一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

宗教難民の方へ

    

 新年あけましておめでとうございます。

 今年は大変な年明けとなり、沢山の方が悲しみの内に居られることを思うと、やり切れない思いが致します。それでも私達は前を向いて歩んでゆこうではありませんか!

 今日は宗教で苦しむ人達、どちらへ向かえば良いか分からなくなった人達(”宗教難民”とも評されています)にお話しをさせていただきたいと思います。

今、 自分は宗教に関して苦しんでいる、どう対処したら良いのかわからない、しかし、このままではいけない、間違った宗教をこのままにしてはいけない、と勇敢にも声を上げ始めている人達が現れ始めています。

 私は20代の時、統一教会に入信していた者です。現在81歳となりました。

その時、信仰でこの世界を理想世界に出来るという教義に感銘し、入信いたしました。ところが実際は理想世界どころか、地獄を味合うこととなったのです。辛い毎日でした。元々、神とか信仰についてあまり関心がなかったということもあり、教義を学んでもしっくりきませんでした。
 メシアを信じて教義を全うしようとしても、そこには何ら喜びもなく幸せでもありませんでした。信仰仲間とも親密になれず、知れば知るほど不信感が増すという有様でした。ただただ辛い日々でした。

 これから書く内容は過去にこのブログで述べている事と重なりますが、再びここに書かせていただきます。

 夜遅く就寝し、朝5時に起床です。祈祷し、それぞれの任務に就きます。(この睡眠時間の短縮は明晰な頭での思考を遮るための計らいであった) 

 入信間もないころ(日本での布教が始まってそんなに時間が経っていない頃です)の仕事はリヤカーを引て各戸を周り廃品回収をすることでした。そして街頭に立ち大きな声で路傍伝道をします。札幌の繁華街、渋谷・池袋のJR駅前などです。

 次の任務は学生の集団(原理研究会)のホームでの下働きです。炊事・掃除・洗濯です。まるで下女のようです。当時は掃除機もなく洗濯も手洗いでした。若い男子の下着もです。みじめでした。
“聖なる闘いの戦士に対する尊い奉仕“とはとても思うことが出来ず、自分はなんという不信仰ものか、と情けない気持ちで毎日を過ごしました。合間を見て、伝道にでかけます。しかし、情熱を失ったものに何ができるでしょうか・・・。何もなしえませんでした。そうしてさらに惨めさを膨らませて仕舞うのでした。
同じ目的・目標を持って暮らす仲間・同志という意識には到底なれず、いつも不信感を持っていました。
 それから、マイクロバスに寝泊まりしながら花売りをしました。昼間は戸別訪問をして、夜は薄暗い下町の酒場です。狭いマイクロバスのなかでの寝泊まりです。夏は半分裸で疲れ果て泥のように眠ります。ある時運転者のミスで転倒事故を起こし、何人かは病院送りになりました。私もその中の一人でした。
 後に医療ホームというところに配属になり、そこで看護師として働きました。そこで本来の仕事が出来て、落ち着くことが出来たでしょうか・・・。いいえ出来ませんでした。なぜなら、そこでは医療界で守らねばならない医療倫理が堂々と無視されているのです。反社会的行為です。医師法違反を随所で行います。この社会の常識は無視してよいからです。
 何処へ行っても私の心は安らぐことはありませんでした。日時が経って、教祖じきじきでの祝福のためのマッチングの時がやってきました。しかし、そこでも私は決定的な打撃をうけることになりました。それは最後まで名前を呼ばれることなく、終了したのです。つまり私は祝福にも該当しない哀れな者、という烙印を押されたということです。私は絶望でいっぱいとなり、その場で号泣しました。
 この“どうにも救いようのない者”という烙印は私のその後の人生にも多大な影響をもたらしました。教団を去って50年にもなるのに、最近になってもそれがトラウマとなって表出することがあるからです。

 しかし、実はその事件の直後、花売りの仕事に従事しているとき素晴らしい体験をしました。それはひとり寂しく花束を抱え琵琶湖湖畔の公園に佇んでいると、急に空を含めて辺り一面が光輝いて見えたのです。驚きました!これは一体どういう事?!
 後でその訳がわかりました、と云うか悟りました。つまり教祖の祝福という誤った概念で足枷を嵌められたら、それは教祖の奴隷になることを意味します。それを免れたことを、守護霊や霊界の人達がこぞって祝ってくれたのです。もし、あの時、祝福をうけていれば私の人生はどうなっていたでしょうか・・・。想像するだけでも恐ろしいことです。あの時、霊界が喜んでくれたのです!
その時のことは今でも鮮明に覚えています。

 あなたは、「スピリチュアリズム」という言葉をご存じでしょうか。
私は23歳で統一教会に入信し、32歳で脱会しました。足掛け10年を苦しみながら、留まってしまいました。どうしてそんなに長い間、留まっていたのか不思議に思われる方もいますが、それは脱会したら神様を裏切ることとなり、永遠の地獄が待っている、という洗脳です。教義に確信が持てなくとも、洗脳は行われていたのです。
一気に教団を去るのではなく、時間をかけて考え、準備してから実行に移しました。教団を去る事=神様を裏切ることではない、と確信できたからです。

 幸いにも私は看護師としての資格がありましたから、それを利用しました。ホームからパートで病院に勤務し、それから本採用にしてもらい、看護婦寮に移り住みました。それでも元の仲間が付きまとうので、東京から地元札幌に勤務先を移しました。逃げました。
 「スピリチュアリズム」は「地球人類救済運動」であります。
人類には救いが必要です。そのために幾多の宗教が起こされて来ました。しかし、一つとして人類を真の救いに導くものは存在しませんでした。それは人類が霊的無知に陥ったてしまっているからです。宗教自体が無知なのです。

人間は何の為に生まれてくるのか
人間は如何生きなければならないのか
死後の世界は存在するのか、在るとすればそこはどんな所か
死んだらどうなるのか
神は存在するのか、神と人間の関係とは如何なるものか
なぜ地球上に悲劇が絶えないのか
なぜ今日まで解決できないのか
そもそも宗教とは何か

スピリチュアリズム」「シルバーバーチの霊訓」はこうした謎の全てに明確な回答を与えてくれています。
約100年前から、イギリスでモーリス・バーバネルという霊媒を通して「シルバーバーチの霊訓」が霊界から降ろされています。シルバーバーチとは仮名で、霊界における霊です。3000年前に地上で暮らしたことのある人物で、現在は超高級霊に成長しています。
 私は32歳で脱会してからは宗教アレルギーとなり、宗教に近づくことを避けてきました。しかし、精神世界への関心は薄らぐことはなく、関連する分野を遍歴してきました。大学へ入学し“人間”について学び、ユング心理学をベースとしたカウンセリングや夢分析精神分析アートセラピー、ドリームセラピー、さらに瞑想や断食、レイキやヨーガ療法を学びました。それぞれ民間資格ではありますが資格を取るまで追求しました。ヨーガ療法は仕事として従事しましたが、結局は心のそこから魂に響くものはひとつもありませんでした。追究すればするほど限界を感じてしまいました。

そんな時に出会ったのが「シルバーバーチの霊訓」です。今は絶版になっている、潮文社出版の「シルバーバーチの霊訓」全12巻を読みました。

そこにはこれまで私が知りたいと思っていた事が全て網羅されていたのです。驚き感動に咽びました。それからの私の人生は一変しました。
私はこのことを皆さまにお伝えしたいのです。宗教に苦しんで居られる方に知って頂きたい、そう思い書かせて頂きました。

今、政界・有識者が被害に遭われた方、そして宗教2世の方々の救済に取りかかり始めました。それと共に間違った宗教そのものを無くす闘いも必要と思います。
そのために何らかの働きが出来るなら本望です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
皆様のこれからが幸多い日々となります様祈らせて頂きます。

霊的視野に立って物事を観る

           
在家信者という言葉があります。これは、仏教において出家せずに、家庭にあって世俗・在俗生活を営みながら仏道に帰依する者のことだそうです。

ではスピリチュアリズムではどうでしょうか。

 家庭に在ってスピリチュアリズムを学んでいる者は多数居ます。というより、全員がそでありましょう。では、真のスピリチュアリストとそうではない者との違いは何でしょうか。それは摂理に忠実であるか、そうではないか、という事になります。
 ですから、自分の生活が摂理に合っているかどうかを見極める目がどうしても必要になります。具体的な戒律があれば大変にわかりやすいのですが、たとえば、“盗むなかれ”とか“姦淫するなかれ”のようにです。私達の生活は様々な細かい事柄が入り混じっており、複雑な様を呈していますから判断が難しいことも生じます。

 スピリチュアリズムでは、霊的成長のための日常生活とは、「神」と「神の摂理」に対する信仰であると訓えています。自分を摂理に合わせようとする信仰です。
 日常生活で何を為すべきか、それは「霊主肉従の努力」と「利他愛の実践」です。そして日常生活の中で生じてくる「様々な困難やトラブルを広い霊的視野に立って甘受する」ということです。この歩みが地球人として最も価値ある霊的人生(スピリチュアリズム人生)なのであります。
 ただ、問題となるのは、この霊主肉従や利他愛がどの様な事を指すのか、これが理解できていないことが多々あるということです。ここに“実践出来ない”ということが生じてしまうわけです。くどくなります金沢弁)が、実践できるためには、まず霊的真理の理解が前提となります。タイトルに挙げた霊的視野に立つということはこの理解の上でなされます。
 霊的真理の理解には、知性と霊性が必要です。どちらか一方ということではダメなのです。知的に、そして霊的に見合った事しか理解が及ばないからです。もし自分にそれが欠けているとしたなら、それを補うことしか他に道はありません。つまり努力するということであります。
 自分は霊的真理について“無知”であるという自覚が必要です。この自覚を持てない人達がいるようです。ほんの少し真理を知ったことであたかも沢山の知識を持っているかのように勘違いをし、うぬぼれています。そうして“自分は知っている、自分は正しいのだ”と喚きます。観る目を持つ者には、その者の未熟さは明らかであります。

 何時から私達日本人は慎ましさ、謙虚さを失ってしまったのでしょうか。傲慢さが密かに、あるいは堂々と世間を席巻しています。

 先の大戦に敗れてから、自国の在り様にすっかり自信を失ってしまったのでしょうか。欧米の在り方を取り入れ、日本独自の良さをも捨て去ってしまったのでしょうか。教育面にもそれが顕著に見られます。自分の意見をもつことは立派なことですが、自分が絶対に正しい、自分は何でも知っていると思い込み、謙虚さを失うなら、独善となって仕舞うことを知らねばなりません。それをせずに“自己主張”をしてはなりません。自分がどれだけ無知なのかを自覚しないまま自己主張を繰り返してはならないのです。

 かってあった美しい物に対する憧憬の念や、清らかさを取り戻し、誇りある日本人に回帰しましょう。こうは言っていますが、私は国粋主義者でもなんでもありません。全ての人々がそういう魂であってほしいと願って居るだけです。

“自分は知っている、自分の判断に間違いはない”、という自負心は一体何処からくるのでしょうか・・・。
 また、日本人を引き合いに出しますが、少し前までは、我々日本人は「道」、これを極めることを大切にしてきました。“茶道”、“華道”、“書道”、そして各種の“武術、また工芸を始めとする文化も実に芯の有る姿であり形でありました。そこには当然厳しい修行が要求されました。ただ褒めるだけ、自由にやらせるなどはあり得ません。そういう世界が用意されていました。そこでは自分に厳しく対峙する姿勢が求められます。甘えは許されません。至らないところがあれば、とことん扱(しご)かれます。そうして肝の据わった芯のある人間に成長できるのです。私は何か習い事をしたり、研修に参加せよ、と言っているのではありません。自分に厳しく向き合うことを奨励しているまでです。   
 つまらない自尊心は思い切り捨て去り、今から自分を向上させるべく、精進して参りましょう。霊的真理が、これこそが自分の生きる指針であり、道標であることを確認してまいりましょう。そうしてこそ、日常生活を霊的生活に切り替えることが可能となり、霊的視野を持てるのだと思います。

地上人生での課題~私の場合

        

 人は自分の課題を持ってこの地上世界にやってきます。とはいってもその課題が何なのかは簡単には知ることが出来ないようです。3年程前に私はこのブログでこれに関係する記事を書きました。そこでは私の課題は”人を信頼する、愛する”ことであり、幾分かは達成できたと言っています。”幾分か”は本当ですが、このたびは更に考察を深めてまいりたいと思いました。

 私は子供の頃から生き物が好きでした。人間はさて置き、植物・虫・動物が好きでした。長じては様々な精神世界を彷徨い歩きました。そこで学んだことの多くはほぼ人を癒すセラピー関係でした。

 これまでの人生は平坦ではありませんでした。そういう人は大勢いますが、私はそのうちの一人であったと思います。
 生い立ちは過去のブログで一部を紹介させて頂いていますが、ここでまた繰り返しとなりますが述べさせて頂きます。

 第二次世界大戦の最中私は東京で生を受けました。2歳で戦火を逃れて北海道に逃げてきました。何もない北海道の原野にクマザサで竪穴式住宅のようなものを作り、そこで家族6人での開墾生活が始まりました。
 でも私は楽しかった記憶ばかりです。前年に切り倒しておいた木の株を父と掘り起こして耕し種をまき、秋に収穫した大豆を小さな背に背負い一生賢明歩いたこと、唐竿(からさお)でそれを脱穀する作業。父と一緒に夕顔の棚造り、そして畑の草取り、どれもわくわく出来る仕事でした。完全に没頭出来ることがこんなに素晴らしい喜びをもたらすことを子供ながら知りました。学校ではいじめられ友達は居ませんでしたが、私にはその辛さを大きく凌ぐ生活でした。
  看護学校に入ったころから人生に関する疑問が次々と生じ、模索する日々となりました。卒業して2年が経過するころ、私はあの悪名高い統一教会に入信しました。そこからが私の本当の苦しみの始まりでした。
 人は始祖の堕落により罪びとになってしまったのだから、それを救済するためにメシアが必要である。イエスはその使命を為しえなかったので再臨のメシアが必要。そのメシアが文鮮明である、というのがそこの教えであります。そして教祖は絶対であり、完全に従わねばならない、そうして我々はこの地上に天国を創るのだ、というのが教義であり、私はこのわれわれが地上天国を創る、というキーワードに惹かれたのです。

 献身を迫られ、貴重な青春時代の約10年間そこに留まることとなりました。そこでの生活とはどのようなものであったのでしょうか。
 新宿や池袋の駅前での路傍伝道や偽りのカンパ、マイクロバスに寝泊まりしながらの花売り(昼間は家庭訪問、夜は薄暗い下町酒場)交通事故も体験しました。次いで原理研究会のホームでの下女のような仕事です。掃除、若い男子の下着の洗濯、食事作りです。私はひどく自尊心が傷つき惨めでした。食事は最低の更にまたその下の食費で作るのですから、完全に健康を害します。もともと体力的に優れない私は自分の肉体がミシミシと悲鳴を上げているのを感じていました。
 ある時は、わずかばかりの交通費をバスに乗らず徒歩で帰宅し、その費用をパンに変えてお腹を満たしたことがありました。自分が哀れで悲しかったです。時間もお金も私物をも制限されること、特に私が辛かったのは睡眠時間の少なさでした。宗教に修業は付き物で、我慢・忍耐が必須なのでしょうが、当時の私にはそれだけの信仰はありませんでした。
 そのホームでは私は学生ではないので、誰にも困り事を話すことも出来なく孤独でした。見捨てられたように感じました。もしかしたら、本当は見捨てられていたのかもしれません。逃亡を図ったり、引きこもったりしました。

 後年、私は脱会しましたが、それは教義に疑問を持ったからではなく、そこでの暮らし(修行?)に堪えられなかったというのが実態です。逃げ出したのです。私は、ず~と信仰がなく卑怯者、弱虫と自分を責めてきました。
 しかし、今は違った見かたをしています。私の魂がそこに留まることを拒否していたのだということです。私の居るべき所ではないとのメッセージであったと思います。
 当時の私には、その教義が正しいか間違っているかを判断するだけの力はありませんでした。たぶんこれは現在もかの教団に留まっている多くの信者についても同じことが言えるように思います。
 ア ベル(上の者)が”こうしろ”、と言ったなら一切の疑問を持たず従うことが良き信者とされているからです。疑問を持つことはサタンに魅入られていることを意味するからです。洗脳されてしまっているのです。私には疑問が沢山ありました。あまり深く洗脳されていなかったと言えるでしょう。彼らからすると不信仰そのものです。ですから私は時間がかかりましたが 脱会することが出来ました。

 宗教2世の小川さゆりさんの著書を読みました。私も間違った宗教に囚われ、今も苦しんでいる人達を思うと、なんとかしなくてはならないと思います。

 私は脱会し33年たって、スピリチュアリズムに出会うことが出来ました。それまでの間、放送大学へ入学し”人間の探求”を専攻したり、ニューエイジ思想、精神世界の著書を読み漁り、セミナーへ参加、瞑想や断食、アートセラピーユング心理学、カウンセリング、夢分析、レイキ、ヨーガ療法などを学んできました。 精神分析も札幌から東京へ通って受けました。
そうした物凄く遠回りしてのスピリチュアリズムとの出会いでした。
 しかし、これらの過程は私のようなガチガチに硬く、無知な人間には必要なことなのでした。これでもか!と言わんばかりに耕されてまいりました。そしてようやく、「シルバーバーチの霊訓」が私の前に置かれました。
 私は乾いたスポンジが水を吸うが如く12巻を一気に読み干しました。そこに書かれている事柄は全て納得のゆくことでした。眼が覚めました。厚い雲に覆われて暗かった私の人生に光がさしました。
 生きる目的が解りました。死はなく、霊界で永遠に生きる事が解りました。怖いものはなくなりました。お金や物への執着はなくなりました。人は他を愛することで霊的に成長出来ることを知りました。これは相手が人間だけではなく、動植物に対しても同じです。元気になれました、勇気を頂きました。

 間違った宗教に翻弄されても光明を見出せることを皆さんにお知らせすることが、私の今生の人生の課題であったと今思っています。

 間違った宗教に囚われ、苦しんでいる人達に伝えたいのです。私の苦しみの歴史がそうした人達の支えになるなら、それは望外の喜びです。どうか一緒に元気と勇気を取り戻して前進しましょう。

 

 

 

 

 

霊界の良き道具について

           
 イエスが2021年4月に地上再臨しました。

 イエスは2000年前に地上で伝道を開始した時、弟子達を見つけ出し共に歩み始めました。それと同じく、私達スピリチュアリストはイエスの地上での弟子となったのです。そこで私はスピリチュアリズム普及会のニューズレター第4号(1999.01.01)を取り出し、学び直しました。
 弟子とは師に教えを請い、師の思いを我が思いとし、師の手足となって働く者のことです。弟子とは即ち師の道具といえるのです。では自分は本当に霊界(イエス)の良き道具であるのか?はたまた違っているのか・・・。違っているなら、どう努力すれば良いのか?と考えたからです。
 “自己犠牲”や“道具意識”という言葉は、私達スピリチュアリストは聞きなれた言葉です。それ故というか、当たり前すぎて深く考えずに素通りしていないか?
道具というのは、自分を主張したり、持ち主の意向に逆らい自分流のやり方をしたり、仕事をさぼるなどはしません。持ち主の意向に忠実に従います。もしそうでなく道具が持ち主の意向を無視したり、反逆したなら、それは使い物にならないので捨てられることに成ります。
 自己犠牲・滅私奉公・従順などは少し前の日本人にとっては当たり前の心構えでしたが、欧米化した今日では古臭く、むしろ死語となってしまいました。そして大いに自己主張をします。SNSなどを用いて盛んにそれを繰返し、自分が正しく相手が間違っているなど喚き散らします。自分を振り返るという謙虚さが微塵も見られないのです。
 私たちはスピリチュリズムに導かれたと言っても、そうした社会の汚毒に染まってはいませんでしょうか?彼らと同じことをしていてはならないのです。違って当然なのです。違っていなければなりません。他を批判する前に己自身を振り返り、間違いがあれば正さなければなりません。もはや私たちは地上にあっても地上人ではないのです。

 イエスの地上再臨を受け新時代を迎えました。霊的新時代の到来です。社会にも私たち自身にも大きな変革がもたらされつつあります。古く良くない考えに固執していてはなりません。間違いに気づいたならば一刻も早くそれらを捨て去り、魂の新生を図りましょう。本当に価値ある事とは、個人の主張より、相手への思いやり、全体への奉仕です。
以下に普及会のニューズレター第4号からの抜粋を記載します。
 道具である以上、自分という存在も、自分で自由に決められるものではなくなります。全てを高級霊の導きに委ね預けて、自分であれこれ言わず「自分の全てをあなたに捧げますから、どうか良きようにお使いください。どんな道が示されてもそれに従いますから、どうぞ命令してください」「この世の利益も、名声も、評価も何も求めません。自分は道具としてただ与えることにだけ徹します。高級霊と同じように働けるだけで、役にたてるだけで嬉しいのです。それだけで十分なのです。」とあります。そのために一日の自分が本当に道具意識に基づいていたか、そうではなかったかを反省(内省)しチェックする必要があります。反省もなくやりっぱなしでは成長は望めません。点検すべき項目をニューズレターから拾ってみました。
  自分なりの判断・取り越し苦労・気負い・自分の力に頼る・傲慢ではなかったか
  高級霊にしっかり委ね信頼していたか・他人からの見返りや評価を期待していな
  かったかなどです。
 私達は高級霊を信頼し、委ね、可能な限り精一杯やるだけで良いのです。実績を上げようと思うより、自分をもっともっと純粋な道具とすることが大切なのです。スピリチュリズムの信仰の真髄は道具意識にあります。道具意識を持つことは、謙虚になる最短の道です。自意識にまつわる醜さを根底から払拭するには、道具意識を深める以外にありません。スピリチュアリストに何よりも要求されているものは、知性でもなく、霊的能力でもなく、道具意識に立った本当の謙虚さなのです。とあります。
 ここで注意したいのが、可能な限り精一杯やるだけで良い、というフレーズです。これを自分がやらないことの言い訳に使用するという、“責任放棄”という行為に転換してしまうことが度々見られることです。そうして更に霊界が何とかしてくれる、というこれまた自分の仕事を放棄してしまうことです。真理を悪用して自分の都合の良いように解釈してしまうのです。これは絶対にしてはならない行為です。地上人としてやらねばならない事を蔑ろにしてはなりません。

「霊的真理」を忠実に実践する—これが霊的成長をなす全てであり、「真の救い」なのです。真のスピリチュアリストを目指して自信と勇気を振り絞って前進しましょう。

イエスの地上再臨について

          
 スピリチュアリズム普及会のインフォメーションNo41には衝撃的なことが述べられています。
2021年4月、「イエスの地上再臨」実現!
二千年来のイエスの悲願成就と、地球の霊的新時代の始まり

 俄には信じ難い情報です。ですが、私は信じられるのです。それをこれから述べてまいりたいと思います。「イエスの地上再臨」といっても2000年前に他界したイエスが肉
体を持って現れる、ということではありません。
 これは霊的なことでありますから肉眼で見えることではありません。神や霊魂、心といったものを科学的に証明できないと同じように霊眼を持たない私達には見ることは出来ません。多くの現代人はこうした肉眼で見ることの出来ない存在は“ない“という唯物史観に陥っています。
 人々は科学が進歩したことにより、人間はより幸せになったと思い込んでいますが、そうではありません。科学の進歩と反比例して我々人間の霊性は退化して、ひどい霊的無知に陥ってしまっています。
 私は科学の進歩が悪い、と言っているわけではありません。宇宙の謎、天体の秘密が科学の進歩により次々と解明されてゆくこと、そして医学の発達も人間の幸せに寄与しています。人類は少しづつ進化している証であり、これらは好ましい事と受け止めています。大いに喜びたいと思っています。
 唯、人間は本来霊的な存在として創られていますので、霊性が伴わないならば、それは片輪の人間となるということを危惧しているのです。片隅に追いやられ、まるで存在しないかのように扱われている霊性を目覚めさせ、人間としての本来の姿を取り戻す努力が是非とも必要なのです。眠っていた霊性を目覚めさせた時、人間は本当の幸せを得たといえるのです。

 無知から知に至るためには学ばなければなりません。このブログでは何度かそのことを述べてまいりました。私達人類の霊的無知は実に酷いものです。このまま何の手当もしないならば、それこそ私達人類の住むこの地球諸共破滅に至るかもしれません。   外的な事象に目を向けるだけでなく、私達は己自身に関してもっともっと知らねばならないでしょう。
 人間とは何か?人は何故生まれてのかくるのか?人生の目的とは?神は存在するのか?死んだらどうなる?魂はあるのか?さらに戦争、人殺しはいけない事と知りながら、なぜこうも長い間延々と止めることがことが出来ないでいるのか?等々。
 長い間知ることのできなかったこうした謎は、「シルバーバーチの霊訓」(霊界通信)が全て教えてくれています。
 スピリチュアリズム普及会のインフォメーション41号では「イエスの再臨」について知らせてくれています。イエスの再臨はクリスチャンが長い間待ち望んできたことであります。しかし、いくら待ち望んでもイエスは再臨されませんでした。そうして再臨はもうないのではなかろうか、と思うようになってしまいました。

 そんな中、2021年4月にイエスが特殊な霊体をまとって地上に再臨したというのです。実に驚くべき内容でありますが、私はその事実を信じることが出来ました。
 その理由をこれから述べてまいります。 私は十数年来シルバーバーチの霊訓を読み続けてまいりました。霊的真理であります。また、スピリチュアリズム普及会の発行する各種の記事を読み込んでまいりました。他の心霊書も広く読んでまいりました。そうして今日に至るまで普及会の方と文通をさせていただきました。こうしたことがらを土台に「イエスの地上再臨」は事実である、という確信に至りました。

 以前、このブログで述べましたが、私は若い頃統一教会に入信し10年間ほど献身生活をしました。そこではニセメシアを信じ込ませ彼の奴隷となるよう厳しい訓練が繰り返へされます。この詳しい内容は郷路征記著「統一協会マインド・コントロールの全て」花伝社ーに詳しく述べられていますので、関心のあるかたはご覧になると良いでしょう。 こうして信者は完全に洗脳されて、中には取返しの出来ない状態に陥るケースもあります。そうしたニセメシアに騙されてきた自分が、今再び再臨のイエスが現れたと知らされて、“またか!”という不信に至ったとしても不思議ではないでしょう。しかし、私はそうはなりませんでした。インフォメーションにある通り、事実として受け止められました。
 辛い経験は私をより強い人間へと成長させてくれました。理性を働かせ、さらに霊的な導きを受け入れ、より深く広い視野で物事を観るように魂を強化させてもらいました。
 繰返しになりますが人間は霊的な存在ですから、無知から知へ至るための学びは絶対に欠かすことは出来ません。眠っていた魂が目をさますことが出来るのです。片隅に追いやられ、蔑ろにされていた魂に真理という栄養を与えケアします。そうすることで魂は元気を取り戻し、喜び、活発にはたらくようになります。これまで見えなかった世界が見えるようになります。理解できなかったことが理解できるようになります。より大く、そして深くさまざまな事象を俯瞰できるようになります。
井の中の蛙大海を知らず“からの脱却です!

 霊的真理と辛い経験とが人生を大きく変えてくれるのです。霊界の導きを感謝しております。これを読んでくださる方にも本当の幸せが訪れる事を祈念して今回のブログを閉じます。

霊的真理の正しい理解~これまでの自分の価値観、常識との戦い

  私達は皆霊的存在である 
 人は皆何らかの価値観に基づいて生きています。このブログをご覧になられる方は、あるいは常日頃から「シルバーバーチの霊訓」に親しんでおられるかもしれませんね。 以前、このブログで”人生観の転換”を取り上げたことがありますが、今日はそれと密接な関わりのある”価値観”について考察してまいります。「シルバーバーチの霊訓」は、霊界と地上界の全体を貫き通す「神の摂理」を“絶対基準“としています。私達は今地上生活をしていますがここは仮の住まいであり、本来の住まいは霊界なのです。この地上生活は霊的成長をなすための基礎をつくる一時的な生活の場なのです。
 私達の住むこの地球は物質で出来ており、私達もまたそこに住むためには肉体という物質をもっています。しかし私達は単に物的存在ではなくその本質は霊なのです。霊的存在と言ことです。世界は近代に入ってからは物質主義一色に覆われてしまい、自分たちが霊的存在であることをすっかり忘れてしまいました。

 人間にとって最も価値あることは「霊的成長」
 スピリチュアリズムは人類の霊性復興を目指しています。物質中心の価値観により物欲・肉欲に走り、そのために必要なお金を稼ぐことに終始し金銭第一主義に陥ってしまっています。そうした生き方から180度方向を転換させることが必要なのです。人間は神によって永遠に霊的進化の道を辿る存在として造られました。ですから、霊界にあっても地上界にあってもすべて「霊的成長」を為すことが人生の目的であり宿命なのです。地上人生の全ては霊的成長のためにあるのです。肉体生命は長くても100年ぐらいで、その短い人生は永遠の霊界での生活に向けての準備期間であり、基本的な霊的成長を達成する期間であります。
地上人生はさまざまな人間関係をつくり、社会生活を営み仕事に従事しますが、その全てが霊的成長のために在ります。

 霊的成長はどのようにして為されるのか?
 それでは極めて本質的な話に入ろうと思います。それは霊的真理を知る、理解するというところから始まります。人類は長い期間、霊的真理から隔絶された中で生きてきました。霊的暗黒世界でありました。人間とは如何なる存在か、生きる意味は何か、神は存在するのだろうか、死後どうなるかのだろうか、これらのことが全くと言ってよいほど分からずに来ました。正に暗闇の中を手探りの状態で、右往左往して疲れ切って地上人生を生きて来たのです。 
 そうしてようやく170年程前に地上にも霊的光が届き始めました。スピリチュアリズムの勃興です。1848年アメリカの片田舎で起こったフォックス家事件と言われる出来事です。やがて1920頃英国でモーリス・バーバネルを霊媒として「シルバーバーチの霊訓」が霊界から降ろされました。「霊界通信」です。当時欧米を中心にあちこちで交霊会が行われてきました(現在も行われている)。その霊界通信の中でも、「シルバーバーチの霊訓」は最高峰とされています。霊界の高級霊であるシルバーバーチ霊媒バーバネルの口を使って霊訓を語ります。後になって分かったことでありますが、それはあの磔刑となって霊界に還ったイエスの思想そのものでした。

 人は皆何らかの価値観に基づいて生きている
 そしてここからが、今回のテーマに関しての話となります。冒頭に挙げたフレーズですが、これまでの人生でどのような事に価値を置いてきたかです。永く生きてきた人物、社会的評価を得ていた、あるいは一定の地位にあった人物など、それなりの人物像が出来上がっている事でしょう。そしてその価値観に基づき生きています。そのような人が霊的真理を知ったからといってすぐに真理を受け入れられるかどうか難しいことでしょう。かなり抵抗があることは容易に想像できます。
 霊的真理を知ったからといって、これまでの自分の価値観が一気に雷にでも撃たれたかのようにガラリと変わるわけはありません。これまで自分が常識と思ってきたこと、正しいと信じてきたことを覆すのは可成り難しいことです。衝撃的なことが己の身に起こった時、初めて立ち止まります。これは一考を要すると気づくわけです。ここから自分自身との熾烈な闘いが始まるわけです。

霊的真理を受け入れられるには条件がある
 実は霊的真理を受け入れられるかどうかは、一定の霊格と知識がどうしても必要になるのです。そして真のスピリチュアリストとは、要約すると①「イエスの地上再臨を受け入れる」②「シルバーバーチの霊訓」と“思想体系“を正しく理解し実践する、そして ⓷「イエスに自分の人生を捧げる」が不可欠であると学びました。実は私にとって、この②がものすごく難しいことに思えるのです。”正しく理解する”これはその人物の言動を、見る目をもつ人物が客観的に見れば正しく理解しているのかそうでないかを知ることは出来ます。しかし、私を含めて当の本人は中々自覚できないことがあると思われます。つまり、自分の言動が摂理にそって居るのか居ないのかを見分けることが出来ないということです。このことを他人が説明しても当人は容易には理解できません。相手の心が安定しない時にそれを行ったなら、かならず反発が返ってきます。じっと待つしかないこともあることでしょう。

 霊格・人格の向上
 これまでの常識から脱して霊的視野で全てを俯瞰できるためには、霊格・人格を向上させる以外には方法はないように思います。
 これこそが地上人生での醍醐味、修行でありましょう。修行といっても滝に打たれたり、断食をするということではありません。日常生活そのものが修業なのです。
”利他愛”という言葉一つでも何が利他愛で何がそうではないか、ということが互いに考えが違っているということがあります。”愛”は優しくもあり、厳しくもあります。場合により状況により話す言葉が、取る態度が異なるはずです。そのような機微に富んだ対応が出来るよう人間性を高めなければならないと思います。
 行き詰まった時に私は普及会からの“思想体系”を取り出しじっくり読み返します。それでも尚、自分は特別なのだとか、例外はあって然りとか言い訳をしている自分を発見します。自分を正当化してはなりません。今の自分の姿(至らない自分)をじっくりと見つめ、認めます。そして悔い改めます。不足していたのはどれだったのか、どうすれば良かったのか、これを繰り返します。
 解ったこととしては私は物事に対してじっくり落ち着いて判断せず、直ぐに感情的に反応してしまうこと。冷静さに欠けるということです。これでは霊的視野から離れてしまい物事を俯瞰出来なくなります。自分が霊的に低い状態の時には、相手に対して嫌悪感、更には憎しみの感情に発展してしまうことさえありえます。

 そうならないために、全てを高級霊の視点で観るように自分を諫めています。高級霊は“愛“そのものです。決して相手を見下したりせず、寛容心そのものです。”愛“は優しく、そして厳しいのです。辛いと思うときには、それは己を成長させんとする、高級霊界からの”愛のムチ“と理解します。もっと成長できるから、霊界は耐えられると見たときには厳しい”愛のムチ”をくださいます。とても有難いことと今は思えるようになりました。

最後に改めてお知らせいたします。スピリチュアリズム普及会ではインフォメーション No.48を公表いたしました。
スピリチュアリズムの進化の3段階 
どのようなことが書かれているのか是非、ホームページを閲覧してくださいます様ご案内いたします。

 

霊的視野から観た回顧録

         

 これまでも、自身の人生を振り返った記事をブログにアップしてきました。今回は少し趣を変えてみます。 霊的視野から自分自身の人生を観るという試みです。80歳を迎えて、この地上ではできることは殆どありません。しかし、同志の闘いの後方支援という仕事なら少しは出来ます。そうして、改めて自分自身の人生を霊的視野で整理してみようと思うに至ったという次第です。

  スピリチュアリズムとは「霊界主導の地球人類救済計画」であります。霊界主導とあります。イエスを中心とした大霊団が結成されていて、一糸乱れぬ計画に基づき精力的に霊界人たちが働いています。更に、地上での仕事をするための人材が必要となります。2000年前にイエスが12弟子を選ばれたように、この地上での仕事を担当出来る人材を早くから見定め・指導してこられたのです。そのことを私達地上人はなかなか知ることができません。どうしても地上的な視野からしか物事をみることが出来ないのです。しかし、霊界は間違いなくそのように動いてきました。
 霊界はまず霊界と親和性のある人物を探し出します。ある時にはその人物が生まれる前から、その人物に白羽の矢をたてて、導き・指導を開始します。シルバーバーチの交霊会で霊媒を務めたモーリス・バーバネルがそうでした。本人が好む・好まざるに関係なく、また意識しないうちに、さまざまな手段を用いて導き・訓練が成されていきます。
 では、自分は何故スピリチュアリズムに出会ったのか?
それをここで振り返ってみようと思います。 私は十数年前にヨーガ教室で講師の持っていた「シルバーバーチの霊訓」を眼にし、すぐにそれを借りて読みました。12巻全てを読み干すまでそれほど時間は必要ありませんでした。何しろ乾いたスポンジが水を吸うがごとく全てに納得でき、アッという間で読破したのです。其れからの人生は寝ても覚めてもスピリチュリズム、というように変貌してしまったのです。
  次に、ではなぜヨーガ教室に通うようになったのか?
事の始まりは、新聞広告で「アーユルヴェーダ」(ご存じの方も多いとは思いますが、インドの伝統的医学であり、かの地では保険適応となっています)の講演会の案内を目にし参加しました。そこの受付に置いてあった「ヨーガ教室へのお誘い」のチラシに惹かれたというのが成り行きでした。
  私は長年医療者として生きてきましたが、アーユルヴェーダは現代西洋医学のさまざまな問題点にたいして、何らかの回答を与えてくれるのでなかろうか、という期待からでした。
  私は高校を卒業する少し前に、ある“啓示”を受け取りました。それは “おまえは修道院へ行け”というものでした。え!?何故私が?と思いました。教会に行ったこともなければ、聖書を読んだこともありませんでした。どうすれば良いのか皆目解りませんでした。そこでふと看護学校へ行こう、と思いました。深く考えもせず、何となく同じような所という単純な考えからでした。果たしてそこは全寮制の学校で、日本赤十字社が設立母体であり、戦後15年ばかりしか経っていない頃でしたので、規律はしっかりと保たてれており、先輩後輩の関係は厳しいものでありました。そして有事には戦地へ赴くことが義務化されていました。
 毎日の朝礼時には「ナイチンゲール誓詞」なるものを全員で斉唱します。
それは次のような言葉から始まります。「我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん・・・」というものであります。このように知らぬ間に毎日神様の前に立っていたのです。何も知らない者に、神の存在や信仰心、道徳観念などを教えようと霊界は導いてきたのであろうと今は解ります。
  神を崇敬する、全体に奉仕する(看護職というのは病める人々に奉仕することを天命とするとされていた)という、きわめて崇高な精神を育んでくれる所でした。何も知らない真っ更な精神にはすんなりと浸透していきました。そこでは人生で最も大切な事柄の一つを教えて頂いたと思います。修道院ではありませんでしたが、その精神はまさに神に至る道を指し示して居るように思います。霊界が“修道院”と言ったのは、じつは修道院のような所、という意味のことだったのかと思います。霊界がある目的のために計画的に私を導いて来られて故であろうと確信しています。私は幼いころから、誰に教わったわけでもありませんが、霊界や神様の存在は当然のことと認識していたように思います
  2歳の時、先の世界大戦の災禍から逃れて、東京から北海道に越してきました。何もない原野を開墾して住居や畑を作りました。住居といっても、地面に熊笹を直接差し込み、また屋根は同じく笹で覆い、床は土の上に筵を敷いての生活です。そこで家族6人が暫く暮らしました。雪が積もる前に土地の所有者の方が床のある家を建ててください ました。 畑を開墾するとは、まず原野に生い立つ木を切り倒します。其れから前年に切り倒しておいた、根株を堀り起こします。父と二人スコップで満身の力を込めての仕事です。そうして初めて土を耕し、種を撒くことが出来るのです。まだ小さい女の子ですから、何ほどの仕事も出来ませんが、私は何故か父とのそのような仕事をすることがはとても嬉しかった記憶があります。
  学校に行くようになってからは、毎日が“いじめ“の日々でしたが、自然豊かな中での暮らしはとても楽しいものでした。山野を掛け回り、珍しい草木を発見して喜び、ターザンごっこをしたり、裏を流れる川で魚を取ったり、ザリガニを取ったり、飼い猫とじゃれ合って遊ぶことも大きな喜びの一つでした。春、野に行くと黄にピンク、白の草花が当たり一面に咲き乱れているのを見るのは本当に素晴らしいことです。冬、真っ白な雪の原野に寝転び、真っ青な空を眺めることも子供心にも至福の時でした。そうした大自然の中で私はこの宇宙の偉大さ・素晴らしさを体感することが出来たのです。
  私は友達が出来ませんでした。親や兄弟はいましたが、一部父との良い思い出はあるものの、親密な関係を築くことにはならなかったように思います。たとえば、“いじめ“についても決して親には言いませんでした。勿論教師にもです。そうやって耐えてきたというのは本当です。成長してからも所謂孤独な人生でした。表面的には付き合いはあっても、親友が居ませんでしたし、恋愛や結婚という話もありませんでした。
  23歳の時、今日悪名高い統一教会に入信し、約年10年間をそこで過ごしました。これに関しては、過去にこのブログで紹介ましたので、ここでは述べません。
  今、こうして人生を振り返ると全て霊界側が、計画的に段階を踏んでの導きであったことが解ります。霊界側の深淵なる計らいであり、決して偶然ではなく必要があってのことだったのです。
 私がスピリチュアリズム、「イエスが主導する地球人類救済運動」に出会うためには、こうした霊界側の計画、配慮があったことが明らかなのです。即ち、幼少のころ大戦の惨禍からの逃亡や、北海道での大自然の中での神・宇宙と一体になるような体験をさせて頂きました。
  自然を愛する、生き物を慈しむ、猫と友達になるということは、自然界と人間が完全な姿で生きるための秘訣でありましょう。弱者を支えるべき医学の道へと進む事は必然であったように思います。それなのに、これまで私はそうした人生を送って来た自分を“未熟”の一言で己を評価し、自己嫌悪という縛りの中に自分自身を閉じ込めてきました。しかし、実はそうではなく人と表面的に仲良くすることよりも、神とその被造物を大切にする心を養わんがためであったと理解します。私はこれまで、自分の人生を霊の視点で観ることが出来ていませんでした。しかし、今こうして振り返って見ることが出来ました。実はスピリチュリズム普及会インフォメーショ47号(地上再臨に向けた、イエスの二千年にわたる準備のプロセス)を拝読させていただくことで、こうした回顧録を書こうと思い立った次第であります。改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございます。