目に見えない宇宙の力なので鞍馬山に満ちているエネルギーは大きなものとされています。

私が訪れたときも大勢の修行者らしき人々が般若心経を唱えながら、境内にある沢山の寺院巡りをしていました。

これらの寺院の御朱印めぐりなど、鞍馬山を広く散策するハイキングコースは人気があります。御朱印は私の関心事ではなく、そこに満ちる清涼なエネルギーに触れたいという思いからでした。何百年、あるいは何千年も聳える自然林がその根元が複雑でかつ蛇のようにくねって地表に浮き出ている様、この根の間を身軽に飛び越えながら、剣術修行をする牛若丸の姿が目に浮かぶようでした。貴船駅へ続く渓谷沿いには料理旅館が立ち並び、夏季には「川床」が供され、蒸し暑い京都の納涼に処しています。その渓谷沿いには貴船菊が満開に咲いていて、私の目を楽しませてくれました。貴船菊とはこの辺りに自生しているため、そう呼ばれていますが、本当は秋明菊と言います。

そして私がなぜ鞍馬山へ足を延ばしたかというと、その時私はレイキの学習中で、その開祖とでも言える「臼井甕(みか)雄(1865~1926)」なる人物がこの鞍馬山で断食・瞑想の後、悟りを開きレイキを感得したと知らされていましたので、是非ともその地を訪れてみたかったからです。

ここで、レイキに関して少しばかり補足しておきます。

レイキとは宇宙に存在する生命エネルギーを活性化し、回復し、調和させる方法です。その歴史は古く古代チベットに辿り着くのですが、長い間に伝統が消失し封印されてきました。それが19世紀の終わりに、臼井博士により再発見されました。戦前、日本では「手当療法」の全盛時代で、その中心がレイキであったとされ、日本での信奉者数は100万人超えだったそうですが、戦後は極限られた人々に受け継がれて表面に出ることはほとんどありませんでした。

教えを受けたハワイ在住の日系2世の「ハワヨ・タカタ女史」の功績により海外へ普及していったという経緯があります。

それが廃れていた日本に逆輸入されたのが1985年だったのです。

現在、レイキは世界で最も人気の高いヒーリングで、イギリス、ドイツ、オーストラリア、カナダ、オランダでは医療保険が適応となっています。

私がレイキのティチャーズ・ディグリーを取得したのは2002年12月のことです。少しばかり、ヒーリングやディグリーの伝授を実践していた時期もありましたが、私にはヒーラーという天命はない、とい感覚があり現在は休止中です。

もちろん、宇宙に充満する生命エネルギーそのものは、いつの時代でも変わることなく存在していますから、レイキは自己ヒーリングとしてのみ、用いています。何よりも、”ヒーリング”は自分が行いたいからする、というものではなく、その能力は天命として与えられるものであることを今は理解しています。

ここで、私がどのような経緯を経て、「霊性」ということに気づいてきたかを整理してみましょう。

  • 看護学校と臨床で病める人々に奉仕するという「奉仕の精神」の大切さを学ぶ。
  • その後ある期間宗教団体に所属して、「宗教」というものを苦しみつつ知る。
  • 仕事上での人間関係を向上させるべく、心理学を学ぶ。
  • 広く教養を積むべく、放送大学で人間の探求を専攻する。
  • ユング心理学をベースとした自己開発セミナーを受ける。
  • 精神分析夢分析を受ける。
  • 瞑想の学習を始める。
  • レイキ・テイチャーとなる。
  • ヨーガを学び、ヨーガ療法士となる。
  • スピリチュアリズムを知り、今日に至る。

学習中、そしてそれからも沢山の病気を体験し、今スピリチュアリズムに出会ったことにより、長年の探求課題であった、人生の目的、神の存在、死後生について知ることができました。

思えば長い道のりでした。気がつけば地上人生のほとんどが費やされていました。

私は少しばかりの苦労や学びではなかなか悟れない無知で頑固人間でした。ですから、こうして挙げてみれば①から⑩までのようにこれでもか!というほど手間暇がかかりました。しかし、人生とはこうして知識と理解(悟りとも言います)を得るための学びの道程ということが出来るでしょう。私はそういう意味で本当に幸せ者であります。

私はいつでも真剣に物事に対峙してきたつもりです。しかし、それが故に人生は生きずらいものとなっていました。適当に妥協する、ということが出来ないのです。仕事においても、味方は少なく敵は多いほうでした。

こうした性格は物事を進めるうえで、プラスとともにマイナスともなります。

今は、そうした自分の傾向を知っていますので、そのバランスをとることに心を砕いています。

どんな場合に許し、どんな場合には厳然と対処すべきか、これを冷静にそして焦らず考えてゆくことが少しは出来るようになったと思っていますが、果たしてどうでしょうか・・・。

地上人生が終わるその時まで、いえ、あちらの世界に於いても私達は学び、そして他の人々に奉仕し続けるのです。勇気を持って顔を上げて進みましょう。


 

 



私の健康維持

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我が家の花たち 左から花オクラ、バラ、孔雀サボテン、椿、オオマツヨイ草、

今回も我が家のお花たちを紹介しながら、私の健康維持について少々述べてみたいと思います。今回紹介した花は特に目を引くような華々しいものではありません。どちらかというなら、ひっそりと庭の片隅に咲く、という感じでしょうか。

 予てよりお知らせしていますが、私は健康を損ねています。とても残念に思って来ました。しかし、霊的真理に巡り合うことが出来た今、これは決して不幸なことではなくむしろ有難いことと思っています。

私は20数年前に自分自身ががんになった時、沢山の関連記事に触れてきました。そのなかには闘病記のようなものも含まれていました。そこでは、さまざまな方法でがんを克服してきた方々の闘病記もありました。そんな中、とても興味深かいものがありました。

伊丹仁朗という医師ががんサバイバー(がん治療中、もしくは体験者)の方々と富士山に登る、という「生きがい療法」を実践しているという内容でした。その参加者が「がんになって良かった、がんに感謝している」と語ったことでした。これ知ったのはもう15年も前になり、この時の詳細については記憶も薄れてしまって、ここに紹介することはかないませんが、これはとても大切なことと認識しております。

伊丹医師は「生きがい療法」の医学的裏付けとして次のように述べています。恐怖への対処が上手になる。生きがいレベルが高くなる。治療効果がよくなる。

「生きがい療法」にはさまざまなものがあるようですが、これは現代医学からは総じて「心理療法」に該当する、としています。ライフスタイルの修正とも言えます。

 次に、いつ頃の実験か定かではありませんが2つの実験データを見てみましょう。

カルフォルニア大学ロサンゼルス校でのメラノーマ(悪性黒色腫という皮膚のがん)の術後6年目の再発率・死亡率に関する実験で患者群を2つに分けます。一つは「心理療法」をする群、そして他方はそれをしない群とです。

結果は「心理療法群」は再発率が半分に、死亡率は1/3という差が見られたという。

もう一つは、スタンフォード大学乳がんの多発転移のケースで同じような実験をした結果、「心理療法群」の生存期間が2倍に延長したというものです。

ここから、がん患者の生存率・再発率は単に外科医の腕が良いかどうかで決まるものではないということが分かります。その人間がどんな考え方をし、どんな生活をしてきたかが問われていると言えます。

私は今、がんになったことに寧ろ「有難い」と述べたことは本当です。このことにより私は沢山のことを学びました。現代西洋医学の提唱する医療内容に対する疑問。(例えば、今日、がんに対する治療といえば、手術・抗がん剤放射線照射、という3大療法です。それ以外に治療法はない、とするものです。)

何故がんが増える一方なのか?なぜ治療しても死亡率が下がらないのか?そもそも抗がん剤とはいかなるものか?人間に付与されている自然治癒力とはいかなる仕組みか?免疫とは?生活習慣との関連は?緩和療法とはいかなるもので、またどうあるべきか?リエゾンナース(精神看護専門看護師liaison-橋渡し・連携する)とはどのような仕事をすべきか?そもそも、医療現場に宗教者が介入することに反対する日本の医療界とは何ぞや?

これらは、私自身が臨床で看護師をしている当時はほとんどと言ってもよいほど、疑問に思わずにいたことです。現代西洋医学・唯物医学にまったく疑問を持たずに、それが真っ当な医学と信じていました。(今の医師たちのほとんどがそうです)

そうして今、私は3度目のがんを体験しました。昨年のことです。さすがその時は「もう終わりにしたい」と思いました。終わりにしたい、とはなにもせずに死ぬことを選択するということです。

でもその選択はしませんでした。スピリチュアリストの同志が「生きてください」と励ましてくれました。そして霊的真理に照らし合わせます。ここが踏ん張りどころなのです。この地上人生は人間として成長、進化するべく、神が用意してくれたものですから、何事も無駄にしてはならず、すべてを天からの恵みととらえます。病気になるのも、必要あってのこと、つまり必然なのです。私は現代西洋医学の誇る「定位放射線療法」、そして対極にある「心霊治療」を受けました。これらは、物質的か、霊的かという違いであり、共にそれぞれ深いレベルに作用します。

この病気になって何を学ぶべきか?私は自分に与えられた課題と捉えました。何事も前向きに積極的に探究すること、現代西洋医学のすべてを思慮深く考究し、必要なものは受け入れること。決して悲観的にならず、苦しい症状に陥っても、忍耐をすること。私はそれにより、幾分かは強い人間になれたように感じています。そうです、霊的真理は私に強くなれ、魂を鍛えよと教えてくれたのです。

今、己の毎日の過ごし方はいかなるものかと問われても、ぱっと目に魅力的なものは見当たりません。半病人(この言葉は好きではありませんが他に思い浮かぶことばが見当たりません)の生活そのものですから。

夏場はガーデニングがあります。いつも雨の日以外は、庭に出て草花や庭木に語り掛けます。丁寧に世話をします。トマトもおいしく実り、友人に差し上げます。

半病人ですが、トマトの支柱は全部自分で立てます。ヘルパーさんが見てはらはらすることもありますが、私は自分で仕事量はコントロールできます。

(このコントロールについてですが、以前、ある病院のガーデンの手入れというボランティアしていた時、仲間との共同仕事なので、自分の体調に合わせてということが出来ず、無理をしていまい、具合を悪くしてしまったことがありました。しかし、自宅でなら、他人に気兼ねすることなく作業が出来ます。)

それに愛猫が居ます。もう15年も一緒に生活しています。私にとって花木、猫の世話が生きがいともいえるでしょう。生命の息吹を感じさせてくれます。自然界の見事な調和の中に身を置いているような気持ちにさせてくれます。もしかしたら、私はナチュラリストと言えるかもしれません。

勿論、それだけではありません。私は今こうしてブログで拙い文章を公開しています。これを行うために、今も読書やさまざまな情報を得るように努力しています。霊的真理もいつも必要に迫られて読み返す日々です。

このブログはある意味で自分自身の終活ですが、それだけに留まらず、皆さまが私の辿ってきた道程から何らかのヒントを得ていただけたら、それは意味があろうと思うのです。私のこれまでの人生は、取り立てるような内容もなく、成果といえるものは何もありません。研究者でもなく、教育者でもなく、ただの一介の看護師でした。ただ一つ、「札幌シルバーバーチの会」を立ち上げて8年ほど、読書会を続けたことぐらいでしょうか。

自身の健康維持はどのようにしているのか?という問の答えは、ここに書いてきたような事柄である、と言えます。日常生活を可能な限り正すこと。心(精神・魂)と肉体を完全に近いものに保つ努力です。自然を愛し畏怖しそれと一体化すべく、私は庭の花を愛します。猫を愛します。近所の犬や猫も愛します。若いころのように山登りはかないませんが、戸外に出て、さわやかな大気に触れます。霊的真理の深いところを求めて、これまで見過ごしてきたところをじっくりと読み返します。瞑想し祈ります。

食するものも吟味して選びます。出来るだけ汚染されていないもの(現代の食品は数々の農薬、防腐剤をはじめとする食品添加物にまみれている)を探します。食べ過ぎないようにします。

現代の諸問題は私という個人をも含めて、自然の摂理から逸脱した生き方からすべて発している、といえるでしょう。

その根源的な問題とは、摂理からの逸脱、摂理とは神の摂理でありますが、「利己主義」と「物質至上主義」です。この二つが私達人類を不幸にしている元凶であります。ですから、何をおいても私達は霊的真理、スピリチュアリズムを理解しなければならないということになります。今、私はその思いを一層深くして、残りの地上人生を送ろうと決意しています。

 

 伊丹仁朗  1963年、岡山大学医学部卒業。1981年頃より心身医学的側面からのガン・難病治療に取り組み、生きがい療法を開発。ガン闘病者とのモンブラン登山や笑いの研究で知られる。1995年、米国医学博士号を授与。柴田病院・難治疾患研究部勤務、ルイ・パストゥール医学研究センター客員研究員を経て、現在、すばるクリニック・腫瘍内科(岡山県倉敷市)においてガンの治療及び研究にあたっている
ガン治癒力を高める心理療法 精神腫瘍学的治療法』より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物界に見る自然の摂理、そして美

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知床半島

地上世界は至る所に不調和、混乱が渦巻いており、私はいつも見ないように、聞かないように、と自分自身のうちに籠って謂わば世捨て人のごとく振る舞うという傾向にありました。私はそのように自分を捉えていました。。

最近あまり聞かれなくなりましたが、ぺシニズム(悲観主義)という言葉があります。厭世主義とも訳されており、この世界は悪と悲惨に満ちたものだという人生観です。

しかし、私はそれとは少し異なります。どういうところがと言うならば、私は世捨て人のごとく生きているが世の中すべてことごとく否定ないしは諦める、ということではないという点です。つまりかすかな希望を抱いていたということになります。

ですから、私はペシミストではありませんでした。

 先日、「ヒグマを叱る男」というドキュメンタリーの総集編とも言えそうな番組を見る機会がありました。皆さんもご覧になった方がおられるかと思いますが、世界遺産“知床”の番屋に漁師として生きる80代の高齢の男性と、そこでヒグマと共存する暮らしを取り上げたものです。以前にも部分的に放映していて視聴してきましたが、この度再度見ることでとても感動しましたので、ここで取り上げたいと思います。 

多い年で年間の観光客数は188万人と沢山の人たちが訪れています。北海道に住む私も当然訪れたことがあります。別の時のブログでも紹介しましたが、私は動物、そして自然が大好きです。若いころは休暇といえばもっぱら登山でした。それも一人で、ということもしばしばでした。そんなときは本当に幸せを感じたものです。

番組では、ある年の知床は鮭の不漁が続き川への遡上もほとんどなく、ヒグマたちは飢えました。歩く力もなく砂浜に横たわり、かすかに頭を動かしています。そうして何頭ものヒグマたちはやせ細り飢え死にしました。その映像は本当に痛々しく、何とか助けてあげたいと思うほどです。しかし、漁師たちはそうはしません。それが自然界の掟だからです。

またある時は、浜辺を親子のヒグマが餌を求めてさまよいます。死んだ鮭を見つけ母グマは夢中で食べます。しかし、意外のことに子には一切与えようとはせず、子グマが口にしたのは母グマの口からこぼれ落ちた、ほんの小さな欠片だけでした。

そうして間もなく、その子グマは飢えて死んでしまいました。母グマは死んだ我が子を丁寧に嘗め回します。そこが山の斜面でしたから、子グマはそのまま転げ落ちてゆきました。母グマはそれを確かめると、静かにその場を去ります。

これはいったいどうしたということでしょうか?人間ならば、母は自分が食べずにたとえ飢え死にしたとしても子供を助けようとするでしょう。

しかし、母グマは自分が、親が、生き延びる道を選択するのです。自然界では親が死ぬと遠からずその子も死んでしまいます。ですから、まずは自分が生きのび、次の子に命を託すのです。それが自然の摂理なのです。実に厳しい掟です。

またもう一つの場面を紹介しましょう。

発情期を迎えた大きな雄グマが母子のヒグマの周りを遠巻きに徘徊しています。こういう時、雄グマは自分の遺伝子を残すためにその子グマを食い殺すことがあります。それで母グマは子を連れて大急ぎで山の奥へと逃げます。しばらくすると雄グマは何処かへ行ってしまいます。海岸でようやく子グマは母を発見し、さかんに甘えます。しかし、母グマは子を邪険に追い払うのです。“子別れ“です。子グマはそんなことを理解できませんから、何度も母グマに甘えて離れようとしません。すると、母グマが驚くべき行動をします。何と、母グマは座って(皆さんはパンダの授乳シーンをどこかでご覧になったことがあるかもしれませんが)あのようなスタイルで子供に授乳したのです。子供は十分におっぱいを飲み終えると、静かにそこを離れてゆきます。こうした場面を見るのは初めてではありません。以前、キタキツネも同じ行動をしていたのを知ってはいましたが、改めて動物たちの行動の神秘さ、気高さは胸を打つものがありました。

動物たちは本能でどうすべきかを知っているのです。「本能」、まさしく全ての創造主であられる神の力のなせる業です。

それにしても、同じ大いなる神の御業である人間のありようは、どうしたというのでしょう。

昨今、幾つかの先進国では子供には家の手伝いなど一切させずに、ただただ勉強だけさせます。生活の知恵は全く身に付きません。大人との付き合いは親と教師のみ、入社試験にも親が同伴します。そして社会人になってゆきます。人との付き合い方が分かりません。どのようにコミニュケートすればよいのか分かりません。当然、営業成績も上がりません。上司に叱られます。すぐにへこみます。翌日から出社してこなくなります。

まったくもって自立しておらず、到底どんな職業でもやっていけないことでしょう。こうして見ると、万物の霊長などと増長して動植物、自然界を支配しようとするなぞ、まったくもって身の程知らずも程がある、と言わざるを得ません。どうして斯くも悲しむべき有様になったのでしょうか?これはほんの一例です。

歴史を通して人間は科学の恩恵により、多くの発見、発明をしてきました。遺伝子を操作し、これまでにはなかった生命体を作ろうとします。また、宇宙への野望に力を注ぎます。科学が全てを解決してくれるかのように思い込み、宇宙を貫く摂理は見ない、聞かないという科学万能主義、さらに自分、自国の物質的利益第一主義に陥り、悲劇と混乱の地球を形成してきました。

今、世界は新型コロナウイルス問題に翻弄されています。これは人間の間違った考え、行為により自然界からのしっぺ返しであると思われます。何が何処が間違いであったのか、間違いは正せねばなりません。自然を敬い、どうすべきかを教えてもらうことにより、解決の糸口が見えてくると思われます。特効薬、ワクチンで問題が解決するようなことではありません。

私が今回、知床を取り上げたのは、なにも自然が驚異に満ちた美しさゆえだけではありません。人間が自然界と調和し、共存するその在りように感銘を受けるからです。ここでの暮らしはまさにそれが実現できているのです。自然はもちろん、言葉では言い尽くされない美しさです。魂を癒してくれる最高の美です。

ドキュメンタリーのタイトルに「ヒグマを叱る男」とあります。ここではヒグマによる事故(人体にたいする被害)は一切起きていません。
漁師たちはヒグマの直ぐ傍で作業をしています。数メートルほどしか離れていません。
彼らヒグマが人間に一定の距離以上に近づくなら「こら!」と叱るのです。するとヒグマたちはそこから離れてゆきます。ヒグマは日本国内では最強の陸上動物で、最も恐れられている存在です。しかし、ここのヒグマたちは人間を襲うことはしません。人間との接し方を、かれらの親たちがそうしてきたように学習して来ているのです。

これらの実態をユネスコの調査団が現地調査で知り、深い感銘を受けた様子も映像に映っていました。
人間と野生動物であっても見事に共存・共生できるのです。私達はここ日本においてもこうした実績を有しているのです。何と力強く、そして希望を与えてくれることでしょう。私は本当にうれしく思います。

初めに、“世捨て人”のごとく生きてきたと書きましたが今は違います。10年ほど前から、私は未熟ながらスピリチュアリストとしての人生を歩んでおります。
スピリチュアリズムとは何か、これに関しては私の第一回のブログに記しました。ここにもう一度簡単に紹介いたします。 

スピリチュアリズムとはイエスを中心とする、地球圏霊界の高級霊が結集して計画された人類史上初めての地球人類救済計画です。それは「霊的真理」を地上にもたらすことにより、「神」「死」「死後の世界」「人生の目的」について知ってもらうことです。それにより、地上世界に悲劇を蔓延せてきた「物質至上主義」「利己主義」から脱却することを目指しているのです。戦争・紛争、発展途上国における飢餓、対する先進国における飽食・美食による肥満・生活習慣病、貧富の格差、環境破壊、動植物への虐待、精神性の凋落等々の地獄の様相からの脱却です。

これなくしては今人類が直面しているコロナウイルスによる災禍、そして上に揚げた数々の悲劇の解決法はないと確信しております。

今回は動物界のみごとな仕組みに神のみ業を見て取ることができました。私達は今こそ、自然界から謙虚になって学んでまいりたいものです。ご一緒にたとえ歩みは遅くとも確実な方法をもって臨みましょう。

 

 

無明の闇からの脱却

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小樽の海

 地上人生にはどうしてこのように悲劇、悲しみ、絶望が渦巻いているのでしょうか。
私たち人類は平和を希求してきたはずです。喜びを得ようとしてきたはずです。真の幸せを願ってきたはずです。それなのに何故にこんなにも願いと現実とが乖離しているのでしょうか?この事実を私達人類は長い歴史の中で、真剣に考えて来たでしょうか?疑問に感じなかったのでしょうか?何を学んできたのでしょうか?
歴史上には人間とこの宇宙に関して真摯に探究してきた人物は存在してきました。それは広く多くの分野におよびます。歴史家、科学者、宗教家、哲学者、教育者、思想家。

歴史の一点に誕生した私自身はどう感じて来たのか。それを振り返ってみます。

私は77年前にこの地上に誕生しました。時は第二次世界大戦最中で首都東京の下町でした。東京大空襲に見舞われました。その時の死者数は10万人と言われています。私はそこで辛うじて生き延びることが出来ました。被災後間もなく一家は親族を頼って北海道に暮らすこととなりました。

他の多くの国民と同様に、戦後の生活はいかにして生き延びるかであり、人間としての高尚な部分などは全く隅に追いやられて、生きることに精いっぱいで動物に近い状況でした。親はそうして子供たちを育てましたから、幼少のころから私は人間とはそのようなもの、と理解してきたように思います。(しかし、こうした体験は動植物とともに在る、自然との共生という存在の最も根源に関する貴重な体験となったと思います。)ただ、幼いながらも今は敗戦後という特殊な状況にある、という認識はあったように思います。

自分がどのように育てられてきたかによって、その人間が出来上がってゆきます。遺伝的要素がその人間を構成してゆくと言うことも事実ですが、それはある程度であり、環境による影響がその人を作る、というのが本当でしょう。
人間は自分の考え方が環境によって大きく影響されてきてしまうのです。人は自分の考えと思っていても、実は周りの、地域社会の、国の、あるいはグローバル化されている現在ではそこで喧伝されていることと自分が同化されてしまいます。人間社会を覆っている金銭欲、物欲、利己主義、争い、欺瞞。その姿が人間である、と信じているのかもしれません。あえて、美なるのも、真実、善なるものを求めない、また、幸せは求めても叶えられない、という諦めの思いが強く人々の心に浸透してしまっているように思います。今さえ良ければそれで良し、お金と美味しいものがあれば其れで良い、といように刹那的な快楽を求めていきます。

人間は己の置かれた環境の中で、得られた知識という限界の中でもがき苦しみながら生きてきたのです。“人間など所詮こんなもの”と考え、自分を納得させてきました。

人間の多くはこうした諦めの中に生き、そして死んでいきました。それでも心底から諦めてしまうことはできなできませんでした。

  • 人間とはいかなる存在か?
  • 何ゆえにこの地上に生まれてきたのか?
  • そして何処へ行くのか?

こうした疑問はどんなに自分自身をごまかしても、完全に打ち消すことは出来ませんでした。そうして、このことを知らない故に、人間は不幸・混乱から抜け出せなくなっているのです。知らなすぎ、無知の深淵にあるのです。
 たったの3つの項目でありますが、この内容は深く且つ膨大です。

長い歴史を掛けて我々人類は少しずつ進化してきました。残虐さはまだまだありますが、民主主義が世界に浸透し、中世の暗黒時代からはほんの少しマシになったといえるでしょう。
そして過去には知りえなかった真実が幾らかずつ理解できるようになったのです。
求める者には真理の宝庫の鍵が与えられます。どのような人物に対してもこの法則は適応されます。学びは少しずつ、着実に進めてゆけば良いでしょう。

「人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなたがた一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝にまさるものはありません。私どもはあなたがたに内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊の中に埋もれた霊のダイアモンドをお見せしようとしているのです。」      [シルバーバーチの霊訓」(四) p15 スピリチュリズム普及会版   

 ご存じの方もおられると思いますが、上記の文節はスピリチュアリズムを地上にもたらす為に、シルバーバーチと名乗る霊が交霊会で語った一部です。

 続いて同じページの次の言葉はいつも私を勇気付けてくれます。

「できるだけ高いバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ほっちでないこと、いつもまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでいてくれていることを自覚していただきたい。そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。」

 今私は年齢的・体力的にも多くのことは出来かねます。それでも地上に在るうちは、ほんの少しでも人々の役に立ちたいという願いを持って生きております。どうぞこの拙い文をお読みくださいました皆様が、それに続いてくださるなら、この上もない幸甚に存じます。

 

「生きづらさ」について

             今回は生きづらさ、についてです。

           希望のささやき~ 由紀さおり・安田祥子 - YouTube

生きずらさを大人になってから自覚する場合と、すでに子供の頃からそう感じてきた、という方も多いと思われます。きっかけはいろいろあるでしょうが、幼稚園に行きたくない、あるいはどうしても学校に行きたくない、と不登校になってしまった、さらには何とか社会に出て働き始めたものの馴染めない、ストレスが高じて鬱になり出社来ず、ドロップアウトしてしまう。

社会できちんと仕事をし、生活してはいるものの、周りの人達とは親密になれない、どこか浮いている、親友は一人もいない、何かと問題を起こしてしまうなど困難を感じている場合もあります。

今、不登校・引きこもり、ニートなど社会問題になっています。この社会という現実に馴染めない、違和感を感じる、そのために上記のような現象が起きてしまっているのです。
今、自宅に自室に引きこもっているあなたは、何故そうしているのでしょうか?
他の皆と同じようにどうして学校に行かないのでしょうか?
なぜ会社に行かなで引きこもっているのですか?

 外の世界は危険がいっぱいで自分を傷つける、恐怖、不安、どうして良いか分からない、学校や会社へゆく意味を見出せない、誰も友達はいない、相談する人なんか居ない、更には人間なんて信じられない、そもそも何でこの世に生まれて来たのかさえも判らない。譬え親であっても信じられない。信じられないけれど、自分ひとりでは生きてゆけない、だから取合えず自宅・自室に閉じこもる。

 自分の居場所が何処にもないのです。周りは皆「敵」に見えます。天涯孤独ともいえる状況です。希望が何処にも見出せないのです。できることならこの世から消えてしまいたい、とすら思います。そうして本当にそれを実行してしまう場合があります。でも、ちょっと待ってください、と今私は申し上げます。

私もかって、高いビルの上から身を投げようか、と思ったことがあります。ですが、その時、ふと、屋上から足を離し地面に落ちるまでのホンの0.何秒間に“しまった!早まった!”思ってもすでに取返しがつかない、と思ったのです。それでそれは実行に移すことはありませんでした。そうして今日の私が存在しています。

 人々は実は小さな穴の中、しかも暗く狭く、周囲が全く見渡せない世界に落ち込んでいると言えます。外の世界がどうなっているのかが分かりません。そもそもそこ以外に世界があるということすら理解できません。つまり、”井の中の蛙”です。そこが人生のすべてと思い込み、理不尽なこと、矛盾することがあっても、不満があっても我慢します。身動きが殆ど取れなくてもです。江戸時代の鎖国下にあった我々日本人もまたそういう状況でした。

しかし、それに納得し兼ねる者たちがそこで反旗を翻します。これはおかしい、これが人間のあるべき姿ではない、もっと違う世界があるはずだ、と。

若いかたには「井戸」といものがどういうものかピント来ないかもしれませんね。昔、私の子供時代には、家の前に井戸がありました。まさに”井戸”とはそのような代物です。
ついでですが、「お菊の皿」という怪談を聞いたことはありませんか?
その元となるものは幾つもあるそうですが、お菊という身分の低い女性が主の大事にしてきた皿を一枚割ってしまい、殺され、そして井戸に投げ込まれた、それを恨み、お菊の亡霊が夜な夜な現れる、という話です。井戸は命の水をくみ上げる大切なものであると同時に暗く悲惨なものの象徴とされてきました。

 ところで、引きこもっているあなたは、社会で何事も無いかのように過ごしている多くの方々よりも、むしろ私は立派であると思います。どういうことかと言いますと、それはこういうことです。

世の中は間違い、偽り、欺瞞、無知に満ちているにもかかわらず、井戸の中での生活しか知らないので、それを疑問に思わず、ただ多くの人たちがそうであるので、取りあえず“右へ倣え“形式に唯々諾々と流れに沿って歩いていると言えます。まるでロボットの様です。(最近のロボットは進化していて、かなり自律性を得ているようではありますが)人間とは本当はどうあるべきか、脳はあるが考えていない、目は開いているが見ていない、耳はあるが聞いてはいないのです。狭くそして深く暗い無知の井戸に居続けるのです。しかし、あなたはその誤りに気づいてしまったのです。だから、世間に自分の居場所がなく感じられるのです。

この社会は生きずらい、これは何処かおかしい、変だ、と。周りが変なのか、自分が変なのかわけが分からなくなってしまう。誰かが、あなたをあなたの自室から引きずり出してくれても、そこに光がなければまた同じことの繰り返しになってしまいます。そこはあなたの居場所ではないからです。

ではどうすればよいのでしょうか?

光明を賢明に求め続ること、諦めずに真実を求めること、としか私には言うことは出来ません。それでも真に求め続けるならば天はかならず答えてくださる、と申しあげます。

 次の言葉は、交霊会()での高級霊の祈りの言葉です。『願わくはあなた(神)のインスピレーションを受ける通路(チャンネル)が俗信に捉われず俗物に汚されることなく、彼らをつうじてあなた(神)のメッセージがふんだんに流入して、ますます多くの子らがあなたの真理のイルミメーションの中へ導かれんことを』※数人から十数人の人間が一部屋に集い、霊媒といわれる人物を通して霊界の住人である高級霊の言葉を聞く会を言う。20世紀にイギリスにおいて盛んに行われていた。
シルバーバーチの霊訓――スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ8章)スピリチュアリズム普及会版

『世間でいう“成功者”なるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手にいれたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じたものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。
シルバーバーチの霊訓――地上人類への最高の福音 3章)(スピリチュアリズム普及会版)

 人生は途切れることなく進んでいくように思われますが、時には一休みすることも必要と思います。何か変だな?あるいは疲れた・・・、と感じたときは休憩することが是非とも必要かと思います。

一休みしながら、ゆっくりすることです。そこで自分の人生を振り返ったり、反省したり、心に沁みる本を手にされて読んでください。「シルバーバーチの霊訓」を手にされてください。あるいは外国旅行なども良いかもしれません。

真面目に最短距離で成功を求めるばかりが人生ではないと私は思います。

ゆっくり、着実にときには遊びを入れて。そう楽しんで生きられたらそれは最高です。しかし、楽しみだけの人生など、ありえませんが。

 人生とは山あり谷ありで、喜びは苦しがあって初めて実感できるものだからです。病気をして初めて健康の有難さ、喜びを知るようになるのです。

そして、ここが大切なところとなりますが、そうした苦しみも辛さも、一人では持ちこたえられない、挫折してしまうことがあるのです。

 もう一つ今社会問題となってきている問題に“孤独死“があります
私は孤独死すべてを悲惨であり、なくすべきとは思いませんが、その多くの事例の背景には頼れる身近な人間が居ない、相談することもなく、ひっそりと一人で人生の幕を下ろしてしまうのです。これはやはり悲しいことです。

マザー・テレサはインドの路上で誰に看取られることもなく、息を引き取ろうとする老人の顔を、手を拭いてさしあげました。かたわらに寄り添い、老人を見送ったのです。これはどんなすぐれた行為にも勝る奇特な行為でありましょう。

そしていまも尚、喜びも悲しみも分かち合うことのできる他人がどうしても必要です。子供時代は親が、成長してからは友人、恋人がというふうに、人生には相棒・伴侶が必要なのです。

心から信頼できる他人です。ここがキーポイントです。

うわべだけの人間関係ではだめなのです。私は今一人暮らしです。やはり私はこの世を卒業するとき、心から信頼できる人に見送ってほしいと切に思います。

 人生には互いに信頼しあえる人が必要であるのは、臨終のときだけの話ではありません、生まれてからずっと必要です。ただ、間違えないでいただきたいのは、“ずっと”の意味です。なにも360日24時間いつも一緒、という意味ではありません。身は遠くにあっても心はいつも一緒、といういことです。

 子供は生まれて2~3歳までは親にべったりですが、それ以降ともなると、母親から離れても不安なく遊びに夢中になれます。それは母親が完全に自分を守ってくれている、という確信があるからです。喧嘩をして、あるいはケガをしても泣いて母親のもとへ駆け戻った来ます。母親は絶対なる信頼、安心の根源です。心理学用語では“安全基地”といいます。

 “生きづらさ“を感じて苦しんでおられるとしても、どうぞ諦めないでください。求める者には何時か必ず天は答えてくださることを信じて、どこかに希望の光はないだろうか、と目を凝らしてみてください。耳をそばだててください。手探りしてみてください。これが私からの切なるお願いです。

 

地上人生

 

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 前回も地上人生について述べてきました。今回はもう少し視点を変えて私の考えるところを述べてみたいと思います。

スビリチュアリズムが教えるところでは、人間は死んでも死なない永遠に生きる、としています。これは肉体を持って生きるということではなく、霊として永遠に生き続けるということであります。そして人間は地上生活で培った人格を携えて霊界での永遠の人生へと出発する事になるのです。
ここで何も準備をしないで未熟なまま霊界へ入ったとするなら、それはそれは惨めなこととなります。地上人生で人間性を豊かに、そして霊性を高めることがとても重要です。そこで、なによりも大切なこととして、霊界が確実に存在するということを理解しなければなりません。そうでないと、いざ死んで霊界に来た時、「私は誰?」「ここはどこ?」状態となり霊界で迷子状態となります。死の自覚も持てません。霊界へ来ても地上で生きているとしか思えず混乱し、どうしたら良いか分からないのです。しかしこうした状態も速いか遅いかの違いはありますが、多くの場合自分の置かれている状況を理解するに至ります。ただ中にはあまりにも無知で霊性が低い場合は地縛霊となって霊界の最下層に何百年も何千年も留まり続ける霊も存在します。

さて、こうした事実を踏まえると、私達は地上人生が何故大事なのかが幾らか理解がいくでしょう。
地上人生は実に人様々で、一律にこうあるべきというものではありません。

何故なら、人間は果たすべく自分の課題を携えて地上へ誕生してくるからです。ある人は地上人生を何の問題もないかに歩む人がいるかと思えば、ある人は常に病気がちで、苦しみの人生となるかもしれません。しかし、他をうらやんだり自分の人生を嘆いたりする必要はありません。それぞれの人生を精いっぱい誠実に歩むことが要請されているからです。私はスピリチュアリズムを知ることで、このことがはっきりと理解することが出来たことを本当に嬉しく、有難く思っています。

今日の人間社会は日本に限らず、世界中どこを見ても自分や自分の家族、自分の会社そして自国が一番大切、という自己中心主義に覆われています。これではいけません。
自分を超えて他のために生きるように方向を転換させなければなりません。いつの時代でも何処の国でも、助けを求めている人、あるいは生き物が存在しています。譬え非力な自分だったとしても某かの手助けが可能でしょう。遠いアフリカやアジアの飢える子供たち、病気や障害のある弱者といわれる人々、雨の日にも身を寄せる所もないホームレスの人など。また残酷な仕打ちの末、殺され人間の食糧とされる動物たち、増えすぎて無慈悲にも殺されてゆくペットたち。助けが必要な存在は数多く存在します。

哀れみ、慈悲の心が必要です。これを愛とも言います。こうした心のあり方は、同時に地球存続の問題につながります。地球温暖化、CO2の排出問題、森林伐採、環境破壊、農薬や化学物質による健康被害、精神性の崩壊。そして今回のコロナウイルスの脅威もです。間違った人間の営みがウイルスの暴走となって表れた、と私は捉えています。
先回のブログにも書きましたように、人類は叡智を結集させてこの禍から脱却しなければなりません。地球人類は己の力で問題を解決しなければなりません。そして大切な私たちの地球を守らなければなりません。ゴミや有害物質を生み出しても地球外へ捨てることもできません。地球はもうゴミで溢れています。ゴミのなかでも最も危惧するものが核廃棄物でしょう。宇宙船から一部のごみを廃棄しているようですがそれをしてはいけないのです。私達の身の周りを見渡してみましょう。ゴミで不潔になってはおりませんか?私という一個人は小宇宙です。地球も私も汚してはいけません。

ここから本題の地上生活中でどのようにしたら、人間として成長できるかについて述べてまいります。

スピリチュアリズムでは①霊主肉従 ②利他愛の実践 ③苦しみへの正しい対処により霊的成長ができると訓えています。

  • 霊主肉従とはなにか?

これは肉欲・物欲に染まらない清らかな生き方です。現代人はあまりにも多くの情報に曝されており、それらに翻弄されています。これでもか!というばかり物質に囲まれ日々暮らしています。ものが多いことで安心していられるのでしょうか・・・。

現代人は己の霊性が深く埋もれてしまって、自分自身が霊的な存在であることに気づけなくなっており、その不足を埋めるがごとくものを求めるように思います。

  • 利他愛の実践は先に述べた他のために生きる、ということになります。

利他の行為は人間だけが対象ではありません、先にも述べましたように、すべての動植物、そして無生物である全ての存在に対してでもあります。

   ●  苦しみへの正しい対処とは

私達は生きてゆくとき、何らかの苦を体験して行きます。病気、倒産、家庭問題、人間関係、災害、などなどがあります。
これに対しどのように立ち向かうか。”病気になった、自分はなんて不幸な星のもとに生まれたことか!”と天を恨む事はよくありません。そうなったのは結果です。原因があっての結果です。これを因果律と言いますね。これまで病気になるような生活をした来たかどうかを反省し、これからの生き方を正してゆくために与えられた試練と受け止めて前向きな生き方に変えてゆくのです。
ただし、これまでの人生を振り返る、原因は何か?と言っても必ずしも今生の人生ばかりではないことを知らねばなりません。過去世にまで原因が遡ることもありうるからです。つまりカルマといい、今生に病気として現れるということもあるということです。過去世については私達はどのような過ちをしてきたかは知ることはできません。しかしながら、結果を見れば凡その見当がつきます。。

今、例えとして病気について述べましたが、人生はまさに苦難の連続ともいえるほど次々に問題が浮上してきます。それらも受けとめ方は一緒となります。やってくる苦難は自分に必要であるために今現れたのですから、不平不満一杯で受けとめるのではなく、むしろ自分にとって有難いものと受け止めてください、というのです。実に難しいことのようですが、これも自分自身を高めるための修行であるともいえるでしょう。
努力なくして、楽をしてでは何ごとをもなしえません。学業でよい成績をとるにも、スポーツで良い成績を修めるにも、それは苦しい努力が必要であるのとなんら変わり在りありません。
永遠の霊界生活のためには、のほほんと地上人生を送っていてはまずいことになるのです。地上人生を有意義におくるようにと、親なる神が準備してくれた地上人生す。

”かわいい子には旅をさせろ”というわけです。地上人生とは、永遠の霊界生活のための準備期間であり、学校で言えば幼稚園か小学校に相当します。この期間に学ぶべき事をしっかり学ばなければ次のステージで困った事になります。前へ進むことが出来なくなってしまいます。永遠の、霊界生活に備えて今、必要な事柄を為してまいりましょう。今回は私がこれまでに学んだこと、経験したことを交えて述べました。なんらかの参考になれば幸いです。

                                 

 

一瞬の地上人生~されど大切な人生

f:id:gsirakaba:20200422161523p:plain地上人生とはいかにあるべきか、について考えます。

一瞬の地上人生ではあるが、大切な地上人生です。ですから、地上人生を真剣に大切に生きなければなりません。地上での出来事に無関心であってはならないのです。今苦しんでいる人に関心を向けなさい、そうして真に苦しんでいる人が問題を自分で解決するように手助けしてあげなさい、ということになると思います。

その人がその苦しみを自身の霊的成長の糧にするように手助けするということであります。ゆえに無暗に何でもかでも、助けるということは避けなければならないということになります。その苦しみがその人自身の霊的成長に必要なことであるなら、なにも手助けはせずに見守ることが必要ということになるのです。その苦しみはその人にとって必要なのです。
なにもせずに見守る、ということは見守る人にとっては辛いこと、苦しいことです。つまり共に苦しみを体験するということなのです。そうした苦しみについてはシルバーバーチも体験したことを述べています。

『時々、私は涙を流すことがあります。救いの手を差し伸べてはいけないことが分かっているからです。それが摂理だからです。その時の私の苦痛は、苦しんでいる本人よりも大きいことを知ってください 』 シルバーバーチの教え(上)P 102

このブログでも少し前に触れましたが、日本スピリチュアル・ヒーラーグループではスピリット・ヒーリングを行っています。そこでのスピリット・ヒーリングの目的を説明している文章の一部を以下に記します。
『"ヒーリング”という名称から人々は、病気治しが「スピリット・ヒーリング」の目的であると思っていますが、本当はそれが目的ではありません。もちろん霊医たちの心は、地上人の苦痛を取り除いてやりたいという愛の思いに満ちていますが、スピリット・ヒーリングの最終目的は、地上人の“霊的救い・魂の癒し”にあるのです。ヒーリングを通して、地上人の「霊的無知」という“魂の病気”を直そうとしているのです。』
この説明は、病気治しが主眼ではないと述べているのです。驚くことに病気は治っても治らなくてもどちらでも良い、というのです。魂の病気を治すことを目的としているというのです。

ここで目を転じて、現代西洋医学を見てみましょう。ここでは、病気を治すことはできておりません。驚かれるでしょうが本当のことなのです。
高血圧症や糖尿病という国民病ともいえる病気について、医師は薬を飲み続けてください、と言います。治りましたから薬は止めましょう、とはほとんどなりません。これは病気を治したことにはなりません。

現代西洋医学では、病気を治すことができないのです。かくも無力な状況にあります。病気が治るということは,もう病院へは行かなくても良い状態になることを言います。ただ症状を薬で抑える為に一生病院通いを続けるだけです。ほかの病気でも状況は同じです。風邪が治った、病気が治ったとしにたら、それは病院が、医師が、薬が治したのではなく、患者本人の備えている力が直したのです。その力とは規則正しい生活、すなわち適切な休養・運動、そして栄養と正しい心の持ち方などの本人の努力の成果なのです。病気は自分自身が治しているのです。

 発展途上国の多くの人々が貧困で飢餓に苦しんでいます。そこで食べ物を与えたとします。それはそれで、その時の命は救われます。しかし、それは一時の解決策であり真の問題解決にはなりえません。
一時的救済と同時に、再び飢えに瀕することから脱却する手助けをしなければならないのです。それはどのようにすれば良いのでしょうか?
貧困・格差、あるいは戦争・紛争はどうして生じるのか、これを明らかにしなければなりません。これらは個人が、国家が、“己が第一”という利己主義から脱却することで解決します。世界同胞みな兄弟であることに気づくことです。
自分や自分に与する者のみを大切にすることから脱却するのです。実に簡単な事なのです。それを人間は難しいことにしてしまいます。ただ欲張らなければよいのです。お金がそんなに大切ですか?物もそんなに沢山必要ですか?地位、名声、権力を欲しがることを卒業することです。
お金も物も、それらはべて一時的な意味でしかありません。人間は死後も生き続ける永遠の存在であるからには、そうした一時的な目に見える物に執着することで大切な地上人生を費やすことは無意味なことなのです。地上人生は永遠に続く霊界生活のための準備期間ですから、もっと大切なことに意識を向けてまいりたいものです。未熟者である自分ですが、そのことをいつも思い出すように気を付けています。

21世紀の現在、「霊的真理」がすでに高級霊界からこの地上世界に降ろされています。指針は示されているのです。本来ならば人類はその指針に沿った、摂理に一致した生き方をするべきなのです。しかし、すでに述べたように地上は悲惨な状況が展開されています。
悲しいことに、私達の地球にはまだまだ識字率の低い地域が数多く存在します。2015年、読み書きのできない大人は約7億8100万人という報告があります。また、その日の食糧にも事欠く人たちは2018年、8億2100万人(国連による報告)とあります。身を横たえる家もなく路上や野外で夜を過ごす人たち、劣悪な衛生状態の中で死んでゆく人々。これらの人々には霊的な成長を説いている暇はないのです。指針を指し示しても、そうした歩みがまるでできないのです。恩恵に与ることができないのです。今すぐに活用できる具体的な支援が必要なのです。高次の真理を示しても、受け付けられないのです。

繰り返します。こうした悲しむべき問題の根本的解決にはどうしたらよいでしょうか。一言で言うなら、世界に巣くう利己主義をなくし、利他愛に生きるようにすればよいのです。真の解決にはそれ以外にはありえません。これがこれまでに私が学んだ真理が教えるところです。
世界が利他愛に生きにるには、5年や10年でできるようなことではなく、何百年もあるいは1000年をも要することになるかもしれません。だからと言って何もせず手をこまねいていてはいけないのです。
こうした地道な具体的、物質的援助だけに終始するのではなく、一歩進んだ人たちに向け、霊的真理の普及を同時に進めることが求められています。具体的な物質的援助はやろうと思えば多くの人たちにも可能です。しかし、霊的真理の普及は先に霊的真理に導かれた者にしかできません。そしてそれがその者の使命でありましょう。

シルバーバーチが60年間、霊界通信を通して語り続けてきた「シルバーバーチの霊訓」は人類に是非とも必要な教えを網羅しています。
地上人の近視眼的視野では得られない、これまでの人類に欠けていた、無視してきた膨大な量の叡智が収められています。まさに人類に与えられた宝といえます。

この度の人類が向き合わされているコロナウイルスという災厄も、まさに大きな試練なのだろうと思われます。是非とも、互いに非難しあうのではなく、助け合って叡智を求めて乗り越え、さらに世界の平和へと転換させてまいりたいと思います。