一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

自由と喜びと霊的成長

 

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今日は「自由と喜びと霊的成長」に関して論じてみます。

ずっと前になりますが、ある宗教教団に属していた時、一つの囚われから解放され、心底からほっとしたことがあります。それは何と表現するのがふさわしいのか、その時にはまだ霊的真理を知らない時でしたが、いま考えるにそれはまさに霊界の大勢の霊人たちが共に喜び祝してくれている、という感覚とでも言いましょうか。
その時、私は琵琶湖近くの公園に一人佇んででいました。
見上げる空が急に表現できないように澄み渡り、まるで別世界の様でした。どこまでも明るく、光輝いていたのです。胸の中は、安堵・喜びといった想いでした。
そして最近も、あることを通して自由とは斯くも心地良いのもであるという体験をいたしました。

人は 何処の国に生まれたかによって、あるいは時代によって、そして学問の世界、思想・宗教の世界でも、それにに属することで一定の基準、規範、枠組みの中での判断・行動が要請されます。私達は法治国家日本に生まれ、憲法を始め多くの法律や条例などにより規制され、その枠組みの中で生きることになります。さらに世間には文化と言われるものや、常識とされているものが幅を利かせています。多くの人々はそれに取り込まれて身動きが出来なくなっています。まさに憲法で保証されているはずの自由が損なわれています。雁字搦めの有様です。たとえそれに何らかの不都合や違和感を感じたとしても、世の中とはそんなものだ、と妙に悟ったように諦めてしまいます。間違いも皆が言い続けるうちに、いつの間にか当たり前のこととされてしまいます。それ以上には疑いを持たず、受け入れています。洗脳と言っても過言ではないように思います。

 シルバーバーチは訓えの中で幾度にもわたって、“魂の自由”は神から子供である人間に付与された遺産である、と述べております。人間は神の操り人形やロボットではありません。自由意志を有した神の子供なのです。神は創造の御業の時“摂理“を設けられました。私達人類はこの摂理に従うも、また背くも付与された自由意志に任されてきたのです。私達は誰か他の人に“こうすべきだ、こうしてはいけない”など規制されて生きて行くのではなく、神の作られた摂理に従う事のみが要請されているのです。

  スピリチュアリズムでは人生の目的は「霊的成長」であると説いています。そして霊的成長とは”神と生きとし生けるものへの貢献”によって成し遂げられることになります。そうして、そうした歩みはまさに「幸せ」であるということが出来ます。
言い換えれば、「人生とは幸せを得るために在る」、ということが出来るのです。
今、人生が思う通りに行かなくて、あるいは病の中で苦しんでいるとしよう。こうした一見不幸と思えることも、魂の成長のための大事なステップであり、むしろ有難いことと捉えるのがスピリチュアリズムなのです。こうした苦しみはイコール不幸ではないということなのです。
例を挙げてみます。
愛する我が子のために犠牲になる親が居たとします。しかし彼・彼女は決して不幸ではなく、むしろ喜びさえ感じて居るかも知れないのです。
スピリチュアリズムでは、幸せとは如何なるものかを訓えてくれています。

 以下にすこし長くなりますが、「シルバーバーチの霊訓(四)」潮文社 p41~43 からの文章を引用します。 

『光と闇、日向と影、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして影はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。困難、障害、不利な条件、これらは皆魂の試練なのです。それを克服したとき、魂は一層充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。一体無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。勿論思われないでしょう。人生の喜び、笑いの味は、人生の辛酸を嘗め尽くして初めて分かります。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の肥やしです。そのうち、あなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返るときが参ります。そうすれば紆余曲折した一見とりとめのない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんと意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものを持っております。一体何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです。』

 続けてもう一つ「シルバーバーチの霊訓(一)」潮文社 p55より   

『悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に、深甚なる意味を持つものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸などは地上に人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。そもそも、その教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。』     

いまこそ、私達は神から付与されている最も尊い「自由」について考え、神の子供らしく堂々と生きてまいりましょう。そのために私達を知らないうちに縛り付けている様々な間違い、しがらみを明らかにしなければなりません。無知の闇に留まっていてはならないのです。探求心、勇気が必要です。

私は医療の世界に生きてきた人間です。そこには間違った考えによる多くの不幸が発生しています。度々申し上げていますが、病気は医師が、薬が直すようなものではありません。自分に備わっている自然治癒力によるものなのです。医師、そして薬はその手伝いをするにすぎません。そして薬は数々の副作用があります。薬の添付文書をみるとそこには驚くような副作用がこれでもか!というほど沢山記載されています。例えば、かって私が服用していた抗不整脈剤の添付文書の注意事項には”不整脈”と記載されているのです。不整脈を治そうとしているのに、副作用に”不整脈”とあるのです。頭は大混乱です。それを億面もなく、製薬会社は添付文書に記載しているのです。そして更に、医師はなんら疑問もなくそれを処方するのです。
また、私の友人は医師に勧められるままに、10種類以上の薬を服用しています。一つ一つの薬にこのような副作用があるのにそれを10種類も合わさったら一体どういうことが生じると思いますか?そもそも、その一つ一つは本当にその方に必要なものでしょうか?そうしてその友人はさらに新たに別の生活習慣病見に舞われました。脳梗塞です。勿論直接に薬との因果関係が証明されたわけではありません。が、当然何らかの作用(好ましからざる作用)があると考えられます。
薬の恐ろしさについて述べましたが、これは私達の身近な問題の一つにすぎません。さまざまな分野において、私達が知らないうちにそうした間違いをも間違いとも感じなくってしまっています。

世界は混迷の極みにありますが、これも光明に至るための私達人類に課せられた大いなる宿題と捉え、困難ではありますが地道に努力し、共に立ち向かってまいりましょう。