一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

宇宙を貫く真理~愛の摂理  

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地上世界は永い間、悲劇・悲しみ・苦しみの中にありました。無知のなかに置かれてきました。今現在もその最中にあります。

 神はご自身が愛なるがゆえに、ご自身の属性である愛を顕現させるために人間界、そしてこの全宇宙を創造されました。であるから、このように悲惨さが満ち満ちた地上世界を何とかして救おうとされてきました。高級霊を用いてこの悲惨な地球を救おうとされてきたのです。高級霊、それは高度に進化した我々の先輩にあたる人霊です。

 ある苦しみの中にいる一人の人物を取り上げてみましょう。

彼は事業に失敗して借金地獄に陥りました。もうどうになりません。銀行は勿論、友人知人もいざとなると誰も助けてはくれません。家族も離散してしまいました。もう夜逃げするか、自殺するしかないのです。

こうした状況は現代では頻繁に生じています。なぜ、彼はこんなに苦しまなければならないのでしょうか?
一体どこに神の愛を見つけることができるのでしょうか?
“神も仏も存在しない!”と嘆きます。

 転じて、霊界という所は一切の「悪」「悲劇」は存在しません。何時もそこには“愛”が満ち満ちていて、平和であり、心安らぐ世界です。ただし、低い階層にはさながら「地獄」ともいえそうな所はあります。(場所は存在しないのであって、そこはそういう魂の人間の集まる階層を言う)

 しかし、この地上世界はあまりにも無知と未熟さに覆われているのです。霊界の常識が通用しない世界なのです。
そこで、私達人類はみな、さまざまな身体的・精神的苦しみの体験をして、その中から真なるものを探し求めてゆかねばならないのです。
家庭であれ、組織であれ、また個人の内部に於いても、生きるプロセスにおいては、戦い・葛藤・不一致・仲たがいなどを繰り返すことになります。

“利他“の思いは何処へか消し飛んで、”エゴ”が首を擡げ、成長・進歩を願う己を悩ますこととなります。己自身が生き延びることに精一杯となり、一体どこに“愛”の欠片を見出すことができるでしょうか。

しかし、それでも私は“神の愛”が根底にあると言います。どうしてそのように言い切れるのでしょうか。全ての苦しみ、悲しみ、悲惨さは“無知“から生じていることはすでにこれまでのブログでも書きました。
私達はその無知を克服するために、学ばなければなりません。あなたが無知、と言っているのではありません。我々人類は皆総じてあまりも無知なのです。

 *私たち人間が何のために生まれてきたのか?

*どこからやってきたのか?

*神は存在するのか?存在するとしたら、どのような存在か?

*死んだらどうなるのか?

*死後の世界はあるのか?

これらについて全く答えられないのです。
科学がいくら進歩しても、これらの疑問に回答できないでしょう。
医学生理学者が、いくら細胞や遺伝子を調べてもその答えは見いだせないのです。
 学ぶことは易しいことではありません。強い意志と忍耐と努力が必要です。少々のことで諦めたり、放り出すようではいけません。問題解決のプロセスは簡単ではありません。
それは多くの要素が複雑に絡み合いごちゃごちゃになっているからです。その一つ一つを丁寧にひも解いてゆくことが必要となるので、痛みが伴います。無傷でというわけにはまいりません。忍耐が要求されます。

病気治療と同じです。病気を治すためには、まず、原因・要因を明らかにしなければなりません。次いで、それに見合った対処が必要です。痛みと苦しみが伴います。しかし、それは“治る“という希望があるから、耐えることが出来ます。的外れでは治りようもありません。“がん“が何故治らないか、考えたことがおありでしょうか?
原因を見極められていないからです。的外れの治療をします。当然治りません。いくら医師が誠意をもって治療に当っていたとしても、虚しいことなのです。悲しいことです。
それと全く同じことです。私達地球人類の不幸の原因を究明しなければなりません。苦しみつつ明日の、未来の希望の向かって努力することです。
厳しいけれど、苦しいけれど、問題に堂々と直面し、何をどうするか明らかにしてゆかねば、問題は何一つ解決に至りません。

一人では難しければ、他に信頼できる人の助けを借りましょう。
勇気と知恵を求めて祈りましょう。
祈って、なにが変わるだろうか?気休めではなかろうか?とお思いになるかもしれません。しかし、考えてみてください。何かを成し遂げたときは、それなりの行動をしました。そして、その行動を起こす原因となる想いがあったはずです。想いは祈りです。“こうしたい、こうなりたい”という願いです。その願いが真っ当で真摯なるものであるなら、必ず神・霊界は答えてくださいます。これを“祈り”と言います。
“こうしよう“と決めたら、迷いを払拭して他人がどう言おうと自信をもって堂々と進みましょう。こうした態度に関してはあるいは、周囲からの反発や非難は覚悟しなければなりません。
“冷たい人間だ”と思う人もいることでしょう。それに怯んではならないのです。それも時間が経つことで、互いに必要な痛み・苦しみであったとの理解に至ることでしょう。
 問題を見て見ぬふりをしていては、問題は永遠に引きずったままとなります。不幸から逃れることは出来ません。
人類の歴史を見ればそのことは明らかであります。他人がどう思おうが、己の良心に従って英断をもって前進しようではありませんか。
注意点としては、相手かまわず、太刀をふるってバッタバッタと切り込んでよい、ということではありません。その相手に相応しい時に、相応しいやりかたで接して行くことが要請されます。

非常に落ち込んでいるときに、優しさの欠片も持たずに、厳しい言葉を投げかけられるならば、その人は立ち直れなくなります。自殺さえしかねません。
適切な時に適切な働きかけが重要となります。難しいことであり、大いに悩むところではあります。私自身もそのことで随分と失敗を重ねてきました。
しかし、いつも言いますように地上人生は学ぶために在ります。神は愛なるが故にこうして私達を救おうとされています。どんな人にも失敗・過ちはあります。それも成長に必要な一プロセスなのだと理解し、今日も生きています。

私達は実に不完全で未熟者であります。それを自覚して努力の最中にあるのであって、これからも失敗や過ち、そして葛藤や苦しみは続くことでしょう。でも、それでよいのです。そうやって人類は少しづつ成長・進化してゆきます。大切なのはそれで諦めないことなのです。

 たいへんに説教じみた内容になりました。未熟な自分が大それた発言と、些か心苦しくはありますが、どうしても皆さまに伝えたいという思いから書かせていただきました。どこか貴方の心に残るものがあれが幸いと存じます。