一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

「生きづらさ」について

             今回は生きづらさ、についてです。

           希望のささやき~ 由紀さおり・安田祥子 - YouTube

生きずらさを大人になってから自覚する場合と、すでに子供の頃からそう感じてきた、という方も多いと思われます。きっかけはいろいろあるでしょうが、幼稚園に行きたくない、あるいはどうしても学校に行きたくない、と不登校になってしまった、さらには何とか社会に出て働き始めたものの馴染めない、ストレスが高じて鬱になり出社来ず、ドロップアウトしてしまう。

社会できちんと仕事をし、生活してはいるものの、周りの人達とは親密になれない、どこか浮いている、親友は一人もいない、何かと問題を起こしてしまうなど困難を感じている場合もあります。

今、不登校・引きこもり、ニートなど社会問題になっています。この社会という現実に馴染めない、違和感を感じる、そのために上記のような現象が起きてしまっているのです。
今、自宅に自室に引きこもっているあなたは、何故そうしているのでしょうか?
他の皆と同じようにどうして学校に行かないのでしょうか?
なぜ会社に行かなで引きこもっているのですか?

 外の世界は危険がいっぱいで自分を傷つける、恐怖、不安、どうして良いか分からない、学校や会社へゆく意味を見出せない、誰も友達はいない、相談する人なんか居ない、更には人間なんて信じられない、そもそも何でこの世に生まれて来たのかさえも判らない。譬え親であっても信じられない。信じられないけれど、自分ひとりでは生きてゆけない、だから取合えず自宅・自室に閉じこもる。

 自分の居場所が何処にもないのです。周りは皆「敵」に見えます。天涯孤独ともいえる状況です。希望が何処にも見出せないのです。できることならこの世から消えてしまいたい、とすら思います。そうして本当にそれを実行してしまう場合があります。でも、ちょっと待ってください、と今私は申し上げます。

私もかって、高いビルの上から身を投げようか、と思ったことがあります。ですが、その時、ふと、屋上から足を離し地面に落ちるまでのホンの0.何秒間に“しまった!早まった!”思ってもすでに取返しがつかない、と思ったのです。それでそれは実行に移すことはありませんでした。そうして今日の私が存在しています。

 人々は実は小さな穴の中、しかも暗く狭く、周囲が全く見渡せない世界に落ち込んでいると言えます。外の世界がどうなっているのかが分かりません。そもそもそこ以外に世界があるということすら理解できません。つまり、”井の中の蛙”です。そこが人生のすべてと思い込み、理不尽なこと、矛盾することがあっても、不満があっても我慢します。身動きが殆ど取れなくてもです。江戸時代の鎖国下にあった我々日本人もまたそういう状況でした。

しかし、それに納得し兼ねる者たちがそこで反旗を翻します。これはおかしい、これが人間のあるべき姿ではない、もっと違う世界があるはずだ、と。

若いかたには「井戸」といものがどういうものかピント来ないかもしれませんね。昔、私の子供時代には、家の前に井戸がありました。まさに”井戸”とはそのような代物です。
ついでですが、「お菊の皿」という怪談を聞いたことはありませんか?
その元となるものは幾つもあるそうですが、お菊という身分の低い女性が主の大事にしてきた皿を一枚割ってしまい、殺され、そして井戸に投げ込まれた、それを恨み、お菊の亡霊が夜な夜な現れる、という話です。井戸は命の水をくみ上げる大切なものであると同時に暗く悲惨なものの象徴とされてきました。

 ところで、引きこもっているあなたは、社会で何事も無いかのように過ごしている多くの方々よりも、むしろ私は立派であると思います。どういうことかと言いますと、それはこういうことです。

世の中は間違い、偽り、欺瞞、無知に満ちているにもかかわらず、井戸の中での生活しか知らないので、それを疑問に思わず、ただ多くの人たちがそうであるので、取りあえず“右へ倣え“形式に唯々諾々と流れに沿って歩いていると言えます。まるでロボットの様です。(最近のロボットは進化していて、かなり自律性を得ているようではありますが)人間とは本当はどうあるべきか、脳はあるが考えていない、目は開いているが見ていない、耳はあるが聞いてはいないのです。狭くそして深く暗い無知の井戸に居続けるのです。しかし、あなたはその誤りに気づいてしまったのです。だから、世間に自分の居場所がなく感じられるのです。

この社会は生きずらい、これは何処かおかしい、変だ、と。周りが変なのか、自分が変なのかわけが分からなくなってしまう。誰かが、あなたをあなたの自室から引きずり出してくれても、そこに光がなければまた同じことの繰り返しになってしまいます。そこはあなたの居場所ではないからです。

ではどうすればよいのでしょうか?

光明を賢明に求め続ること、諦めずに真実を求めること、としか私には言うことは出来ません。それでも真に求め続けるならば天はかならず答えてくださる、と申しあげます。

 次の言葉は、交霊会()での高級霊の祈りの言葉です。『願わくはあなた(神)のインスピレーションを受ける通路(チャンネル)が俗信に捉われず俗物に汚されることなく、彼らをつうじてあなた(神)のメッセージがふんだんに流入して、ますます多くの子らがあなたの真理のイルミメーションの中へ導かれんことを』※数人から十数人の人間が一部屋に集い、霊媒といわれる人物を通して霊界の住人である高級霊の言葉を聞く会を言う。20世紀にイギリスにおいて盛んに行われていた。
シルバーバーチの霊訓――スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ8章)スピリチュアリズム普及会版

『世間でいう“成功者”なるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手にいれたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じたものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。
シルバーバーチの霊訓――地上人類への最高の福音 3章)(スピリチュアリズム普及会版)

 人生は途切れることなく進んでいくように思われますが、時には一休みすることも必要と思います。何か変だな?あるいは疲れた・・・、と感じたときは休憩することが是非とも必要かと思います。

一休みしながら、ゆっくりすることです。そこで自分の人生を振り返ったり、反省したり、心に沁みる本を手にされて読んでください。「シルバーバーチの霊訓」を手にされてください。あるいは外国旅行なども良いかもしれません。

真面目に最短距離で成功を求めるばかりが人生ではないと私は思います。

ゆっくり、着実にときには遊びを入れて。そう楽しんで生きられたらそれは最高です。しかし、楽しみだけの人生など、ありえませんが。

 人生とは山あり谷ありで、喜びは苦しがあって初めて実感できるものだからです。病気をして初めて健康の有難さ、喜びを知るようになるのです。

そして、ここが大切なところとなりますが、そうした苦しみも辛さも、一人では持ちこたえられない、挫折してしまうことがあるのです。

 もう一つ今社会問題となってきている問題に“孤独死“があります
私は孤独死すべてを悲惨であり、なくすべきとは思いませんが、その多くの事例の背景には頼れる身近な人間が居ない、相談することもなく、ひっそりと一人で人生の幕を下ろしてしまうのです。これはやはり悲しいことです。

マザー・テレサはインドの路上で誰に看取られることもなく、息を引き取ろうとする老人の顔を、手を拭いてさしあげました。かたわらに寄り添い、老人を見送ったのです。これはどんなすぐれた行為にも勝る奇特な行為でありましょう。

そしていまも尚、喜びも悲しみも分かち合うことのできる他人がどうしても必要です。子供時代は親が、成長してからは友人、恋人がというふうに、人生には相棒・伴侶が必要なのです。

心から信頼できる他人です。ここがキーポイントです。

うわべだけの人間関係ではだめなのです。私は今一人暮らしです。やはり私はこの世を卒業するとき、心から信頼できる人に見送ってほしいと切に思います。

 人生には互いに信頼しあえる人が必要であるのは、臨終のときだけの話ではありません、生まれてからずっと必要です。ただ、間違えないでいただきたいのは、“ずっと”の意味です。なにも360日24時間いつも一緒、という意味ではありません。身は遠くにあっても心はいつも一緒、といういことです。

 子供は生まれて2~3歳までは親にべったりですが、それ以降ともなると、母親から離れても不安なく遊びに夢中になれます。それは母親が完全に自分を守ってくれている、という確信があるからです。喧嘩をして、あるいはケガをしても泣いて母親のもとへ駆け戻った来ます。母親は絶対なる信頼、安心の根源です。心理学用語では“安全基地”といいます。

 “生きづらさ“を感じて苦しんでおられるとしても、どうぞ諦めないでください。求める者には何時か必ず天は答えてくださることを信じて、どこかに希望の光はないだろうか、と目を凝らしてみてください。耳をそばだててください。手探りしてみてください。これが私からの切なるお願いです。