一スピリチュアリストの声

 10年前から真理の探究をしています。                                          の途中にありますがこれまでにまなんだこと、経験したことを踏まえて綴ってまなびの途中にありますがこれまでに学んだこと、経験を踏まえてツズ                途中にありますが、これまでに知り得たこと、経験したことを混じえながら、今思う事を綴っていきます。

霊的新生について

スピリチュアリズムでは①霊的真理を正しく理解し、それを②忠実に実行、③霊的成長をしていくことが地上人類の目的としています。

 こうして霊的新生が成されて行くことになります。そこで今回は霊的新生について考えてまいります。私達人間は霊的な事柄に関しては酷い無知状態にあります。地球上のあらゆる惨状は霊的無知ゆえに生じています。これまでの地上の学問は寄って立つ確固とした真理を見出せないままに築き上げてきたため、どの分野に於いても中途半端で不完全の域に留まっています。真に人間を幸福にすることができないで来ました。
 そのため、霊界の高級霊たちがスピリチュアリズムという人類の霊的復興運動を地上に展開すべく働きかけて来ました。
その高級霊のひとりにシルバーバーチという霊がいます。この霊は3000年前に地上を去り高度に進化した私達の先輩です。その霊がこれまで人類が全く知らなかった数々の知識・叡智を伝えてくれました。私達人類の進むべき道を示してくれました。
人類が長い長い間、眠りこけて居たところを目覚めさせ、進歩・成長をして行くためには、こうした叡智が必要でした。

今回は9月の東京スピリチュアリズム・サークル読書会で学んだ内容を踏まえての記載となります。ではまず、①霊的真理を正しく理解するについてです。
 私達スピリチュアリストは「シルバーバーチの霊訓」を現在の地球上に於いては、最高の教えと受け止めています。それでは、私達は「シルバーバーチの霊訓」を本当に正しく理解しているのでしょうか?
 シルバーバーチを読んだ、という人は可成りの数に及ぶことと思われますが、それではどのぐらい読んだでしょうか。せいぜい1~2回ではないでしょうか。中には正しく理解していないことが多々あるようです。
 自分の感動した所はしっかりと読んではいるが、耳に痛いところはすっと流し、それで済ませてはいないでしょうか。また、シルバーバーチの言葉を自分の都合に合うように、捻じ曲げて解釈してしまうなどしてはいないでしょうか。
 点の理解・部分的理解となっては本当に理解したことにはなりません。全体を包括的・系統的に理解して初めて真の理解ということになるからです。
真理の学習は徹底した学習がどうしても必要です。1~2度の学習で済ませてよいものでは決してありません。さらに付け加えるなら、祈りと感謝の念が必要です。

次に②忠実に実行と言う事についてです。
 スピリチュアリズムの教えの中でも最も重要な事と言えば、“霊主肉従”という項目が挙げられます。全ての事柄において霊的なことを優先させるということです。
これに関して、私達は次のような言葉を口にしたり、あるいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。“そんなことを言っても現に今は地上にいるのだから、現実社会に適応しなければならない、そのような原理主義的な発想は出来ない“というものです。しかし、この考えは自分の都合です。私達はシルバーバーチの教えに忠実であろうとしているのではないですか?私達はどちらかの教えに従うことしかできません。折衷という考え・行動はあり得ません。勿論、今この地球という惑星はあまりにも未熟でありますから、何事も完璧というわけにはまいりません。今スグには出来なくとも、心を強くし努力することは出来ます。軸足をしっかりと霊界に置き、理想を見失うことなく堂々と立ち向かっていくしかありません。
 私は常にこう思うようにしています。“自分は今この世を旅しているが、この世の者ではない、身はこの世にあるが魂はいつも霊界に居る”と。つまり、自分は霊界人である。必要あって今地上に修行に来ているのである、ということです。努力によって私達は霊的成長ということが可能となります。

   ここから今回のテーマである③霊的成長(霊的新生)というところに入りたいと思います。霊的新生ということはこれまでの自分を捨て去り、新しく生まれ直すということに他なりません。古い自分、誤りや、未熟さ、こうした傾向を一掃し違う自分になるのです。慣れ親しんだ自分をすっかり捨て去る、ということは簡単に出来ることではありません。今流に言うならば、アイデンティティの問題に関わることになりますので正に死に値するといえます。これまでの常識・習慣・価値観・正義、これらを見直すのです。否定するのです。今一度、わたしたちは霊的に生まれ直すことが要請されています。一度死ぬのです。
”自分は何も捨てるものはない、全てこれまでと同じで何の問題もない、生まれ変わる必要などない”、と主張されるなら、その方は私達とは縁がなかったということでありましょう。しかし、そのような方でも、内心では自分の弱さ・未熟さを隠して置きたい、という心の現れではないかと私は思います。実はどんなに隠しても霊界からは全て見通されていることを思い出してください。
 本当にどうにもならない絶体絶命の窮地に立った時、初めて己の心を顧みることが出来るようになるのかもしれません。“生まれ変わる“ためには、深い内省の末に魂が揺り動かされて初めて可能となるのでしょう。敢えて言うならば、「荒療治」が必要と言ことになります。言い訳をしたり、シルバーバーチの言葉を自分の都合の良いように捻じ曲げて受け止めているうちは、自己変革・新生のスタートラインに立つことは出来ません。過酷ではありますが真に魂が目覚めるためには、こういう体験が何度でも味合うことになると思われます。一度だけでは足らないということもあり得ます。
 私事で恐縮ではありますが、私は死を連想するような病気を何度かしております。一度では十分に目覚めることが出来なかったならばその試練は何度でもやってきます。それを嫌な事、禍々しいと捉えるのではなく、至らないところを深く反省をし、この様にしてでも導いてくださる、神さまと霊界に感謝の念を捧げてまいりました。
 ただ、こうした試練は必ずしも今生の生き方に問題があるためばかりではありません。つまり前世・前々世・ず~と過去の生き方、さらに人類全体のカルマという問題がからんでいるということです。ですから、この試練は全部自分のせいと自分を責め、落ち込む必要はありません。だからと言って開き直ることを奨励しているわけではありません。
 スピリチュアリズムの目的は人類の魂を呼び覚まし、一人でも多くの人間に本当の自分に気付くことが出来るようになることにあります。日常生活の中に於いて霊の本性と属性を発揮することが出来るようになることです。
本来の人間の備える資質をシルバーバーチの言葉の中から探してみました。
・気高さ ・崇高さ ・威厳 ・豊かさ ・光輝 ・美しさ などです。
 これらはそれぞれの側面として現われることもありますが、すべて混然一体となって表現されるでしょう。例えば、美しさの中には更に寛容さや優しさ、温かさも含まれると思います。これらは全て美しく、そしていうならば愛そのものの現れでありましょう。
 人類の救いと言うとき、その人類の中に自分自身が含まれるという事をよく理解していなければならないでしょう。論評で良く耳にすることとして、社会が悪い、政治が悪い、学校が悪いなどを口にし、それを正せねばならない、と主張します。ではその社会は誰が作ったのか、自分自身の責任はまるで感じていないかのようです。自分自身は一体どのような人間なのか?という視点が欠落しています。
 物事を観るとき、全体を観る、そして自分自身を見る、という二つの視点が欠かせません。どちらかを抜きにして論じようとするなら、その点をあらかじめ断った上でなされるべきでありましょう。私達は評論家ではありません。あくまで霊的真理を土台とした実践者ですから、自分の都合の悪いことを棚上げしたまま、という態度はいけません。事を一般論にすり変えて潜り抜けようという図り事はなりません。たとえ一時、問題を先送りしたとしても解決しない限り、問題は永遠に未来へと引きずったままとなります。古くから言われている言葉があります。“人を変えようとする前に自分自身を変えよ”です。
最後にシルバーバーチの言葉を紹介して今回の記事を終わりといたします。
「地上には自分を変えようとせずに、世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革にはまず自分から始めなくてはなりません。地上人類の霊的新生という大変な事業に携わっていることは事実ですが、それにはまず、自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて魂の内界の神性を存分に発揮しなければなりません。」    シルバーバーチの教え(1)p164

 

死生観を持つことの大切さ

           花束の値段はいくら? 失敗しない花束のオーダー方法を教えます -セキララ☆ゼクシィ   

今回は現代西洋医学とホリスティック医学を概観しながら、死生観について書きます。

”死”は恐怖か?
    病気、特にがんと宣告されるなら、すぐさま“死“に直結させて落ち込み絶望を感じ、人生終わりと考えてしまう人がいます。死んだら自分という存在は消えてなくなってしまうのだろうか、あるいは死後どんな所へ行かされるのであろうか、愛する人と永遠に分かれ分かれになって仕舞うのだろうか、など不安は尽きません。
 多くの人達にとって“死“は恐怖です。今もその恐怖の中でもがいている人ははおられることでしょう。”死”とは何か?これが解らないままに人類は歴史を重ねてきました。医療界では“死“の問題は自分たちの関与する領域ではなく、宗教、僧侶や牧師のかかわる領域という認識できました.。

がんセンターに勤務する
 私は長年にわたり看護職に従事してきました。その間沢山の方の死に関わってきました。とくにがんセンターということもあって、がんで亡くなる方が殆どでした。その私自身も何度かがんに罹患しています。左右の乳がんと肺がんです。その他にも心不全に陥り、今も生活に制限がある状態です。若い頃からホスピスに関心があり、様々な勉強を重ねてまいりました。ホスピス病棟で働きたかったのですが、当時のがんセンターには残念ながらホスピス病棟はありませんでした。退職してからボランティアでホスピスの啓蒙や患者会の運営に関与して来ました。
 しかし、そこでの活動も限界を悟ることとなりました。というのも、宗教や魂に関することはタブー視されていたのです。がんに罹っているというのに死後の生や魂について語らない、とはとんでもない話です。ある時仏教の女性僧侶が会にやってきました。しかしその時、運営の責任者が次のように言いました。「今後はお出でにならないでください」と。また私は同時期にホリスティック医療にも関心を持ち学んでいました。
 現代西洋医学は病気を観ても患者を診ない、病気治療とは傷んだ臓器を元に戻すことという唯物的医療です。こうした人間を肉体のみとするとんでもない間違いを犯していますので、そのNPOも多分にもれず、その流れを踏襲していたのは無理からぬことでした。この頃、私はすでにスピリチュアリズムを学んでいましたから、そこでの仕事は出来ないと悟りそこを去ることになりました。

現代西洋医学の実体
 現代西洋医学は「唯物的人間機械論」を土台にしており、ただ寿命を長引かせることにその目的を置いています。そこには人間とはどのような存在なのかという視点が全くと言ってよいほど欠落しています。人間とは霊と精神と肉体から構成されているという視点です。ホリスティック医療については、その必要性が叫ばれるようになってから久しくなります。しかし現代西洋医学の世界ではなかなか受け入れようとしません。インフォームドコンセントセカンドオピニオンという言葉もすでに多くの患者たちは知っています。こうした中にあってもまだまだ患者たちは弱い立場に置かれ、医師主導のまま傷んだ臓器及び周辺のリンパ節を切除する拡大郭清術や過酷な抗がん剤治療を受けています。患者のQOL(生活の質)を保つという配慮がありません。食道がんの手術でも、前立腺がんの手術でも、どの部位のがんでも手術や抗がん剤による治療が行われており、身心に及ぼす侵襲は甚大なものがあります。
 医療者たちの考えには、「命あってなんぼのもの」ということが根底にあります。これはたとえ手術や抗がん剤治療によって辛かろうが障害が起ころうが、死んでしまっては元も子もないのだから”命のためだから全部我慢しろ”という事です。
医療というものは医師が主導すべきものであるという認識です。そうした雰囲気の中では、患者が自分の考えを述べると、医師は一笑に付すか機嫌を損ねます。それを忖度して患者たちはただ従うことになります。自分の思う事を率直に話せないのです。医療とはその人間の立場に立って、最善の治療が受けられるように配慮することが肝要ではないでしょうか。人間をトータルとしてとらえるなら、当然のことではないでしょうか。

ホリスティック医療の必要性
 こうした厳しく、且つ悲しい現実の中にも、気骨のある優れた医師は存在します。帯津良一という方でホリスティック医療の先駆者であり、日本ホリスティック医学協会会長をされて来ました。現在86歳になられます。志を持って埼玉にご自身の病院を作られ、現在は名誉院長をされております。治療内容は漢方薬・気功・鍼灸・食事療法、そして西洋医学をその患者に会うように組み合わせて行うというものです。
最近また彼の著書を読みました。「ガンに勝った人たちの死生観」という本です。“勝つ”という意味は必ずしも治癒することをさしているわけではありません。死を受け入れ自分に合った、あるいは自分の好む治療を選択し、穏やかにそして毅然として与えられた地上人生を全うする事を指しています。死んでもがんに負けたということにはならないのです。死生観を持つことで、がんに屈しないことを“勝つ”と表現しているのです。彼ら彼女たちは“死“を当然のこことして受け入れ、そして死後もすばらしい人生の旅を続けられるという希望をもつことが出来た人達なのです。
 次に著者が述べる死後の世界に関するファンタジーを紹介しましょう。同書の142ページから引用します。
「私達は、往路150億年、復路150億年、つまり300億年の循環の中に居るのですから、死は小さな通過点にすぎません。肉体を離れた私のエネルギーはたくましく、死を突き抜け光の中を新しい世界へと旅だって行くのです。これが私の思い描く死生観、死後の壮大なファンタジーです。好奇心の強い私は、自分の死後の150億年の未知の世界への冒険旅行を考えるだけで、胸がワクワクしてくるのです。」
 このような心で患者さんたちに向き合い治療を行っておられます。どの様なファンタジーを持つか、300億年の循環というのは本当か、という問題は依然として残されておりますが、死後の世界への希望を示せることはとても大切なことと思います。

スピリチュアリズムによる本当のホリスティック医学
 死後の世界を認めない、死んだら全て終わりだ、という前提のうえで繰り広げられる現代西洋医学の世界に身を置かざるを得ない私達患者は、実に息苦しく魂は窒息しそうです。辛く苦しい治療が好む好まないに関わらず展開していくことになるからです。
 ホリスティック医療はその問題を解決してくれる第一歩となります。しかし、現時点でのホリスティック医療はまだまだ乗り越えなければならない関門が幾つもありますから、これで一安心というわけにはいきません。そもそも人間とはどのような構成になっているのか、健康とはどのような状態をいい、病気とは如何なる状態か、ここの出発点があいまいのままでは、先へは進んでは行けません。

 スピリチュアリズムがこの地上で展開されるようになってから170年程たちますが、シルバーバーチという進化した霊が膨大な量の通信を送ってくれています。これにより、これまで人類が知ることの出来なかった霊的真理を知ることが可能となりました。これからこの混迷せる医学界を、真のホリスティックなものへと変えてゆくことが出来るようになることでしょう。希望があります。

自衛の手段~賢い患者になる
 理想を現実のものとするまで、ある程度の期間が必要でしょう。そんな今、私達は自衛の手段を構じなければ現代西洋医学の泥のなかに引きづり込まれることになります。常々申し上げていることですが、”賢い患者になりましょう”、ということです。医師の言う事を鵜呑みにせず、解らないことがあれば何ら恐れることなく質問することです。それでも疑問が残るなら、信頼のおける人物に相談することです。セカンドオピニオンを活用することも出来ます。その他の社会資源を活用することも出来ます。
 こうした対処の仕方はなにも健康問題に限ったことだけではありません。人生全般における生きる姿勢にも当然当てはまるのです。自分の人生は自分で切り開くのです。もちろん有る意味での運命、というか宿命は存在しますが、そのなかにあっても出来ることは在ります。せっかくこうして恵まれた日本という国に誕生したのですから、精一杯出来ることをして参りましょう。理論や具体的な方法は「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」ホリスティック医学・健康学研究所刊をご覧ください。必ずあなたのお役に立つことを保証します。皆さまの光溢れるこれからの人生を祈念して、今回の記事をを終わりとさていただきます。

 参考・引用文献
「ガンに勝った人たちの死生観」 主婦の友社 2004/04/01 帯津良一
「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」ホリスティック医学・健康学研究所刊 2021/10/01
  [見えない世界の科学が医療を変える」 でくのぼう出版 2015/05/21 長堀 優 
「やはり死ぬのはがんでよかった」 幻冬舎 2021/03/25 中村仁一

カルマの清算と苦しみの人類史

 シルバーバチの言う”全ての宗教は間違いであり、無い方が良い”ということに関して考察しましたので、それを僭越ながらここに述べさせて頂きます。あくまでも現時点の私自身の到達したレベルでの私見となることを始めにお断りさせて頂きます。
人類史は宗教と共に在った
 科学的世界観が広まった今、人間は努力によってそれまで不可能だったことを可能にし、進歩ができることを知るようになりました。人間主義個人主義とも相まって欧米、特にヨーロッパにおいては宗教離れが目立つようです。
 とは言え、人類は歴史上いつも何らかの宗教と共に生きてきました。きっても切り離せない関係にあったのです。我々日本人がたびたび口にする言葉に”私は無宗教です”というものがあります。ところが新年や7.5.3のお祝には神社に詣で、愛車には交通安全祈願のお守りをぶら下げ、結婚式はキリスト教会で行い、クリスマスを祝い、さらに葬式は仏式で執り行ったりします。信仰心は深くはないが(いや信仰心はなく、むしろ形式化している)、それなりに宗教と関わりを持っていることが伺えます。
 ヨーロッパでは2000年来キリスト教が主流でした。イエスが地上に居た時は弟子たちはイエスの教えを真に理解することができませんでした。そうして民衆の無知ゆえにイエスは十字架に架り地上を去ることになって仕舞いました。その後西暦1848年にスピリチュアリズムが勃興するまでの1800年間は、地上に一切の霊的光の差し込まない暗黒の時代となりました。この間、時の為政者・民衆の無知ゆえに圧政・貧困・病苦に苦しむ歴史が延々と続いてきました。神の書とされて来た聖書も、後の為政者たちの都合に合わせて書き加えや改竄が成され、イエスの教えからは大きく外れてしまったのです。間違った教え、贖罪論や三位一体説など大きな誤りを犯したのでした。
 日本では、平安時代中期に阿弥陀仏への他力本願を根本とする浄土思想がもたらされ、人々はそこに救いを求めました。当時の人々もまた圧政・戦争・天災・貧困・疫病に息も絶えだえ、死者が続出するありさまでしたから、来世にせめてもの希望を託し阿弥陀仏にすがったのです。他力本願の教えは自分で努力して向上しようという思想ではありません。
無知の暗黒のなかで
 冒頭でシルバーバーチは”全ての宗教は間違いであり、無い方が良い”と述べていることをあげました。それは、これまでの宗教は霊的知識を正しく教えないばかりか、霊的事実から大きくかけ離れた教えにより、人々を”霊的牢獄”に閉じ込め霊的成長を妨害してきたからと言うことなのです。
 当時の人々は無知の暗闇の中で暮らさざるを得ない状況でしたから、他力本願はダメとか、努力が足りないなど彼らを責めることは一切できません。しかし、間違いは間違いなのです。この後述べてまいりますが、その時はまだ人類全体としてのカルマの清算が成されておらず、救いのための宗教が様々起こされて来たものの、根本的な救いとは程遠く部分的救いでしかなく、更には間違いが多々ありました。しかし、今は明らかに事情が異なります。時代は大きく変わったのです。いつまでも旧態依然のままで良いはずはありません。
 クリスチャンたちは天国へ、仏教徒たちは極楽へ行けるようにと、ただすがって来ました。しかし、人間は自分自身で努力し進化・向上してゆくよう創造されていますから、お願いばかりの他力本願、間違った教えでは誰一人として天国、あるいは極楽には行けないのです。 最近の霊界通信で明らかにされたこととして、2018年に99歳で死去した現代の最も偉大なるキリスト教の伝道師と言われたビリーグラハムの霊界での様子が知らされました。それによると、彼は死後、混乱と激しい心の葛藤と苦悩の中にいるというのです。以下は霊界に行ったビリーグラハムの言葉です。
「驚いた。天国に行けると思っていた。それなりの地位をえていたから。自分で言うのも何だが、それにふさわしい場所へ赴くと思っていた。それなのに、そのはずだと思いこんでいた自分が大バカだったのだ。信じられない。どうしてこの私がこの境遇なのだ?の連続だった」
20世紀最大のカリスマ伝道師の死後の様子 スピリチュアリズム普及会 インフォメーション44からの抜粋   宗教界で最も偉大なる人物とされてきた彼でさえ、天国とは程遠い所に置かれていたのです。これが実態なのです。
地球を覆うカルマ
 この地上世界の霊的暗黒というのは、言うなれば地球人類全体としてのカルマということが出来ると思います。今、このカルマが清算されることで、ようやく地上にも霊的光が差し込むことができるようになったのです。
これにより、イエスの地上への霊的再臨が可能となったのです。
 では地球人類全体としてのカルマとは何でしょうか?それは2000年前に人類の無知ゆえにイエスを十字架上に追いやった罪を挙げることが出来るでしょう。歴史に”もし”ということは禁句ではありますが、もし、イエスがあのような死に方をしなかったなら、人類史は違っていたはずです。もっと人類は進化し霊的なことがらにも通じ、光明の中に暮らせたと思います。今のような戦乱・無慈悲と残酷・数々の誤り・混乱はなかったはずです。
神が人類と宇宙を創造した目的
 それでは人間は何故に創造されたのかを復習します。
ここでは、神が人類及び全ての被造物を創造されたということが前提となります。神は自分に似せて人間を霊的存在として創造しました。神は愛の存在でありますから人間や他の被造物を愛し、人間は神を愛するという関係を願ってです。人間は初めから完全ではありません。少しずつ肉体・精神・霊を成長させ進化してゆきます。つまり大人になってゆくのです。子供のうちは親から一方的に愛されますが、大人になり自ら愛の存在になることを神は願われ、私達を創造されたのです。つまり私達人間の究極の目的とは霊的成長を為し、親である神に似た存在となる、ということに尽きるのです。
エスの地上再臨とは
 スピリチュアリズム普及会では「イエスが地上に再臨を果たした」と、2021年4月にインフォメーション41号で公表しています。
エスの再臨は2000年間クリスチャン達が待ち望んできたことです。地上天国が実現し、永遠の救いに与ることができるというものでした。
 ”イエスの再臨は霊的な事ゆえ、私たち地上人には特別な人間以外には認識できません。しかし、すべての高級霊界人達が認めることであり、時間の経過とともに全世界に広まり認識されてゆくものとなります”、ともインフォメーション41号に述べられています。これが「霊的新時代の到来」ということなのです。真っ暗だった地球上にようやく霊的な光が差し込むことが出来るようになったのです。居眠りをしていてはなりません。光は何処にあるか、その片鱗はどこにあるか、騒がしい世にあっても注意深く耳を澄まし眼を凝らして頂きたいと思います。霊的新時代に相応しい人間となれるよう共に頑張りましょう。

洗脳について

                                 

今回は一スピリチュアリストとしての個人的見解を記したいと思います.
全体を観る
 人は自分の価値観に合えばその教えを納得し受け入れます。今日は宗教における洗脳について考えてみたいと思います。
 今、私は過去に関わりのあった者としては、決して看過できない事態に遭遇しています。統一教会は世界平和を解き、家庭を大事にしましょう、純潔を守りましょうなどを説きます。その理念は尊いもので容易に受けいれられます。私もそうした者の一人でした。しかし、物事の真偽は一面だけを見て判断をしていては誤りを犯します。「盲人像を見る」のたとえがあります。像の足を触った盲人は像とは柱のようなものだと言い、また別の盲人は鼻を触り、像とはチューブのようなものだと言います。

 宗教であれ、教育であれ、政治であれ全体を見据えなければ過ちをきたすのです。まず第一に見なければならないのが、その組織あるいは団体の挙げる理念・目標です。
  政治であれば、おそらく“国益”でありましょう。しかし、現時点では各国それぞれの国益であり、人類全体の益・幸福とはならず互いに己の主張を繰り返し、ついには戦争となってしまっているのが現状です。
  教育はどうでしょうか?幼児教育では”皆仲良くしましょう”と教えます。しかし、年齢が進むにつれ、他を排斥してでも上にのし上がることを学びます。熾烈な競争社会への参入を余儀なくされてしまいます。
 宗教の多くは御利益信仰の教えであり、自分中心、自分が幸せであればそれで良いのです。しかし、自己中心と平和は対極にあります。

 統一教会を見てみる
 理念・理想だけ見れば美しく容易に受け入れられます。それだけを語っていれば人々はついて行くかもしれません。しかし、実態を見ることでそれらの美辞麗句の数々は、単なる方便、あるいは騙しの手口であることが解ります。羊の皮を被ったオオカミには気を付けなければなりません。世界の平和はそうしたところからは到底実現するはずもありません。
 彼らは心の底から世界の平和を望んでいるのではありません。妄想・狂信のなかに留まり、己の理想を実現するためには手段を選ばず突っ走ってきました。人々の幸せを願っているのではありません。自分たちだけ(選ばれし者)が幸せであればそれで良しとしているとしか思えません。他の者がどうなろうと一向にかまわないのでしょう。
 表面に現れる華やかな建造物、儀式や行事に騙されてはなりません。それらはあくまでも自分たちの都合に良いように作り上げた飾り・成功譚にすぎません。

洗脳にいたる過程
 ここで問題となるのは“洗脳”という厄介なシステムです。どうしてこうも簡単に洗脳が行われてしまうのでしょうか?
それは古くから使われて来た“人の弱みを利用する”、“恐怖心を煽る”、”エリート意識をくすぐる”というやり方です。困難を抱えている人や人生に疲れて心の弱っている人達に近づき、こう語ります。
”先祖何代にも亘る悪因念がある、この悪因念を解かなければ今の災厄も苦しみからも救われない、そして先祖たちも永久に地獄から出ることは出来ない”と説き恐怖心を煽ります。献金するという行為で贖罪し、それにより神様に救ってもらえると説きます。そのためには教祖という存在が必要と説きます。そしてそれは絶対的なのだと説きます。
 現状から救われたい、死をも覚悟をしたような人たちは藁にもすがる想いでいますから、容易に彼らの手口に乗せられてしまいます。このような人達を宗教に頼る弱い人間、自分で考えることをしようとしない人間、と蔑んではなりません。彼らなりに模索してきました。確かに人間として未熟であったと言えるでしょう。しかし、人間とは多かれ少なかれ未熟さを抱えているのです。こうした弱い人間、そして教義に確信を持つ幹部たち(教育する側に立つ人達)はどうしたら、洗脳から開放されるのでしょうか?
 彼らは自分たちの教えに背くものがあれば、それはサタンの仕業と決めつけています。自分たちは最高の指導者に認められた選ばれし者であり、その与えられた使命を果たすことに喜びを見出し、心理的な高揚感に満たされます。困難・苦難を必要な事として受け入れる事が出来るようになります。
 こうした心理状態においては、他の教えを研究してみようと思わなくなります。彼らはこのように言います。”これ以上の教えがあるのなら、それに従う”と。しかし、口ではこのように謙譲、寛容な素振りはしても、決して他の教えを研究してみようとは思わないのです。恐らく心の底で、“これ以上の教えはない”と確信しているのでしょう。

洗脳状態からの開放
 こうした洗脳状態から開放されるにはどうしたらよいでしょう・・・。それはただ一つ、これまでに経験したことのない衝撃を受けることと思います。
「ショック療法」です。今回の事件はあるいはその糸口となるかもしれないと思います。自分たちの団体の正体を色眼鏡で見ることを止め、客観的に見つめることです。
反社会的行動  ・家庭の破壊  ・貧困  ・二世の悲劇  ・献金の行く先
 決して感情的に反応するのではなく冷静に考えてゆくことです。何故このような事柄が起ったのか・・・?突き詰めてゆくとそれはその教え、教義自体に問題があるからなのです。教義が間違っているということです。

間違った教義を捨てる
 指導的立場にある人達にとっては、この教えを捨てることはこれまでの自分自身の人生を丸ごと捨てることとなりますから、それは大変なことです。しかし、考えてみてほしいと思います。人生とはこの目で見える地上世界だけではないことは既にご存じのはずです。今、50歳60歳の方がこれまでの人生を綺麗さっぱりと捨て去り、新しく生まれ直して(魂の新生)、残り少ない地上人生と永遠に続く霊の世界で、何ら良心に恥じない生き方が出来るなら、それに勝る幸せなないでしょう。

 ここまで、私なりの意見を記してきました。かなり一方的な決めつけ、と受け止めた方ががおられるかと思いますが、スピリチュアリストとして、そして過去の経験と現状を鑑みてのことでありますのでご容赦を願います。

どうぞ良心に問いかけてくださいませ。

どうぞ霊的真理に触れてくださいませ。

霊的新時代の到来

  肺がん闘病記 - 希望の光 末期ガンから奇跡の生還 

雑多な知識からスピリチュアリズム
 私は読書が趣味でした。しかし、ここ最近あまり本を読みたいと思わなくなりました。なぜか?老化現象で、脳の機能が衰えて、意欲が低下し様々なことに対する興味・関心が薄れてきたのではないか・・・、とも考えました。しかし、どうやらそうではなく、興味・関心の対象がこれまでの種々雑多なことから、焦点が絞られてきたということが判明しました。
 これまでは様々な分野の書物に親しんできました。
宗教・思想・教育・健康・医療・心理学・環境問題・動物愛護関係などいろいろでした。それらは勿論、非常に大切ではありますが、人間の本質は霊であり、精神・魂・霊に関する事が人間にとって最も大切であることが明確になったということなのでした。
 ですから一番肝心な事ことを蔑ろにしていては、大切なこの地上人生を無駄にしていると言うことになります。地上人生は決して長くはありません。私は間もなく80歳の誕生日を迎えます。10数年ほど前に、この地獄の様相を呈している地球人類を霊的に救済しようとするスピリチュアリズムを知ったのです。
 勿論、遅すぎたということは在りません。スピリチュアリズムに出会うためにはそれなり の準備が成されていなければなりません。私にはそれだけの期間が必要だったということです。その期間は人それぞれであり、短期間の人もいれば、時間のかる人もいます。あるいは今回の地上人生中にはその出会いが訪れないかもしれません。いずれにしてもその時期が来ていないなら、真理は近づいてきてはくれません。近づいても理解をしてくれないからです。
 そうして時期が来て本物の霊的真理に出会ったなら、いつまでもどうでも良いものに執着していてはならないのです。
シルバーバーチはこのことを次のように言っています。
「私自身としては幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです」    地上人類への最高の福音 (スピリチュアリズム普及会版) P237  
 私達は霊的なことを全くと言ってよいほど知りません。霊的な赤子なのです。学び、大人にならなければ人間として成長したことになりません。この地上人生でどんなに学問をし、業績を積み名声を得たとしても、人間は霊的な存在でありますから、霊的成長が成されていないなら、それは虚しいことなのです。それにはまず、霊的真理を学ばなければなりません。
 長い歴史を通して私達人類は多くの宗教・思想を起こし、学んできましたがどれも役に立たなくなっています。いうならば、それらはもう御用済みということになります。というより正確にはその殆どが間違いであったということです。そのため、数知れないほどの惨劇が宗教により起きてきたことは周知のことです。
 しかし今、霊的新時代へと突入したのです。
悲劇の地球人類史からの脱却、人類の霊的新生、魂の革命の時を迎えたのです。新しい知識がもたらされているのです。
 人間は死んだらどうなるか、死とは何か、死後の生はあるのか、霊とは何か、神は存在するのか、人間はそもそも何の目的があってこの世に存在するのか、こうした最も根源的な問題を私達は蔑ろにし、上辺だけの幸せを求めて右往左往してきました。それで魂は本当に満足してきたでしょうか・・・。幸せであったでしょうか・・・。
決してそうではなく、いつも心の深いところで、こんなはずではない、と虚しさを感じて来たのではないでしょうか。
孤独の人生
 私自身の人生がそうでした。幼いころから私は孤独でした。親にも友達にも心を開いて接することはできず、夢想の世界にいたように思います。
 若い頃には宗教団体に属していましたが、そこでも何ら救いになることは見い出すことは叶わず、かえって苦しみで一杯となりました。10年間教団による囚われの身となり、そこで苦しみました。ようやく脱出し、看護職に復帰し役職にまで就きました。しかし、そうして自由の世界を得たはずでしたが、やはり上手く適応することが出来ず、質こそ違いますが苦しみは続くこととなりました。
 これはどういう事かと言うならば、私はこの世の常識に染まり切れない、納得できない事だらけだったのです。
この世の何処にも自分の居場所を見つけることが出来ないのです。
次のような言葉があります。「この世を旅するものであれ、この世の者となるなかれ」イエスの言葉とされています。この言葉はわたしにはとてもしっくりときます。
 この世は体験を積むための旅先であり、本来の住処ではありません。必要あって一時、旅をしているのです。本来の住処に在って人間は初めて魂の安らぎを覚え、安堵することが可能となるのです。
 私は度々、自分の人生は生きづらいものであったと口にしてきました。私にとってはこの世は馴染めない事だらけでした。
この世はしっくりしませんでした。自分の住む所ではないように感じていたのです。当時は特にそのことを意識していたわけではありませんでした。が、人間とはもっと自由で、温かくて、共に居て心地良いものだと思っていたのかもしれません。
 苦しむ若者にエールを送る
 こうした体験は何も私だけの特殊な体験ではありません。多くの若者が生きづらさに苦しんでいます。引きこもりの若者やうつに苦しんでいる若者、職場や社会に馴染めず、苦しんでいる人はなにも若者だけではありません。大人であっても苦しんでいる人達は大勢存在します。彼らもまた自分の居場所を見つけることができないでいるのです。
 私の過去のブログでも書きましたように、むしろそうした人たちは真面目で人生に真摯に向き合っている、純粋な魂の持ち主と言えるでしょう。彼らが勇気を出して真理の探求をしてくれる様激励したいと思います。

 地上人生は永遠の霊性進化(霊的成長)の道程の、ほんの一コマにすぎません。地上人生の最大の目的は、物質世界の体験を通して霊的成長の基礎を作ることです。地球はその意味で、霊的な訓練場所と言えます。

繰り返しとなりますが、もう一度書きます。
 霊界、地上の準備がようやく整い、降ろされたスピリチュアリズム(霊的真理)です。その真髄を理解し、主導されるイエスの願いに答えてまいりましょう。2000年前に人類の霊的新生をはかり、救いの使命を果たそうとした、あのイエスの切なる願いをです。

 

 

「神観」について

日本人の神観 
我々日本人の神観は実に様々です。古くからアニミズム(自然信仰)と言って、広く生物・無生物を問わず、全ての存在の中に霊魂が宿っているという考え方で精霊信仰とも言われていますが、今も尚、我々の中にこの考え方が浸透しているようです。
日本社会は多様化を認めると言いつつも、信仰に関して言えば、一神教キリスト教国ではないし、イスラム教の国でもありません。文化庁による宗教年鑑 2020年版によると、神道系・仏教系の信者は合わせて約95%となっており、一神教的な思考に馴れていません。圧倒的に多神教世界に馴染みがあるといえるかもしれません。   いま述べたように、我々日本人の神観ということに私はかなり前から関心がありました。というのも神について話をすると、必ずと言ってよいほど相手の神の概念が取りとめもなく曖昧模糊としているからです。
これではもう一歩たりとも前には進むことが出来ません。話はそこで虚しく終わります。日本人のこうした性格傾向はさきに述べたように、アニミズム多神教・仏教といった思想背景があり、知らず知らずのうちにそれで良し、とするように訓練づけられてきたのでしょうか。曖昧さを残す、決めつけない、何でもあり、狂信的にならない、他人に良い顔をする、と言った漠然さを許容するという態度とでもいいましょうか。

神道について 
神道アニミズムから発展したとされておりますが、神社ができる前までは、神は精霊であり、祭礼の毎に神を招き降ろし、榊や岩や人に憑依させていましたが、政策上の都合により神社という社をつくり、固定化された祭神を信仰の対象としてきました。そうして明治政府により「国家神道」となり、神道は宗教ではない、とされるような考えが生み出されています。

そもそも「神道」とはなにか?という問題が自ずと生起してきます。神道における神とは多神教の神であり、八百万の神々という風に様々な神が存在します。海の神、山の神、嵐のような自然界・自然現象を司る神々、商売や学問の神々、縁結びの神などをあげることが出来ます。

仏教について
ブッダは神の存在を説いていません。そうなると、では人間や万物はどのようにして生み出されてきたのかについて答えることが出来ません。「創造神」という考えは何処からも出てこないのです。何の原因もなく突然なにもないところから、あなたは出現した、ということですか? 理性はどこに行ってしまったのでしょうか?自分はどこから来たのでしょうか?父と母から生まれて来た。なるほどそれはその通りですが、それはあくまで肉体的次元のことです。唯物論者の考えることです。
あなたは肉体だけの存在ですか?そうではありません。肉体と精神と霊からなる存在であることを、思い出していただきたい。

ブッダは「死後の生」の問題は不問に賦したまま他界しました。ですから仏教徒にとっては、それは考えないことが正解としてきたのでしょう。解らないことがあってもそれはそれで良いとするのです。確かに科学が進歩し分明が栄えたからと言っても、今の我々にも解らないことがらは沢山あります。殆ど分かっていないとも言えます。人類が進歩することにより、それらは理解できるようになってまいります。しかし、だから学ばないでよいことにはなりません。学び続けること、真理の追究は人類の義務と私は信じています。

平和ボケの我々日本人
我々の周りを見渡すならば、専門家や学者と言われる人たちを除くと、解らないことがあってもあえて調べない、曖昧なままにしておくことが平気である、といった傾向が大いにあると私は常々感じてきました。どうしてでしょうか・・・。多分、今日明日に困ることにはならないからでしょう。明日の食べるものがない、としたらどうしようか?思案するはずです。ロシアが攻めてきたらどうしようか?しかし、お人よし・平和ボケの日本人はそんなことはないと勝手に決め込んでいます。事が生じたら、それはすでに遅いのです。事前に考え、手筈を整え準備を怠ってはならないのです。

私は身近な人と、良く「死んで霊界で永遠に暮らすとしたら、今どんな心がけで、どんな準備をしたらよいと思うか?」と聞きます。すると殆どの人はこう言います。「死んでみないと解らないことで、いまから考えても意味ない。」ここには、可能な限り努力をして成長したいという向上心が全く感じられません。行き当たりバッタリで自分自身に対してさえ責任を持ちません。悲しい事実です。

スピリチュアリズムにおける神観    
スピリチュリズムについては第一回の私のブログと先月に紹介しておきました。もしご覧になられていないならば、是非とも目を通してくださいませ。スピリチュリズムについての大枠はご理解頂けると思います。
スピリチュアリズムには、はっきりとした「神観」があります。思想体系「Ⅱ」「神観」にはこのように述べられています。項目だけを以下に記述します。

      ①   創造主としての神
   ② 大霊としての神
   ③   愛の始原としての神(愛なる神)
   ④ 摂理(法則)としての神
   ⑤ 究極の理想としての神

スピリチュアリズムの到来によって地球人類は、イエスの時代よりもさらに多くの啓示を受けることができるようになりました。スピリチュアリズムによってもたらされた神観は霊界の高級霊たちが総力を結集して地上に伝えたものなのです。

この内容を全て述べることはここでは致しません。
スピリチュアリズム普及会ではこの内容の全てを2時間21分のビデオにして販売しております。またその一部をYouTubeで公開しています。是非とも時間を作って視聴して頂きたいと思います。 皆さまのさらなる明るい未来のための一助となることを祈念にて今回のブログを終わりと致します。最後まで読んでくださり誠に有難うごだいました。

参考文献:「神道」の虚像と実像 井上寛司著 講談社現代新書     
        霊の発見 五木寛之鎌田東二 平凡社
                     文化庁による宗教年鑑 2020年版
          スピリチュアリズムの思想体系「Ⅱ」「神観」

スピリチュアリズムとは地球人類救済運動

スピリチュアリズムとは地球人類救済運動です。

霊的無知から発した地球上の悲劇をなくし霊的真理による人類救済をめざした霊界主導の霊性復古運動であります。
それでは地上を覆う悲劇とはどのようなものかを見てまいりましょう。
・地球全体から見た場合
戦争による人殺し、貧富の格差、それに伴う貧困者の餓死、精神性の凋落、動植物の虐待、環境破壊
・個人の内面を見た場合
悲しみ、苦しみ、痛み、恨みといった心の苦しみです。

世界と言っても、それは一人ひとりの個人から成り立っていますから、結局は一人ひとりの救済なくしては始まらないわけです。“自分は救済など必要としていない“と嘯く輩も居られるでしょうが、ご覧の通り地上には数々の悲劇に満ちています。それを横目でみながら、自分には関係ない、とすることは止めにしましょう。

私達人類は永い歴史を通して、本来の人間のあるべき姿というものを知らないで来たのです。これを「霊的無知」と言います。“人は何のために生きるのか?”
こうしたテーマは古代から続いてきました。様々な哲学、宗教が起され、哲人、聖賢と言われる人物が登場し模索してきましたが、地球上は様々な悲劇から解放されておりません。
これまでの思索や宗教では私達は救われないということがはっきりしたのです。2000年前にユダヤの地にイエスなる人物が人類の救いのため現れました。
しかし人類の無知ゆえに十字架上に追いやられてしまいました。
それから2000年間、霊界のイエスと億万の高級霊たちは、この地上世界の悲劇を何とかしなければならない、という思いをずっと持ち続きてきました。
そして1848年にアメリカの片田舎に「フォックス事件」という心霊現象が起きました。これは霊界が時期到来と見なして演出したものだったのです。今から約150年前のことです。その後、舞台はイギリスに移され交霊会やさまざまな実験会が行われて、スピリチュアリズムは一躍その名を世に知られるところとなりました。
そして今、イエスは霊的に地上に降臨されました。それ故に地上にも霊的な動きが活発となることでしょう。

繰り返しますが、冒頭に挙げた通りスピリチュアリズムとは霊的無知から発した地球上の悲劇をなくし、霊的真理による人類救済をめざした霊界主導の霊性復古運動であります。結論から言うならば、地上世界の悲劇をなくし、一人ひとりが幸せに生きるためには、自分たちの生き方を改めることなのです。
そのためには知識が必要です。どこがどう間違っているか、どう改めなくてはならないか?それを知らないままでは解決はありえません。永い間、私達は間違った教え、宗教にさらされ翻弄されてきました。間違いが間違いということに気付かないで来たのです。何が正しくて、何が間違いかを見分けることが出来なくなってしまったのです。今日までその状態が続いてきました。何を信じて良いのかさえ分からない混沌の中にあります。それを明確に訓え、説いているのが霊的真理であります。その最高峰が「シルバーバーチの霊訓」といわれるもので、まさに現代のバイブルといえます

悲劇は何処から生まれているのか。「利己主義」と「物質主義」という二つの悪癖からです。人類の救いのためには、己の幸せを優先する生き方―利己主義をあらため、利他愛に変えること。そしてもう一つ、物質中心から霊中心の生き方へと変更することだけなのです。こんな簡単な事と思われるかもしれませんが、実はこれがとても大変なことなのです。
現在の世界を見てみると、一部の人間による富と権力の独占、そして支配がまかり通っています。嘘や誤魔化しがさかんに行われており、これはあきらかに神の摂理に違反する姿です。これまで国連を始め、あらゆる手立てを試みてきましたが、有効なものは一つもありませんでした。唯一行われてこなかったのが、この「霊的真理」による人類の霊的覚醒なのです。社会を変える、世直しをする、といっても、世界を構成する一人ひとりの心を入れ替えない限りそれは無理なのです。

人間とは“霊”であり、肉体はその霊が活動するための道具であります。ですから肉体は十分に手入れをして大切に扱わなければなりません。ただし、あくまでも霊が主で肉は従の関係にあることを完全に理解しなければなりません。
現代は科学至上主義に陥り、医学を例に取るなら、肉体のみを扱い、心の問題は取り上げようとしません。精神科があるじゃないか、と仰るかもしれませんが、ここでもまた心の問題は取り上げようとはせず、ただ現れた症状をみて“眠れないんですね、では睡眠剤を出しましょう”で終わりです。この者はどんな問題を抱えそしてどのように苦しんでいるのか、こういう心理社会的な面は全く考慮しようとしません。
今医学の問題の一例を取り上げましたが、社会も世界も物質中心主義に陥り、精神面、霊的面は見向きもしないという危機的な状況にあります。これでは人間であるというより、機械を相手にしていると言っても過言ではありません。そしてこのままでは自らもIT化されたあわれな存在となってゆくことでしょう。

このことはなんとしても防がねばなりません。スピリチュアリズム人間性の復興運動でもあるのです。人間の本来のあるべき姿を理解し、自分自身と地球人類の救いのためにそれぞれの持てる力を結集させ、明るい未来を築こうではありませんか。