一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

人間関係について

札幌にもようやく遅い春がやってきました。待ちに待った新しいスタートです。

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雪解けのフキノトウ

人間は社会的存在として造られていますから、一人では生きて行けません。必ず誰かと関わりを持ちながら存在し続けています。人生のサイクルともいうべき家庭、学校そして職場環境に身を置き切磋琢磨しながらそれぞれの段階を踏んでまいります。どの段階にあっても、人は幸せを求めます。私達はまずは衣食住という身体的欲求を満たし、次いで心情的には愛されたい、という欲求を持ちます。これは人間として当然の姿であり、何ら咎められるようなことではありません。

さて、ここで実際の在り様を見てみましょう。
私達は人間関係に於いて、第一に優しさを優先して求めてはいないでしょうか・・・。その結果、間違いや指導すべき所であってもそれをしない、「いいよ、いいよ、過ぎたことだから」などと言い、うやむやにし家庭では厳しさを嫌い、お友達親子になる、子供の言いなりになってしまう、しまいには子供の奴隷と化してしまうというありさまです。学校においても、教師は「そのうち気づくよ、自主性を重んじよう」などと言い甘やかし、指導らしきことは全くと言うほどなおざりにされたままです。これは職場でもまた然りです。子供や部下・後輩の人格を尊重しており正しいことである、という共通の認識が存在していそうです。しかし、それは違うと私は思います。「平等・公平」の使い方が間違っているからです。

人間としては子供であれ、乞食であれ(最近ではあまり使われない言葉ですが、都会の貧民街で物乞いする人たち)人格を有しており平等です。しかし役割としては親・教師・上司はそれぞれ果たなければならない役割があるのです。それを怠ることは責任の放棄となります。上に立つものの役割とは、下に立つものを教え導くことになります。間違いがあれば指摘してやらなければ、彼らは何時まで経っても気が付きません。「そのうち気づくだろう」など甘やかしていては好機を逃して後悔することとなります。
特に大人になってからは間違いを指摘することは、する方もされる方も辛いことです。しかし注意されることで反省することが出来ます。反省することなくしては進歩・向上は望めません。互いに辛いことではありますが、そこは厳しい愛の鞭、と真摯に捉えてまいりましょう。決して逆恨みなどしてはいけないのです。反省し謝罪することは大きな努力が必要で、勇気が試される時なのです。
優しさと厳しさ、これは両方が必要で、どちらかだけといことでは正しく成長することは出来ません。優しさと厳しさは丁度コインの表と裏の関係にあります。

責任についてですが、ではどうして彼らは責任を果たそうとしないのでしょうか?
子供に嫌われたくない、生徒たちに好かれたい、物分かりの良い上司でいたい。
子供、部下の事より自分が可愛いのです。自分第一なのです。自分が幸せなら他はどうなっても一切責任は取りません。取りたくないのです。自分が可愛いから、自己愛に陥っているからなのです。
とても厳しいことを申し上げました。
しかし、これらのことは現場における親や教師に全責任があると申しているのではありません。国家として、未来を担う子供たちをどのような人間に育ててゆくのか、という未来を見据えた展望を示せていない故の悲しい実情なのです。本当は親も教師もどのように指導するべきなのかが解らないのです。
とりあえず、国から示されたガイドラインに則って表面的な事柄に取り組むしかないのです。自分が育てられたように、あるいはそれを半面教師としてみなして子供を育てます。そして、周囲の人達がしているように、見様見真似で子育てをします。
周囲の人達、即ち世間は物質第一主義と利己愛に覆われていますから、当然、目先の目標は良い大学を出て、一流会社と言われるところに就職し、良い人と出会い結婚をする、子供を育て・・・・・、という流れに乗ることとなるのです。

こうして見てくると、親や教師も犠牲者に思えなくもないですが、当事者としてはそれに甘えていてはいけません。被害者意識ではダメで、当事者であるからこそなんとかしなければ、と奮闘努力が要請されるのです。自分が奮闘努力せずして、では誰がそれをするというのでしょうか?だれも居りません。いけない、と知りながら目を逸らす事を呼んで、それを「卑怯」と言います。

一人の人間のできることは本当に微々たることですが、自分に出来ることから、始めるしかありません。物事は一朝一夕には成しえません。これは真理です。コツコツと地道な努力をすることでしか、道は切り開けては行きません。

私は十数年まえに、スピリチュアリズムに出会いました。そこでは人間とは如何なる存在か?何のためにこの地球上に生まれてきたのか?どのように生きることが求められいるのか?死とはなにか?死後の生はあるのか?神は存在するのか?
こうしたことを学んでまいりました。
人類にとって極めて重要な内容が網羅されており、幾つかの言語で「シルバーバーチの霊訓」として出版されています。まさに「現代のバイブル」とも言うべき書籍です。関心のあるかたは是非お手にされて熟読されることを心より祈念いたします。

この地上生活は人間として成長・進化するための訓練場、学校でありますから、いつも安楽に暮らせるという風には創られていません。努力と苦労が必要であり、まさに山あり谷ありの茨の道でもあるのです。これを通過して人間は強く逞しくなれるのです。

人生の谷に低く落ちた人ほど高く登れるというのは真理です。もし今、貴方がとても深い谷底で苦しんでいるとしたなら、それは幸いなことです。あとは登る道しかないからです。登ことは本当に苦しいものです。登山の経験のある方なら、お解かりになるでしょうが、何のためにこんなに苦しいことを敢えてやっている?この答は十分に理解しておられることでしょう。

今回の内容は予てより書きたいと思ってきたことです。しかし、何分私には教育者としての経験は専門学校での僅かな経験しかなく、ましてや子育てという体験もなく、自信が持てませんでしたが、どうしても一声を発したく思い、書かせていただきました。充分に思うところを発揮できたとはいえませんが、お読みくださり有難うございました。

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          地球人類にとっての真のバイブル シルバーバーチの霊訓(一)

四住期について

四住期とは~今日はこれについて考えてまいります。

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インドのヒンズー教社会では人生を四つの時期に分けて捉えます。
これを「四住期」と言います。

第一は「学生期(がくしょうき)」であり、8歳から25歳ごろで目上の人の元で体と精神を鍛え、一人前の力を得る期間。
第二は「家住期」といい、25歳から50歳ごろで定年を迎える頃に相当し、一家の大黒柱的立場で家族を養う責任があり、子育てや仕事などを通して変化ある生活が楽しめる時期。
第三は「林住期」であり、50歳から75歳ごろであり、家族や社会のために働いた人も、その役目を終えての新なステージです。古代インドでは家庭や社会と離れて林の中で修行や瞑想をしたが、現代では自分の内面と向き合い、成熟を目指す段階と捉えられています。
第四は「遊行期」で75歳ごろからであり、最後のステージです。
人生の終焉に向けての準備をする時期。この世に対する執念をなくし、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める時期。その昔、インドのバラモン教では居住地さえ捨てて乞食として旅をしたということです。

私は予てよりヨーガ教師をしていたためもあり、インドに関しては関心がありました。この「四住期」についても知っていました。作家の五木寛之氏が「林住期」という本を記したことにより、日本でも知れる所となったようです。

私は今年に入ってから元気がありません。気力が湧きません。原因をこれと特定できませんが、身内が2人が他界したことも一因かとも思います。寂しいとか悲しいという思いは全くありません。
あるいは肉体の病気が進行していることは十分考えられます。少し歩くだけで呼吸が苦しいからです。

私はスピリチュアリストを自認しています。人間は死んでも彼方の世界で生き続ける、霊界は厳然として存在するという確信を持っています。其れなのに何故か?

死ぬのが怖いということではありません。しかし、正直なところ、死んだらどんな所に行くことになるのだろうか、という心配が何処かにありました。
しかし、そんな心配は無用です。行く先は因果律の働きにより自ずと決まって来るからです。安心して神の配剤に委ねるのです。
必要なのはそうした心配ではなく、今何を為すべきか?という事だけです。

今私は第四の「遊行期」にあり、人生の終焉に向けての準備をする時期です。
この世に対する執念をなくし、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める時期に該当します。お遍路さんになり巡礼や断食、瞑想三昧に生きるということではありません。
私に求められているのは何か、これを考えてみました。

その① 肉体と精神、魂の健康に努めること。

具体的には出来るだけ心を正し、正しい食、運動と休息に留意すること。
今の自分に必要な内容を見つけて実践することですが、これはかなりの努力・工夫が必要です。老化という足かせがあるので生半可な考えではすぐに挫折してしまいます。

そして、この世の執着を捨てる、これについてはかなり前から取り組んできました。というよりは、そもそも私は不器用さから、この世的な物及び出来事にはあまり関わらないで来たようです。結果、無関心で冷たい人間であったかもしれません。

スピリチュアリズムを知ってからは、物的な事柄に関してはさらに執着は薄れてきました。今家の中は最低生活に必要な物だけになりました。
総仕上げの遺言書の作成に取り掛かっています。

その② できる限りの事を行う。
ブログを通して、伝えたいことがあるなら、その努力をする。自分の周囲にいる人達には出来るだけ親切にし、且つ感謝を伝える。ブログだけではなく、周囲の人達にも折りに触れて、死は怖くないこと、霊界があることを話す。

その③ 素直に生きる。
人は知られている通り、一人では生きて行けない存在です。生まれてすぐに親、周囲の人に支えられ育ちます。死ぬときも同じです。段々年を取り自分ひとりでは何も出来なくなります。次第に人の助けが必要となります。

これまで何でも自分ひとりで出来てきたが、年を取るとそうは行かないので、できないことは素直に周囲の人のお世話になることです。これが共に生きる、という事の一側面でもあるのです。
最後は誰の世話にもならず、一人で恰好よく死にたい、などという人が居ますが、それは止めにすることです。そんなうまい話しはありません。(16年間一緒に生活した愛猫は、ある夜家を飛び出し、帰ってはきませんでした。そのまま何処かで死に場所をみつけたに相違ありません、猫は飼い主に迷惑をかけまいとする本能がそうさせるのです。)人間は猫のようにはまいりません。

私はこれまでの人生を他に依存せず、一人で頑張ってきたと思っていました。一人で何でもできる、寂しいなど思った事などない、一人だって平気だと強がり、負け惜しみの中で生きてまいりました。しかし、それもある時まででした。
“誰の世話にもならない“、など辛口をきいていても体力・気力が衰えるなら、嫌でも他人のお世話にならざるを得ません。それが現実なのです。もしも未だに強がりを言っている人物が居るとしたら、その者はまだ本当の意味で病気の苦しみなど、修行が足りないのかもしれません。人は弱いものです。強がりだけでは生きて行けません。ガチガチ、トゲトゲは止めにしました。そうやって人間は互いが助け合って生きるように作られているのです。
次いで言えば、人は個人的な関係だけではなく、社会、そして国家同士の関係に於いても同様であります。共に生きることです。助け合うということです。

争い・戦争からは不幸しか生まれて来ません。

以上が私の現在までの悟りです。大した事ではありません。極めて当たり前のことだけです。それでも私は今現在は幸せを感じています。それはなににも増して嬉しいことであります。ここに報告させていただきました。まことに有難うございます。

なぜ病人が増え続くのか

なぜ病人が増え続くのか

f:id:gsirakaba:20220115153213p:plainこのブログに初めて訪れる方も居られるでしょうから、私が何者かを申しあげます。長年看護師をしてきて沢山の病気の方に接しつつ、中間管理職という立場から医療の裏側も見てきました。また子供の頃から現在まで沢山の病気をしてきました。その経験から医療に関して様々な疑問を抱いてまいりました。この現状を何とかしなければならない、その思いは益々強くなり現在に至っております。

今は本当に多くの方が病気で苦しんでおられます。
医学が発展し高度な医療が行われています。それを誇りに思う医療者か沢山存在しますが、一向に病人の数は減ることがなく、むしろ増加の一途をたどっている現状があります。医療費の高騰が問題視されています。国家が破綻してしまうのではないかと危惧されて久しくなります。これはどう見ても異常事態です。人は年を経るにつれて病気になることが増えています。どうしてでしょか・・・。勿論子供であっても病気になりますし、ある人は先天的な病気を持って誕生してくることもあります。それでも年を取るにつれて病気は増えています。

壮年と言われる頃には皆さん,どこかに不調を感じるようになり、老年者の殆どの人は一つならず、体のあちこちに不調を感じています。
これをどう捉えるでしょうか・・・。
年を取ると病気の一つや二つ抱えるのは当たり前、と捉えてきたのではないでしょうか。しかし、果たしてそうでしょうか?というのも、中には100歳になってもどこにも不調を感ぜずに、矍鑠(かくしゃく)とされている方が存在します。どこに違いがあったのでしょうか。先ずはこのことについて考えてまいります。

人は年を重ねるから病気になるのではない

結論を言えば、それまでの人生をどう生きて来たか?ということになります。
つまり、病気になるような生き方をしてきたからに他ならないのです。 
(子供の病気や先天的な病気は別の要因が考えられる)

中國奥地における長寿調査ツアーの報告を以下に見てまいりましょう。下の表はある日の長寿者の食事内容です。
         第10次・巴馬長寿調査ツアー/森下長寿郷調査団 2017/12月より

      朝食    昼食    夕食   備考
楊〇菊さん/104歳/女 トウモロコシ粥・野菜 ご飯・野菜 牛乳・野菜 少し肉を入れる
蘭〇新さん/105歳/女 トウモロコシ粥 トウモロコ粥 トウモロコシ粥  
黄〇衣さん/120歳/女 トウモロコシ粥  トウモロコシパン トウモロコシ粥 おやつにイモ
暢〇英さん/102歳/女 米粉の麺・豚足スープ ご飯・野菜   一日2食

「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」(ホリスティック医学・健康学研究所刊)では、健康維持のためには “4つの健康条件”を挙げています。
それは心(精神)食・運動・休養であります。このどれもが歪なく保たれてこそ健康が維持できるというのです。
ここに挙げた高齢者はみな自然豊かな所で農業に従事し三世代、四世代と暮らしており、まさに自然と調和した生き方です。今回は食事内容のみ取り上げましたが、これを見ただけで、豊富な物と文明の利器に囲まれている私達先進国の人々の生活とは全くと言ってよいほどの違いが分かると思います。
心・食・運動・休養、この4つが見事に調和されていることが推察できます。
結論を言えば、様々な病気はこうした自然との調和から逸脱した結果なのです。
何も文明の利器を全て排除せよ、ということではありません。つまり、そのような”物”に支配されるではなく健康長寿のために、それらを利用するという考え方に変更することが大切という事なのです。さらに言うならば、“健康長寿”はなぜ必要か?という命題まで行きつきます。今回はそこまでの追究はせずまたの機会にしたいと思います。
私達日本人は長寿村の人達と同じ生活をすることは最早出来ません。ですが、近づくための努力は出来ます。

医療にどう向き合うか?   
先端医療技術は目覚ましいものがあります。ゲノム医療はがん患者さんの遺伝子変異を調べ、分子標的治療薬の開発が成されています。またips細胞を使ったがんの免疫治療の治験も開始されました。
このように各種の診断機器の開発や技術は格段の進歩が見られ、がんや様々な難病が近未来には克服されるかに思えます。しかし実態はそう上手くは行ってません。確かに診断技術は進んでおりますが、治療はというならば思うようにはなっていません。
がん患者は減るどころか増える一方です。がんは標準治療が推奨されており、それらは相変わらず人体に少なくない侵襲を及ぼします。
例えば食道がんのⅢ期の場合、食道の全摘術が標準治療となり、術後の生活は想像をはるかに超えたものとなることが多いのです。(失声・ダンピング症候群他)たとえ命が何年か永らえることが出来たしても、果たして受容できるものでしょうか・・・。
そして問題があります。「先生におまかせします」と言い、十分に自分の病気・病状・治療そして治療後の生活を知らないままに事を進めるなら、後に大きな悔恨を残すことになるのです。「お任せ医療」は絶対にいけません。このお任せ医療は少し昔の情報のない時代に、知識のない人々が専門家に任せるほかには手段がなかった時の名残りでしょう。もうそれは過去のことです。今もし、自分に医学的知識がないとするならば勉強するべきです。しかし高齢で学ぶことが難しい、あるいは病状が進んで自分で考えることも儘ならいとするならば、誰かに助けを求めるとよいでしょう。私はそう思います。ちなみに、私は自身の上顎洞腫瘍の治療方針の選択に迷ったときに、知人の医師が行っている「がん何でも相談」外来を訪れました。

予防医学について
なにより賢い生き方とは、病気ならないように生活を律することです。先に挙げた長寿村の方たちの生き方から学んでまいりたいものです。
「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」で述べられている健康維持のための “4つの条件” 心・食・運動・休養。この詳細は本書を手にされ、じっくりと学んでいただきたいと切に願います。

病気になって慌てて治療はどうしようと、じたばたしないために、ましてや壮絶な闘病をさけるためにも、まずは予防に力を注いでまいりましょう。
しかし、すでに病を抱えている、治療中だという方も多いことと思います。それでも出来ることは在ります。今受けている治療で疑問を感じるものがあれば、主治医とじっくりと話し合うことです。その他には、食事を変える、睡眠・休養の在り方を見直す、心の在り方を振り返ってみる、などいくらでもあります。

老婆心ながら申し上げたいことがあります。もし、主治医と上手くコミニュケーションが取れない、相性が悪いとしたなら、主治医を変えることです。恐れることは在りません。幸いにも我日本には沢山の医師が存在します。どこかにあなたと上手くコミニュケーションの取れる医師はいるはずです。

さらにここで少々医師の名誉のために述べたいと思います。”3時間待ちの3分間診療”という悪名高い言葉がありますが、これは医師その人に問題があるというよりは、システム上やむを得ない理由があります。
短時間に沢山の患者を診なければ、病院経営が成り立たない、そういう医療制度なのです。日本はそういう国なのです。この問題は一朝一夕には解決しないでしょう。そして、ここで覚えておかなければならないこととして、今日の医療とはそもそも「不確実で限界がある」という事実についてです。しかし、我が身を守る為の智慧は必要となります。それは一言で言うならば、”賢い患者になれ”に尽きるでしょう。これを「患者力を高める」と言います。医療の不確実性と限界を許容した上で患者力を高めてまいりましょう。
皆さまのご健闘をお祈りいたします。

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                       「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入」
ホリスティック医学・健康学研究所 スピリチュアリズムが明らかにした医学と健康の本質 - 健康フレンド

希望ある未来に向けて~霊的真理を求めて

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令和4年になりました。皆さま明けましておめでとうございます。

人は死んでも死なない
先月に続いてまた夢の話から始めます。少し前になりますが、夢の中で私は叫んでいます。そこは葬儀場の様で、そこにいる人たちは黒い喪服を着ています。
「人は死んでも死なない」「喪服もいらないのです」と叫んでいます。

私達は嫌な事、苦しいことを避けて通りたがります。その中で特に「死」の問題に関してはなるべく避けたがります。自分や身内の「死」についての話題は、出来るだけ避けようとします。実際私の周りもそういう事が起きています。
どうやら「死」を受け容れられない、怖いということのようです。「死」は分離であり、消滅と捉えるからでしょう。これまでの生き方の変更を迫られることは辛いことで、考えたくないのでしょう。これまでの生活が永遠に続かない事など、少し考えれば解りそうですが、当事者は思考ストップしてしまっています。
「死」で全てが終わりとなり何も残らない、残るのは遺灰のみという考え方では到底心穏やかでは居られません。虚しさ・悲しさ・残念さに襲われて当然でしょう。
なかには心の奥に封じ込めてきた神、天国地獄の観念が浮かび上がり、恐怖に慄く人もいることでしょう。「自分は生きてる間、何も良いことしてこなかった、むしろ悪智慧を働かせて来たので地獄に落ちることになるかもしれない」などです。「死」が不安・恐怖となるのです。

今、人々は神とは遠く離れた存在になってしまっています。本来ならば神は私達人間の創造主、即ち親であります。其れなのに一体、何故、何時からこうなってしまったのでしょうか・・・。
魂の深い所では神の存在を知っています。本来、人間は霊ですが日常の生活では極めて物質的な視点で自分と周りを見ています。霊的なことが解らなくなってしまったのです。肉体だけが自分と思い込んでいるのです。そのため、幸せは物質的に恵まれていることと捉えているのです。物質第一主義であり、お金・物・地位・名誉・権力に価値おいた生き方です。
そこには神・魂・愛といった精神的、霊的な要素は組み込まれていないのです。
そして、日常的にストレスや葛藤の中で苦しむこととなっています。

「死」とはなにか?
          夢占い】蝶の夢の意味25選!あなたの見た蝶の色や種類などで暗示が違う? | BELCY
「死」とは地べた這っていた青虫が蛹を経て、美しい蝶になることなのです。自由に大きな空を駆け巡ります。
私達は「死」の関門をくぐり抜けて、果てしなく広がる霊の世界へと誕生するのです。それは美しく祝福された新しい世界での生活が始まる事なのです。美しく、温かく、心の底から安らげる永遠の世界です。

戦争はありません。貧富の差はありません。飢える者も病者もいません。
全ての人はそれぞれ適材適所に於いて楽しく働いています。お金は必要ないので、すべて友のため隣人のための奉仕です。

しかし、これには但し書きが必要です。上記のように喜びの境涯へ行けるのは、地上生活が良心に恥じない生き方して来た者に限るということです。悪行を行ってきた者はそれに見合った境涯へと進むことになります。神の意志に添った生き方した者と、その真逆の生き方した者がいる一方、そのいずれでもなく、ただ人生を無意味に送った者はどのような境涯に居ることになるのでしょうか。残念ながら、こういうケースはとても多いように思われます。

無為に過ごす人生の行き着くところ
確固とした意志を持たないで生きてきた、周りに流されるままに生きてきた、こうした存在はある意味で無用な存在と言えます。
こうした人は地上に在っても、霊界に在っても、「考える」ということを好まない。
「考える」ということは疲れることであり、考えずに物事をそのまま放置してしまっている、ゆえに向上も発展もない。無気力で怠惰に生き続けることとなるのです。

地上人生をこうした怠惰で無気力な生き方をして霊界に行ったある霊との対話から、その一部を紹介します。

問:地上にいた時は何をしていたのですか?
霊:何もよいことはしませんでした。

問:今、どのような境涯にいるのですか?
霊:退屈している霊たちと一緒います。

問:どうして、長い間、向上もせずに迷っているのですか?
霊:地上で生命の火を心行くまでしっかり燃やさなかったために、何か不全感のようなものが残っているのです。紙がちゃんと燃えないと、滓のようなものが残ってしまうでしょう?あんな感じです。霊に肉体の滓のようなものが付着しており、完全にエーテル体に戻れないわけです。純粋なエーテル体に戻ってこそ、始めて向上を願うことが出来るというのに。

問:あなたのように、退屈に囚われている霊たちは、止めようと思えばその状態から抜け出られるのではないですか?
霊:何時もそうできるとは限りません。というのも、退屈が我々の意志を麻痺せているからです。
      アラン・カルデックの「霊との対話」(天国と地獄Ⅱ)浅岡夢二訳 
         怠惰な人生に対する「退屈」という罪―――無為に生きた霊 P180

上記の問答中に出で来る、「退屈が意志を麻痺せている」という所は非常に重要な意味があると思います。怠惰・無気力は意志を麻痺せ、簡単には抜け出せないということです。放って置くなら、無限に続く苦しみとなり得るのです。霊界ではそれを何とか打開しようと、彼らを地上近くに連れてきて、地上の霊媒接触せます。迷える霊は他界後すぐには霊界へ行けず、気づきを得るまで長らく幽界にとどまり続けます。ゆえに地上人とは接触もしやすいのです。また、本人自身が苦しみを通して本当に向上したい、という気持ちが芽生えて来るのを待つことにもなるのです。

私はこの無気力・怠惰が日本全体を広く覆っているように思えてなりません。このまま放置して良いはずはありません。この厚い壁を突破するためには、それ相応の力が必要です。平和ボケという言葉があります。日本はあの大戦後77年が経ちました。この間、大きな災害がありましたが今の所、他国からの侵略という脅威には晒されていません。しかし、油断してはいけないのです。世界の動きを見て分かる通り、危険は迫り来ているのです。私達の安全は自分たちで守らねばなりません。

希望ある未来に向けて
私達は何時までも日本は平和だ、などと安穏と暮らしていてはならないのです。世界は戦火のやむことがなく、飢えや飢餓、人権侵害、そしてジェノサイドさえ未だに存続しています。私達の周りをご覧ください。例えばコロナ禍を見ても、問題解決の糸口さえ見い出せず人々は右往左往しています。職を失い自由が制限され、自殺者が続出しています。到底これを許してはなりません。
今私達は膨大な量の科学的知識を手にしています。政治家や学者たちもただ手を拱いているわけではないにもかかわらず、一向に問題解決が出来ません。原因は本質を見だせないからなのです。私達を本当に幸せにする知識が必要です。それは地上世界に関する事だけではなく、神と人間、そして地上界と霊界を含む広い知識です。地上界に関することだけでは、私達を真に幸せにすることは叶いません。こうした霊界に関しての正しい理解こそ最も求められる知識なのです。霊的真理です。霊的真理とは、遠い過去から我々人類が必死に求めてきた問に答えるものであります。
即ち、「人間とは如何なる存在か」「人間は何のために存在するのか」「誰がこの広大無辺の宇宙を創造したのか」「神は存在するのか」「存在するとしたら、いかなる存在か」これらの理解なくしては、すべては虚しい努力となって仕舞います。土台がないから、そこに組み立てられた上部構造は立ち行かないのです。
人類は永い歴史を経て進化してきています。求めるなら道は開かれてまいります。私達は勇気と希望を持って前進してまいりましょう。私達人類の明るい未来を目指して共に歩んでまいりましょう。    

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霊界の導きとスピリチュアリズム

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去る11月27日は私の79回目の誕生日でした。
その日の夢で、自分の人生上の出来事の幾つかがパノラマのように映し出されました。死の扉を超えたその時に見る、あの全人生を映し出すパノラマではありませんでしたが、それに近い感じでしょうか。

私自身の全人生を霊界は全てご存じである、ということを明白に知らされたようであり、一段と霊界が身近に感じられました。

私のこれまでの人生は苦しみ・痛みの連続でありました。このように言うと、同情してほしいからか?とか不満があるのか?とか 言われそうですが、決してそのような甘えた心根からの事ではありません。誤解をして頂きたくないから申し上げますが、事実を客観的に考察したいのです。

さて、この夢では過去のある体験の場が映し出されています。その時は本当に苦しく、もう如何してよいか解らないという絶望の時でしたが、夢の中では私自身にはその霊的意義が理解出来ていて、むしろ幸せな気分なのです。もうすでに解っているのです。それは決して無駄な苦しみではなく、必要な試練であるという事を。

実際、その時の顕在意識では全く無自覚でしたが、魂のレベルでは実はすでに承知しての事であったと言えるのです。魂は求めていたのだと思います。苦難の歴史を自分自身に課すのです。
何かを手に入れるためには、それなりの努力を、犠牲を払わなければならない事は当然です。大きなものを得るには更なる努力を、犠牲を払わなければなりません。

今回、こうしたパノラマを見せていただいたのは、霊界からの嬉しいプレゼントに思われました。どういう事かというならば、それはこうです。

「全てを霊界側は見ていましたよ。一つも逃さず、あなたの人生カルテに書き記してありますよ。時には怖気づいて逃げ出したことや、小さく固まってしまったこともありましたが、一つ一つに勇敢に挑んだことが記録されていますよ。何一つ無駄になったことは在りません。」と霊界から言われているように私は受け止めました。実にありがたいことです。
とても嬉しく、且つ勇気付けられました。
これが79歳の誕生日に唯一の送られてきた、有難い祝いのメッセージでした。

私はこれまで、低い自己評価ばかりしてきました。それでも一つだけ自分でも誇れるところがあります。それは「一途さ」です。人はこれを評して、頑固だ、我を張る、などと言いますが、私にはこれが必要でした。これ無くしては今日の私はあり得ません。
真実を前にしては屈しない、神を絶対に裏切らない、という信念です。
これを頑なに守ってきました。

このような自分が十数年まえにスピリチュアリズムに出会いました。出会う、というよりは霊界が導いてくださったのです。
私の苦しい人生とは、スピリチュアリズムに出会うために必要な試練でした。それなくしては到底巡り合うことは出来なかったでしょう。
何も耕されない荒地には種を撒いても芽が出ません。もし出たとしても到底育ちません。種をまくためにはこれで良い、というまで耕されなくてはなりません。そして芽が出てからは絶えず水や肥料をやり、雑草の除去、そして十分な日光が必要です。その仕事を誰がするというのでしょうか・・・。それは自分自身がします。勿論、ここには霊界の絶大なる援助があり、ある時は同志・霊的兄弟姉妹の助けを借ります。大切な仕事であり、これなくしては事は成就しません。(ちなみに、私はガーデニングが趣味です。)

スピリチュアリズムとは「イエスによる人類救済運動」です。
所で何故、イエスによる人類の救済運動が必要なのでしょうか。イエスは2000年間に亘り、この地上世界の悲惨さを目の当たりにしてきました。
この間、何もせずにただ見ていたわけではありません。どの様にしたら地上の惨状をなくすことができるか、2000年前と同じく人類への熱い思いで救済の方策を練って来たのです。他の高級霊界の霊人たちとともにです。
そして100年ほど前にイギリスにおいてバーバーネルという霊媒を通して、シルバーバーチによる交霊会が行われる様になりました。これは霊界のイエスシルバーバーチという高級霊と地上のバーバネルという霊媒を使って、私達地上人に是非とも必要な霊訓を語らせる、という一大イベントだったのです。
ここでの膨大な内容が「シルバーバーチの霊訓」として纏められて、それが書籍として出版されています。私達はこれを読むことで霊的真理を詳しく知ることが出来ます。

今、地上世界は激動のときを迎えています。世界を共産化しようとする中共の脅威、情勢不安定なアメリカ、そして何処を向いてのか良いのか定まらない我が日本国。

私達はしっかりと背を伸ばし、目を見開き、何を為すべきかを見定めなくてはなりません。
シルバーバーチが言うように、地上世界を覆っている二つのがんをなくさねばならないのです。一つは“利己主義”そしてもう一つは“物質中心主義”です。この二つが全世界を覆って真理を見失わせ、人類を惑わせているのです。心を落ち着かせ、どこに真実があるのか、何に指針を求めると良いかを見つけだして頂きたいと切に願います。

今は願い求めるなら、それは与えられるという好機なのです。大切な人生を是非とも無駄に送らず、価値あるものとしてくださいます様切に願っています。

 

 

『霊的真理を知ればこんなに幸せになれる』 ~シルバーバーチ 

毎月1日にブログをアップしてきましたが、今回は事情があって遅くなりましたことをお詫びします。また今後も不定期となるかもしれません事を、お伝えしておきます。

人間は存在の始めから宗教を持っていたと云われています。
ではどうして人間は宗教を必要とするのでしょうか?
そもそも宗教とは一体何でしょうか?

 ある人は病気や人間関係における苦しみから救われたい、またある人は死後の幸福を得たい、またある人は現世の御利益を願って宗教に関わって来ました。

人間は何時の時代でも幸せになるために宗教を求めてきました。しかし、本当の幸せは単に苦しみから逃れることでもなく、また現世的御利益に与ることでもありません。人間は他の動植物と異なり、霊的存在として造られています。
すなわち親なる神は人間に自らの属性、すなわち神性を付与されたゆえに、人間は知らず知らずのうちに神を求めるのです。神に近づきたい、と願うようになるのです。
それが親と子の関係の本質です。親のような人間になりたい、親の願うような人間になりたい、という魂の欲求です。
 それはつまり「霊的成長」を成す、ということに尽きるのです。
今この地上では霊的無知があまりにも酷い状況にあります。これでは到底霊的成長は望むべくもありません。
「神とは如何なる存在か」、「神と人間の関係とは」、「死とは、死後の生とは」、「人間存在の目的」、「人間は如何に生きるべきか」などがまるで解っていないのです。

 宗教は、初めは霊格者が霊界からの啓示を受けて純粋にそのメッセージを説いていたはずでした。
それが時間の経過に伴い、後世の人間たちが自分たちに都合の良い内容に置き換え教義を構築して来ました。自分たちの宗教のみが人類を救うことができるかのように喧伝され、世界に広まって来てしまいました。
今地上世界は、世界宗教と言われるキリスト教イスラム教、仏教をはじめ、無数とも言える宗教が存在しています。
そして教義・儀式を重んじ、立派な教会堂・寺院を建立し外観をもってその威力、権威を誇示しています。
中身のない見せかけ、上辺だけです。あたかもそれが宗教であるかのように人々を思い込ませてきました。
時が来て、170年程まえに高級霊界から「霊的真理」が地上に降ろされました。
霊界において、イエスを中心とした高級霊達が結集し、周到な準備・計画に基づいて「霊的真理」を地上人類に知らせるべく実行に移されたのです。これがスピリチュアリズムの人類救済活動であります。霊的無知からの脱却です。
高級霊によりそれが地上人に伝えられたのです。これが「霊界通信」です。
スピリチュアリズムでは数多くの霊界通信が演出されましたが、その中でも「シルバーバーチの霊訓」は最高峰の霊訓であり、他の全てを凌駕しています。
シルバーバーチの霊訓」はイギリス人のモーリス・バーバネルという人物を霊媒とした「交霊会」において伝えられました。
「交霊会」とは参加者が一つの部屋に集まり、霊媒が中心に座して和気あいあいとした雰囲気のなかで、霊界からのメッセージが霊媒を通して語られるというものです。

あるときの交霊会でシルバーバーチは次のように語っています。「今日ここにいらっしゃる方にはぜひ、霊的真理を知ればこんなに幸せになれるということを身をもって示して頂きたいのです。」 
  (シルバーバーチの霊訓(四) P115 スピリチュリズム普及会版 )

私はこの言葉を、私自身に語られた言葉として受け止めました。 私はこれまでの人生で苦しみは沢山ありましたが、それでも取り立てて不幸だ、とは思っていませんでした。では幸せである、と思ってきたのでしょうか。いえ、それでも無かったように思います。しかし今、“幸せです“と断言します。それは以下のような事柄を理解し納得することができたからに他なりません。

  1. 今私は所謂「病気」ですが、それを“不幸“とは捉えていません。そうではなく、これまでの自分の生き方を振り返り、考え、反省し、改めることの出来る有難い事と受け止めているからです―――これまでの生き方のどこが間違っていたのか。
  2. 病気は自分にとっては、魂の向上の ために必要であった。肉体的にはボロボロですが、私の魂は喜こんでいます。                 
  3. 信頼できる同志・兄妹を得ることが出来たことは最高の喜びです。
    人間は神を親とした兄弟姉妹であり、互いに信頼し足らないところを補い合い、進化を目指す存在であるから、この地上で心を一つにできる、同志・兄弟姉妹はかけがいのない存在です。
  4. 人間は永遠なる存在です。 
    人間は死んでも死なない。縁あって絆を結んだ者同士は、永遠に共に進化・向上の道を歩むのです。 
  5. どのように進化の遅れている人に対しても温かい眼差しを向けることが可能となり、寛容心・慈悲の心を抱けるようになりました。

如何でしょうか。まだまだ乗り越えるべき課題はありますが、今私は幸せです。

どうぞ「霊的真理」に触れてみていただきたいと思います。
霊媒のモーリス・バーバネルは1981年に他界していますので、今はシルバーバーチ交霊会に直接参加することはできませんが、「シルバーバーチの霊訓」として書籍になって残っています。その殆どが先輩のスピリチュアリストにより日本語に翻訳されており、私たちはすぐにでも読むことが可能です。
スピリチュアリズム関連の自費出版書籍一覧 上記をご覧ください。シルバーバーチの訓えの殆どが書籍として出版されています。また、インターネット上でもそれらを読むことが出来ます。
私たち日本人は恵まれている、ということが出来ます。

人間は自分が幸せであるならば、これを他の人にもお裾分けしたいと考えます。

是非ともシルバーバーチの霊訓を手にされて、霊界からの真理に触れて下さいますよう願いいたします。

終わりに、付けくわえておきたいことがあります。今地上世界は混迷の極みに在ります。世界を共産化し、自国の支配下に置こうと策略を巡らしている中国の危機が迫っています。そして国内においては、精神性の破壊が加速している様子を見ることが出来ます。こうした現実を霊界の高級霊たちは見逃すことは在りません。黙って地上世界を見下ろしていることなど決してありません。力を結束して強力な働きかけをしているようであります。私達はそれに答えるよう、最大の努力をして参りたいものです。

     

 

統合失調症を考える

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                        精神疾患に関しては医師でもない私ですが、深い関心を持ってまいりました。そこで今日は精神医療、主に統合失調症への取り組みを概観し、いくつかの問題点を考察しようと思います。統合失調症は脳の機能が原因で約100人に1人が罹患するとされています。

精神面の探求をしたがらない医師たち
精神疾患は原因の特定も治療も困難です。精神面の探求をあまりしたがらない医師が多いのです。解らないことが多く、血液検査やMRI,CTなどの画像検査をしてもです。また人間の機微に関することに関わりたくない、あるいは関われないという理由からでしょうか・・・。
人間は肉体と精神そして霊からなる三位一体の存在であることを知らなければ、人間とは肉体だけの存在であり、せいぜい脳の作用である精神というものを考えてみましょう、という程度の認識となります。到底この複雑な人間を扱うことは出来ません。現代医学では統合失調症について原因を特定することが出来ていません。
現在解っていることは  
1,生物学的要因――遺伝、胎生期から2歳ぐらいにおける神経発達の障害
2,心理社会学的要因――過重なストレス、人生の岐路となる大きなイベント
この二つの要因をよくご覧ください。これらは生まれてくるならば、ほぼ避けられないものです。であるならば誰しもが統合失調症に罹患する可能性がある、ということになります。しかし、統合失調症である、うつ病であると診断されたとしても、社会・家族にとって不都合な者が精神科に連れてゆかれ、病人に仕立てられる、ということが当然のように行われていることを見逃してはなりません。

統合失調症の歴史
人類の発祥と同じぐらい古い起源を持つと言われており、旧約聖書のサムエル記、エゼキエル書にも悪魔の声に悩まされる幻視や幻聴の記述があります。
地球上のどの地域やどの人種・民族にも同じくらいの頻度で発症するとされています。
統合失調症のような精神病は悪魔や憑き物がついたのだと考えられたり、また創造性や予知能力などインスピレーションをもたらすものであると、社会の中で崇められ高い地位を得ていたことも知られています。精神病を患っていても社会の中で人々と暮らすことが可能であったわけです。しかし、17世紀後半になり合理主義的考えにより貧困が怠惰のせいとされたのと同じように、精神病は秩序を乱す邪魔者扱いにされるようになりました。そして巨大収容施設を作り、そこに貧民、精神病者、浮浪者、乞食、梅毒患者、罪人までもが一緒くたに監禁されるようになりました。
そうして18世紀末に入り非人道的な扱いからの解放運動が始りました。
人間的な側面から精神病を理解するという取り組みです。ここでようやく、外的な悪化要因と患者のパーソナリティが抱える脆弱性との相互作用によって精神障害が起こるという考えが提起されるようになりました。
幻覚や妄想といった症状自体よりも、その背後にある心の働きを探ることが患者を理解するうえで重要と指摘しており、今日の精神医療に大きな影響を与えることになりました。

日本における精神病者の扱い
明治33年に「精神病者監護法」が制定され、精神病者の私宅監置、即ち座敷牢への閉じ込めを肉親に義務付けました。これは病者の治療のためではなく、精神病者は何を仕出かすか解らない“危険な”存在と見なしてきた――世間の偏見――によるもので病者を社会から隔てるための措置であったのです。                      昭和39年にライシャワー元駐日大使が少年にナイフで切りつけられるという事件がおきました。翌年の40年には「精神衛生法」が改正され、さまざまな福祉的要素が盛り込まれましたが、同時に「緊急措置入院」という強制力を伴うものでもありました。

私は子供の時、8歳ごろだったと思いますが、ある家の離れに檻のようなものが設えてあり、そこに閉じ込められている女の人を見かけました。
後にそれは座敷牢でありその人は精神異常者だったことを理解しました。
精神疾患の患者さんを見たのはその時が初めてでした。長じて看護学生3年生になり精神科病棟での実習があり、そこで衝撃的な場面を幾つも目にすることになりました。
実例を幾つか挙げてみましょう。
● 閉鎖病棟保護室に14歳ほどの少年が収容されていました。壁の高いところに金網のついた窓が一つありました。その窓に向かって夜な夜な叫び声を発します。まるで月に吠える狼を連想させられました。
● 腰と膝を折り曲げたままの40代の男性はその姿勢のまま“スパイク、スパク”と呟いています。着衣はボロボロの上着のみで下半身はなにも身につけていなかったように記憶しています。長い間座敷牢へ監置されていた為体が曲がったまま拘縮してしまったのです。よほど狭く窮屈で体を伸ばすことも出来ない所だったことが推測されます。排泄の世話も十分ではなかったかもしれません。彼は元英語教師であったと聞かされました。発する言葉はただ”スパイク”という英語の単語だけであるというその姿からは到底人間とは思えない様相です。言葉を失ったことは疾患そのものの特徴である認知機能の低下と共に、長い間他人との会話が断たれていたための二つの要因が考えられます。
● 電気ショック、インシュリンショック療法を受ける患者さんは多数いました。治療室は床がタイル張りになっています。ショック療法によって大量の発汗があり、床がびしょ濡れになるので掃除がしやすいようにという理由からそうなっているのです。
● ロボトミー(★)を受けたある患者さんは手術を受けたという病識がないため、頭に巻いた包帯を自分で外し廊下を徘徊します。
 カッコウの巣の上で」というアメリカ映画を観たことがあるでしょうか。ある男性患者がロボトミーをうけ、廃人になります。
ロボトミーはエガス・モニスという人が考案し、臨床に於いて1949年から1975年にわたり世界中で実施されてきました。彼はこの功績でノーベル賞を受賞しています。(ちなみに私が学生としてここで実習したのは1960年です。)たとえ当時は世界的な功績と崇められてノーベル賞を受賞していても、時間と共にその間違いが明らかになる、ということの典型例でありましょう。これは前頭葉白質切載術であり人格変化を望ましい方向へ向けることが出来るという治療でしたが、深刻な副作用が起こり世界中で禁止となりました。
ここで見たような光景は多分今はもう見ることはないでしょう。もう60年も前のことです。当然ないものと信じます。

現在の精神医療の実
私は最近の精神科医療についての知識は寡聞にして殆どありません。書籍などでいくらかの知識は入手していますが十分ではありませんので、断言することは避けようと思いますが、社会的入院は相変わらず続いているようです。ノンフィックション作家の織田淳太郎氏の著書「精神医療に葬られた人々ー潜入ルポ社会的入院」にはそのことが克明に記されています。たとえば40年間入院生活を続けている一郎さん(仮名)、どうしてこのように長い間社会に復帰できないのでしょうか?最大の理由は社会に受け皿がないということです。また民間経営の精神科病院(ある理由により日本ではこれが圧倒的に多い)では常に満床にしておかなければ採算が取れないのです。患者が退院したがらない、というよりは病院が退院させないというのが実態の様です。
治療は主に薬物によります。
作用機序はたとえば神経伝達物質アセチルコリンの分泌を抑える、それにより症状を抑え込むということになります。しかし、そもそも人体には必要あって様々な機能が備えられているのであり、無駄なものは何一つとしてありません。それを抑える、というのは如何なものでしょうか。好ましくない副作用が程度の差こそあれ出現します。昔は虫垂炎になるとこの臓器は無くてもいい臓器だからと言って切除術をしました。しかし、今はこれは免疫細胞をつくる大事な働きがあることが知れるようになっています。薬は”やむを得ず使う”というスタンスで用いることが肝要かと私は思います。
心理療法として精神分析法、認知行動療法、来談者面談療法などがあります。
「精神科は今日もやりたい放題」の著者内海聡氏は修行・修養を勧めています。具体的には登山・マラソン太極拳・ヨーガ、断食、教育(コミニュケーション技術を含む)を挙げています。

私達は楽しいこと、華やかな事に興味がそそられ、汚いもの、嫌なものには蓋をして見ないように、無いもののようにした来たのではないでしょうか・・・。もしそうであるなら大いに反省し、同じ人類の仲間・兄弟である彼らに温かい目を向けていきたいものです。彼らは自己主張をすることの下手な不器用な存在です。弱者なのです。それを見ないふり・切り捨てる、ということがあってはなりません。それは恥ずべき事であり極めて非人間的な行いです。進化した人間のすることではありません。
現時点の人類は未だ未熟で利己主義と唯物思考に覆われています。それらを止めて利他主義に生きなければなりません。人.間は肉体だけの存在とする唯物的思考から、精神的・霊的存在であると認める生き方へと転換することです。悲惨さばかりが目につく昨今ですが、有用な情報を手に入れてください。それを祈願して今回の記事を終えます。長文になりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。

参考・引用文献
「精神医療に葬られた人々ー潜入ルポ社会的入院織田淳太郎(光文社)
統合失調症岡田尊司PHP新書
「精神科は今日もやりたい放題」内海聡 (三五館)
ブックレットシリーズNo1統合失調症ABC」上島国利監修(心の健康情報局すまいるナビゲーター)