一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

洗脳について

                                 

今回は一スピリチュアリストとしての個人的見解を記したいと思います.
全体を観る
 人は自分の価値観に合えばその教えを納得し受け入れます。今日は宗教における洗脳について考えてみたいと思います。
 今、私は過去に関わりのあった者としては、決して看過できない事態に遭遇しています。統一教会は世界平和を解き、家庭を大事にしましょう、純潔を守りましょうなどを説きます。その理念は尊いもので容易に受けいれられます。私もそうした者の一人でした。しかし、物事の真偽は一面だけを見て判断をしていては誤りを犯します。「盲人像を見る」のたとえがあります。像の足を触った盲人は像とは柱のようなものだと言い、また別の盲人は鼻を触り、像とはチューブのようなものだと言います。

 宗教であれ、教育であれ、政治であれ全体を見据えなければ過ちをきたすのです。まず第一に見なければならないのが、その組織あるいは団体の挙げる理念・目標です。
  政治であれば、おそらく“国益”でありましょう。しかし、現時点では各国それぞれの国益であり、人類全体の益・幸福とはならず互いに己の主張を繰り返し、ついには戦争となってしまっているのが現状です。
  教育はどうでしょうか?幼児教育では”皆仲良くしましょう”と教えます。しかし、年齢が進むにつれ、他を排斥してでも上にのし上がることを学びます。熾烈な競争社会への参入を余儀なくされてしまいます。
 宗教の多くは御利益信仰の教えであり、自分中心、自分が幸せであればそれで良いのです。しかし、自己中心と平和は対極にあります。

 統一教会を見てみる
 理念・理想だけ見れば美しく容易に受け入れられます。それだけを語っていれば人々はついて行くかもしれません。しかし、実態を見ることでそれらの美辞麗句の数々は、単なる方便、あるいは騙しの手口であることが解ります。羊の皮を被ったオオカミには気を付けなければなりません。世界の平和はそうしたところからは到底実現するはずもありません。
 彼らは心の底から世界の平和を望んでいるのではありません。妄想・狂信のなかに留まり、己の理想を実現するためには手段を選ばず突っ走ってきました。人々の幸せを願っているのではありません。自分たちだけ(選ばれし者)が幸せであればそれで良しとしているとしか思えません。他の者がどうなろうと一向にかまわないのでしょう。
 表面に現れる華やかな建造物、儀式や行事に騙されてはなりません。それらはあくまでも自分たちの都合に良いように作り上げた飾り・成功譚にすぎません。

洗脳にいたる過程
 ここで問題となるのは“洗脳”という厄介なシステムです。どうしてこうも簡単に洗脳が行われてしまうのでしょうか?
それは古くから使われて来た“人の弱みを利用する”、“恐怖心を煽る”、”エリート意識をくすぐる”というやり方です。困難を抱えている人や人生に疲れて心の弱っている人達に近づき、こう語ります。
”先祖何代にも亘る悪因念がある、この悪因念を解かなければ今の災厄も苦しみからも救われない、そして先祖たちも永久に地獄から出ることは出来ない”と説き恐怖心を煽ります。献金するという行為で贖罪し、それにより神様に救ってもらえると説きます。そのためには教祖という存在が必要と説きます。そしてそれは絶対的なのだと説きます。
 現状から救われたい、死をも覚悟をしたような人たちは藁にもすがる想いでいますから、容易に彼らの手口に乗せられてしまいます。このような人達を宗教に頼る弱い人間、自分で考えることをしようとしない人間、と蔑んではなりません。彼らなりに模索してきました。確かに人間として未熟であったと言えるでしょう。しかし、人間とは多かれ少なかれ未熟さを抱えているのです。こうした弱い人間、そして教義に確信を持つ幹部たち(教育する側に立つ人達)はどうしたら、洗脳から開放されるのでしょうか?
 彼らは自分たちの教えに背くものがあれば、それはサタンの仕業と決めつけています。自分たちは最高の指導者に認められた選ばれし者であり、その与えられた使命を果たすことに喜びを見出し、心理的な高揚感に満たされます。困難・苦難を必要な事として受け入れる事が出来るようになります。
 こうした心理状態においては、他の教えを研究してみようと思わなくなります。彼らはこのように言います。”これ以上の教えがあるのなら、それに従う”と。しかし、口ではこのように謙譲、寛容な素振りはしても、決して他の教えを研究してみようとは思わないのです。恐らく心の底で、“これ以上の教えはない”と確信しているのでしょう。

洗脳状態からの開放
 こうした洗脳状態から開放されるにはどうしたらよいでしょう・・・。それはただ一つ、これまでに経験したことのない衝撃を受けることと思います。
「ショック療法」です。今回の事件はあるいはその糸口となるかもしれないと思います。自分たちの団体の正体を色眼鏡で見ることを止め、客観的に見つめることです。
反社会的行動  ・家庭の破壊  ・貧困  ・二世の悲劇  ・献金の行く先
 決して感情的に反応するのではなく冷静に考えてゆくことです。何故このような事柄が起ったのか・・・?突き詰めてゆくとそれはその教え、教義自体に問題があるからなのです。教義が間違っているということです。

間違った教義を捨てる
 指導的立場にある人達にとっては、この教えを捨てることはこれまでの自分自身の人生を丸ごと捨てることとなりますから、それは大変なことです。しかし、考えてみてほしいと思います。人生とはこの目で見える地上世界だけではないことは既にご存じのはずです。今、50歳60歳の方がこれまでの人生を綺麗さっぱりと捨て去り、新しく生まれ直して(魂の新生)、残り少ない地上人生と永遠に続く霊の世界で、何ら良心に恥じない生き方が出来るなら、それに勝る幸せなないでしょう。

 ここまで、私なりの意見を記してきました。かなり一方的な決めつけ、と受け止めた方ががおられるかと思いますが、スピリチュアリストとして、そして過去の経験と現状を鑑みてのことでありますのでご容赦を願います。

どうぞ良心に問いかけてくださいませ。

どうぞ霊的真理に触れてくださいませ。