一スピリチュアリストの声

10年程まえスピリチュアリズムに出合いました。まだまだ学びの途中にありますが、これまでに知り得たこと、経験したことを混じえながら、今思う事を綴っていきます。

永遠の旅人

          天国の花畑 | 植物 > 花・花びら | GANREF

「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」と説かれましたが、死後生命への信仰心に欠ける地上の人間には、それを実践する勇気がありません。
                          シルバーバーチの霊訓(四)p19 潮文社刊
 冒頭にルバーバーチの言葉を紹介しました。
今日はこれについて考えて行くことにいたします。
「永遠の旅人」とは何でしょうか?
これはまず、人間は死んでも死なない、ということを理解しなければなりません。つまり、目に見えるこの肉体は死んでも、魂(霊)は死なないということです。
私達人間はこの地上にオギャーと言って誕生し、それから幾多の喜びや苦難を体験するという人生の旅をします。それと同じく、死んでこの地上を去った後も霊界で永遠に生き続ける、旅を続けるということを言っているのです。
 現代社会、特に先進国においては物質科学偏重の世界観に覆われているため、死後の世界を説かれても容易には受け入れがたいようです。科学がこの地球上の全ての問題を究明してくれる、今はまだわからない事であってもいずれ科学が解決してくれる、という考え方です。

ここで世界の宗教人口、および無宗教人口について調べてみました。
キリスト教:24億人
イスラム教:19億人
ヒンズー教:11億人
無宗教:13億人
 (2021年キリスト教研究所資料より)

 無宗教はどこの国に多いか気になるところであります。
このブログを見ていただいている方はお察しの通り、第一は中国で人口の6割強です。そしてなんと第二位は我が日本であるというのです。これは日本人の半数以上であります。ただ、無宗教と自認してはいるものの、その人たちの多くは何らかの精神的、信仰を持っているとされています。
その証拠に結婚式はキリスト教会で、お葬式は仏教寺院で、新年や七五三の祈願は神社で、という風にしっかりと宗教的生活を取り入れています。
また何気ない日常会話のなかでも、天国でまたお会いしましょうとか、今度生まれ変わったら何になりたい等々。
このように私達日本人はおぼろげながら、あの世(霊界)の存在や魂の存続を知っているのです。ただ、それはちょっと照れながら語り、更にアカデミックな場では決して口にしたりしません。
信仰心があることを何処か恥ずべき事のように取り扱っているのです。
科学的ではない、迷信であると後ろめたさを感じているようなのです。これは一体どうしたことによるのか。先に述べたように、物質万能主義、神など科学によって存在証明できないものなど居るわけはない、という唯物思想から来るのです。
しかし今現在は時代が進み、多くの有識者、そして科学者と言われる人たちの中にも人間とは肉体と精神と霊から構成されている、霊界は存在し死後そこで生き続ける、ということを表明するようになりました。
唯物論者の遅れた論理に惑わされてはならないのです。自分の理性・知性・感性を研ぎ澄まし、真実を知らなければなりません。これは何も宗教や信仰に関わることだけではありません。日々の生活全てにおいて言えることであります。

私は個人的には今、世界を混乱に陥らせているコロナ騒動についても真実を知って正しい対処をしていただきたいと思っています。無責任な情報に振り回されて、どうしようと右往左往してくたびれ果てている人々が沢山おられ、本当に痛ましいことです。
長い地球の歴史上、最大級ともいえる災難でしょう。今、どうしてこのような事態を招いたのか人類は悟らねばなりません。

 ここで今回のテーマである、永遠の旅の話に戻ります。
「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」と冒頭に挙げました。これはどういうことかと言いますと、今私達はこの地球上に住み暮らしています。この世を人生という旅しているわけです。この世にはこの世なりの法、秩序があり、それぞれそれに従って生きています。しかし、それも地上の未熟な人間の智慧や経験から編み出した決め事であり、間違いや不完全なものであり、永遠の神の定めた摂理に沿わないものが多いのです。人間とは如何なる存在であり、如何に生きるべきか、これを理解してこの地上生活中に本来の在るべき生き方へと変換してください、ということなのです。

物質万能主義に汚染された現代社会では、何よりもお金第一です。お金と物さえあればどうにでもなる、幸せを手に入れることが出来ると勘違いしています。沢山の物を欲しがります。立派な家・高 級車・美食や飽食・高価な衣服や装飾品・地位や名誉を欲しがります。そうした物欲や名誉欲を満足させるために、他の人と競争しながら大切な人生をあくせくして地上人生を終えてゆくのです。
それが人間の在るべき姿なのでしょうか?違います。そうではありません。
しかし、人間はこの地上での人生だけしかない、死んだら全て終わりと思い込んでいるからそのような生き方をしてしまうのです。
”どうせ短い人生さ、大いに飲んで食べて楽しもうではないか”とは、その昔誰かが言い放った言葉です。現代人はこうした生き方を是としているのです。享楽的・刹那的な人生です。いえ、心の底からそのように思っているのではないのでしょう。が、どうしようもないという事なのかもしれません。
この世にあっても神の定めた永遠の摂理を理解して生きてください。そしてそれはすでにこの世にあってもこの世の者ではないということなのです。
迫りくる苦難もそれ相応の理由が存在します。スピリチュリストである私達は、それを 霊的視野に立って眺めるように努めています。どうかこれを読まれておられる皆さまもシルバーバーチの霊訓に触れてください。心よりお願い申し上げます。

 今、世界はコロナ騒動で大混乱の中に在ります。さまざまな意見や誠しやかなデマなども出回り、大いに混乱させられております。しかし私達は愚かであってはなりません。学者が言うことだから、権威ある者が言う事だから、と鵜呑みにしてしまうことは危険です。人類はこれまでの歴史に、そうしたことに惑わされて大きな間違いを仕出かしてきたことを見て取ることが出来ます。人間は何でも出来ると勘違いしてはなりません。まだまだ分からないことが多く在ります。神と摂理の前には謙虚であらねばなりません。

それでも私達は絶望することはありません。次のシルバーバーチの言葉をお読みくださいまして、心を落ち着かせて頂きとうございます。
 科学者のすることにも限界があります。どんなに間違ったことをしても地球全体を破壊してしまうまでには至りません。自然の摂理によって、地上でなされる被害は一部の人間が考えているほど恐ろしいものとはならないようになっているのです。しかも、究極的には大霊の意志が地上に行きわたることになっているのです。その計画を挫けさせられる人間は地上にはいません。遅らせることは出来ます。邪魔することもできます。しかし大霊を支配することは出来ません。
大自然の摂理の仕組みと働きについて幾ばくかの見識を得たわれわれは、いかなる事態が起きようと、あるいは人間がいかに愚かしいことをしでかそうと、大霊の意志は必ず行き渡るとの確信をもつことが出来ます。そしてその摂理によってますます多くの愛と哀れみと慈悲と互助とが地上で行使されるようになります。

                     シルバーバーチの霊訓(二)p151~153  潮文社

エドガー・ケーシーについて

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エドガー・ケーシーはどのような人物だったのか

歴史上、真理と神に忠誠を捧げた先人は沢山存在しました。今日はその一人であるエドガー・ケーシー(1877~1945)について考えてみます。

彼は“眠れる予言者”と呼ばれ、催眠状態でリーデングをおこない、医師も治せない難病で苦しむ多くの病める人々を癒しました。46歳から67歳で亡くなるまでの22年間に2万件にも及ぶリーデングを行ったということです。リーデングとは目に見えない情報を読み解くということであり、ニューエイジの思想に大きな影響をもたらしました。
彼は自宅のソファーに横たわり、数分もしないうちに催眠状態に入り、声も威厳に満ちたものに変わり、リーデングが始まります。この時、対象である病人は目の前にいても、遠隔地にいても変わりはないのでした。

ではその情報は何処から来るのかに関しては霊界には宇宙のあらゆる情報が貯蔵されているアーカシックレコードと言われるところがあり、彼の特別な能力によってアクセスして得るのだ、あるいは霊界の誰かによって情報がもたらせられているのだ、などと説明されています。この誰かについては、今日、スピリチュアリズムによって明らかにされましたが、それは霊界の指導霊ないしは霊医のことであります。そしてさらに重要なこととして、如何にすぐれた能力の持ち主であっても、地上人には直接アーカシックレコードにアクセスすることは不可能であることも判っています。
このように稀有な実績を持つケーシーでありますが、彼の歴史上の使命は何であったかを、スピリチュアリズム普及会では次のように説明しています。

「彼の役割はどこまでも伝統的キリスト教に対して、スピリチュアリズムの霊的真理普及の道を準備し、初期的な霊的道筋をつける、という事でした。」
詳しくはこちらをご覧ください。
(スピリチュアリズム普及会 ニューズレター11号 スピリチュアリズムから見たエドガー・ケーシー)

スピリチュアリズムから見たエドガー・ケーシー

ケーシによって、これまでのアメリカの伝統的キリスト教にはなかった、「死後生の存在(霊魂説)」「輪廻転生の存在(再生説)」「カルマの法則の実在(カルマ的因果説)」の可能性が示唆されたのです。これこそがまさにスピリチュアリズムの流れの中における彼に与えられた使命だったのです。彼は立派に霊界とのパイプとして、霊媒として使命を果たしたのでした。

ケーシ・リーデングは現在、研究と啓蒙の財団(ARE)として孫のチャールズ・トマス・ケイシー氏が引き継ぎ、世界的組織として活躍しています。

 ケーシー・リーデングは時代遅れ

ケーシー・リーデングは大きく分けて二つあります。フィジカル・リーデングと言い、病気治療に関するもので圧倒的に多く、そしてライフ・リーデングと言い、生活に関するもの、その他になります。
フィジカル・リーデングは当時は圧倒的な治癒率を挙げていました。しかし現在の“ケーシー療法”の忠実な継承者は成績をあげることが出来ません。それはケイシー療法の本質は「心霊治療」であるということの理解がされていないということ、そして100年まえの治療法は既に古く使い物になりません。当時のアメリカ人の体質も大きく変わっている(劣化している)ことからも当然のことなのです。

 先人の偉業を我々はどう見るか

歴史的な偉業をなしとげた人物は多く居ますが、スピリチュアリズム運動が地上で展開する以前ではどうしても過渡的な仕事ととなります。それ故、現在から見ると間違いや不足が散見されることになります。それは仕方ないことであります。しかし、時代を切り開くための大きな仕事であったことはまぎれもない事実なのです。それまでのキリスト教にはなかった「霊魂説」「再生説」「カルマ的因果説」という事実を明らかにしてくれたのです。まさにそれは偉業でした。
私達は先人の仕事を尊敬の目を持って見るようにしたいものです。そうした視点を忘れることなく、且つ、今現在、時代が進み最新で最高の真理を正しく求めることが重要になるのです。

 カルマと再生に深く思いを致す

この度、「転生の秘密」「エドガー・ケーシーの全て」「エドガー・ケーシーの超リーデング」の三冊及び「ニューズレター№11 普及会のスピリチュアリズムから見たエドガーケーシー」を再読いたしました。
私達は自分自身が再生の人生を送っていること、そしてそれは己の霊的成長のため、つまりは過去世で負ったカルマを清算する人生である、さらに言えば不足している面、欠けている部分を補うためである。このことは十分に理解しているつもりです。
ですが今回再学習することで、言葉での理解を超えた何かしら、迫りくるものを感じることとなりました。
今現在、苦境に在るということは、今だからこそ(今世だからこそ)カルマという負債を返却できるだけの霊的成長が成されたからであるというのです。もし少し前の前世や、あるいは今世でも、もう少し若い時では到底気づかないで返却は不可能であったからなのだというのです。とても納得がゆきました。

心に沁みる言葉を以下に挙げます。

「これはあなたのカルマです。しかし、それに対しあなたには出来ることがあります。」
「病気の場合、心の持ち方を変え、憎しみや敵意を完全に取り除くように。」
「この人は何のために病気を治したいのか、自分の肉欲を満足させるためか、ますます利己的になるためか、もしそうならば、今のまま治らぬほうが良い。」
「カルマの法則が存在するのは、霊魂の誤りを正すことにある。従って懲らしめを受動的に受け入れるのではなく、自分の置かれた窮状の持つ霊的教訓を学ぼうと積極的に努力することが大切だ。」
「ある人が窮状に在るとき、その苦しみに対して冷淡であることは己自身にカルマの懲らしめを招くことを知ってその人を助けるべく努力しなければならない。」
「カルマは解放者であり、友である。」

今世で私は女性性に関する幾つかの苦しみを味わってまいりました。それは極若いころから始まっていました。そして近年になり、女性性の象徴である、子宮と卵巣、さらに片方の乳房摘出という憂き目にあいました。このことは何らかのカルマに由来する、ということは感じていました。
今回それがよりしっくりと腑に落ちた、といいますか、理解が深まりました。
つまり、過去世において自分はそれに見合う事をしてきた、ということです。
例えば、ほんの例えですが、過去世のどこかで、私は男性で外科医であった、そして無慈悲にも、女性のからだを切り刻んできた、あるいはもっと違う形で女性性を踏みにじったという具合です。

私は霊能者に自分の過去世を教えてもらいたい、など考えたこともありません。
自分の過去世をあえて知る必要はないと言われていますし、自分の今置かれている様子からおおよその推察は可能です。
これまでの体験の上、書物からではありますがカルマと再生についてより深く知ることでその実態が理解出来、より謙虚により従順に負債の返却に向けて努力できるように思いました。転生の実情を知ることで、何故現状があるのかが分かります。

人は永遠の生を送る旅人であり、決して急いだり焦ったりする必要はなく、ゆったりと心を落ち着けて行こうと思います。いつかはカルマを清算し魂を清め、より清浄な域に到達できるとの希望を持って、人生の究極の目標である霊的成長を目指します。
喜びの内に。

参考・引用文献
「転生の秘密」    たま出版 ジナ・サーミナラ著   
エドガー・ケーシーの全て」 サンマーク出版 
エドガー・ケーシーの超リーデング 」 ヒカルランド

   霊主肉従、そして我が家の花たち

              我が家のクリスマスローズ 

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 先日、体調も良いし春めいて天気も良いし、ということで少し遠いのですが何時も行く公園までゆっくりと2時間のウオーキングをしてまいりました。しだれ柳が萌黄色に輝いており、早春の気配を満喫できました。往復とも快調でとても満足しました。が、翌々日から一気に体調不良、気力低下に陥りました。

一体どうしたというのでしょうか。冬中殆ど運動をしておらず、いきなり2時間のウオーキングは今の自分には強過ぎたということ、それから最近体調が良いことから食べる量が多くなっていて体重が増加していたことです。これらは心臓に対して大いに負荷を掛けます。 以前もお知らせしていますが私は慢性心不全で、心不全診療ガイドライン(軽いほうからA、B、C、Dと4つに分けている)の病期区分によれば、Cに該当します。これらに関しては十分に知っているはずでした。しかし、行動は間違っていました。知識が身に付いていないのです。自己コントロールができないのでした。
自己嫌悪に陥り、数日悶々としておりました。気分が沈み、エネルギーが湧きませんでした。 “体調が良い“、これは喜ばしいことなのですが、ここにも落とし穴があったのす。”わ~い、体調よいぞ~、ウオーキングしよう、沢山食べて元気をつけよう~“という極めて思慮のない短絡的な発想です。 つまり、これは肉体面に注意が注がれ霊的なことを疎かにした、ということになります。「霊主肉従」から「肉主霊従」の状態に陥ってしまっているのです。

私は医療に従事してきた人間であり、病気は敗北を意味し受け入れられない、”健康であらねばならない”という呪縛に絡めとられていたようです。

しかし、病気はこれまでの(過去世も含めて)摂理違反の結果であり、それは謙虚になり素直に受け入れなければなりません。受け入れられない、ということはすなわち傲慢であるということです。

私は健康問題、日常生活のありかたに関しては、専門分野であり自信をもって周囲の人たちに語ってきました。それなのに何ということでしょうか・・・。自分は何も出来てはいない、知識も上辺だけのもので少しも身に付いていない。他人に語る資格などこれっぽちもない。これまでも私は冷静さに欠ける、という自覚はありました。一呼吸おいてから返事をする、答えるということを自分に言い聞かせてきました。
でも、まだまだ出来ておりませんでした。
健康を考えるとき、私は肉体をもつ霊である、という人間存在の根幹を決して忘れてはならないのです。今、自分の肉体は病気であるが私の本体は霊であり、その霊は決して病んではいない、肉体は惨めな状態にあるが、私自身はけっして惨めではない、気落ちすることは全くないのです。神の分霊であり、至高なる所を目指している貴重な存在であるという自覚です。しかし、残念ながらしばしば失念しておりました。
病気であることはある意味でむしろ好ましいとさえ言えます。病気により肉体が弱まり、霊的な感性が鋭くなるからです。一種の修行と言えます。

この時の私は体調が良い故に、”よし頑張ろう”と肉体面のことに関心が向き、霊的なことが疎かになっていたのです。若い頃登山が趣味でした。”やれば出来る”、という全能感がふと、よみがえるのです。そうして、今の状態を忘れで無茶をしてしまう、コントロールが出来なくなってしまうのです。自己コントロールが出来ない人間、霊優位の生活の出来ない人間はそもそも、真理を語る資格はないと言えるでしょう。
しかし、私達地上人は発展途上の未完成の人間でありますから、繰り返し過ちを犯します。そこで反省し、努力するという道しかありません。

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 ここでスピリチュアルズム普及会のホームページからの文章を引用させて頂きます。

スピリチュアリズムの思想【Ⅲ】(3)スピリチュアリズム人生の第1歩は、霊優位のための闘いからの抜粋です。スピリチュアリズム普及会 第1公

 「霊優位」は人間が霊的存在としての立場を確立するための必須条件です。そして「人間は霊と肉の二元からなる存在である」「霊と肉はそれぞれ反対の方向性を持っている」したがって「霊と肉の間で葛藤が生じるようになる」「霊優位のためにはなんらかの闘いや修行が必要とされる」霊優位の状態では周りの人たちに対して愛の想いが湧き、肉欲が消え、エゴ的な思いがなくなり、霊的な心地よさ、すがすがしさ、明るさ、喜びを心の底から味わえます。そして「肉主霊従」という摂理に反した不調和な状態が続くとやがて心身の苦しみ、痛みを感じるようになります。それが限界にまで至ると、否応な「霊優位」の方向を目指すようになります。地上人類はこのように「霊優位」の状態と「肉優位」の状態の間を行ったり来たりする中で、少しずつ霊的成長の道をたどってきたのです。“三歩進んで二歩下がる”ということの連続です。

 今回の落ち込みも決して無駄ではなかったと今、思います。無理をせず頑張ります。
皆さんも世の中不快なことが多々ありますが、そのようなことに心を乱すことなく、平静心で生きてまいりましょう。

 お終いに気分一新のためになるかもしれませんので、我が家の庭の様子をお伝えしようと思います。北国にもようやく遅い春がやってきました。 

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今年も真っ白なクリスマスローズが咲きました。ヒヤヒンス、水仙も咲きだし、これからチューリップも赤、黄、白、橙、サーモンピンクと咲き誇ります。心浮き立つ季節です。狭い庭には約100種類の草木が植えてありますが、今年は少し整理してすっきりさせようと思います。増えすぎたことと、私自身の体力的な制限からあまり手を掛けられなくなりつつあるからです。花や木々は愛情をもって関われば、しっかりと答えてくれます。それが嬉しく天気がよければ毎日お世話しています。

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 ついでに紹介します。我が家の愛猫タマゴローは16歳になり(野良猫だったので正確な年齢は不明)、食事量、動量ともに少なくなりました。毛並みもボサボサとなり、毎日マッサージしています。私は花も動物も生き物が大好きです。地上人の全てが生き物を大切にしてくれるならこの地上世界はどんなにか美しく輝くことでしょう!!

 

宿命のドリル

孤独の猫 に対する画像結果

先日「あの世を味方につける生き方」という本を読みました。著者は美鈴という霊能者です。本の内容全体がどうであるかをここでは論じませんが、一つだけ考えさせられることがありました。「運命と宿命」というところです。
著者は言います。人はそれぞれ「宿命のドリルを持って地上にやって来る」という件(くだり)です。
これはつまり、人はそれぞれが成さなければならない宿題、あるいは使命を持って地上人生を生きるということです。前生、あるいは前々生で出来なかったこと、やり損ねたことを成し遂げるためにも今生の人生があると言います。

再生の目的は進化のためで、進化とはカルマの清算であり、魂の浄化であり、過去世からの果たせていない課題の成就です。そのために必要な運命が用意されており、用意され、というよりは自らが選んだ運命と言ったほうが良いでしょう。その運命を乗り切るために因果率の働きで数々の試練にあうのです。再生のもう一つの目的は“使命”の成就の為です。スピリチュアリストの再生の目的は、個人的なカルマの清算や自分自身の浄化(類魂の進化)の為だけでなく、それと同時にこの“使命”のためでもあります。

ここでは使命については触れません。
私が常に頭から離れないことがあります。「私は今生の人生で何を成し遂げようとして地上にやってきたのだろうか」ということです。これまでの過去世で、やり残した事、課題とは何か?
特に意識しなくてもその課題を解決するように霊界は導いてくださる、人生は自然にそのような道に導かれるのでしょうが、私はとても気になり考えずにおられませんでした。その結果、自分は「真に魂の底から、愛し信頼しあえる人間関係を築く事」であるように感じられました。

私の父親は頑固で自分勝手でDV男でした。母親は鈍感で優柔不断で愚痴ばかり言っていました。ここには夫婦愛も円満な家族関係もなく、当然信頼関係なぞありませんでした。こどもたちは本心を語るということはなく、ただただ親の顔色を見て生きていました。“家庭“とは如何なるのものかが全く分からずに大人になったように思います。

私は第二次世界大戦の最中に東京に生を受けました。戦局が怪しくなり東京大空襲がすぐそこに近づいて来た時、やっとの思いで北海道に逃れてきました。そのときの苦労を後に母が語ってくれたことがありました。「お前(2歳の私)を背負ったまま青函連絡船から飛び降りよう思った」と。その時の母の様子を後に私は想像してみました。多分こんな様子だったことでしょう。
背には2歳の私、片手には4歳の姉、もう片手には風呂敷包み、母の背後には6歳の兄がとぼとぼと歩いている、そして真っ黒い煙を吐く汽車で北海道に向かう。多分母は私の弟を妊娠していたことと思われます。では父はどうしていたのか?ということですが、父は10歳の姉が学童疎開で千葉の寺で生活していたのでそれを迎えに千葉へ立ち寄り、私達とは行動が別となったのです。

北海道での暮らしは本当に何もないところからのスタートでした。2歳か3歳の頃ですが覚えていることがあります。父が建てた家で、床は土の上に筵(むしろ)を引いただけ、壁も屋根もクマザサです。それだけです。そこに一家6人が暮らすのです。嵐が来なければ何とか雨風を防げたのです。そうして雪が降る前に近所の大工さんにお願いして、床のある家を建ててもらうことができましたが。

こんな暮らしでしたが、嬉しかったこともありました。何もない生活でありながらも、母が東京で購入してくれていた綺麗な着物を祭りの日に着せてくれたこと、毎年一度は母が手造りの洋服を作ってくれたこと、などです。私は子供の頃から奇麗なものが大好きでした。多分それは母がおしゃれ好きで、娘にも綺麗なものを着せたい、という気持ちからなのだと思われます。成長してからも、厳しい生活を強いられた時期でもなんとか少しでも綺麗でありたいという思いを持ち続けました。またナースの仕事をしていた時には誰もしていなかったことですが、ユニフォームにポケットチーフを欠かすことはありませんでした。私は今も綺麗な事、綺麗なものが大好きです。自分の庭を綺麗にし、家のなかも綺麗に保つようにしています。出来るだけ身ぎれいにして、他の人に不快を与えないように気を付けています。自分の身近な環境を、暮らす社会を、世界を綺麗にできるように何等かの働きができることを望んでいます。これは外面だけの話ではなく、内面の、魂の内側の美を希求しているのです。

私の子供時代はいじめの毎日でした。「都会から来た子」というレッテルを張り、恰好のいじめの対象とされたのです。そうして此のことは親にも教師にも言えませんでした。ひたすら耐えることのみでした。子供の時から友達はなく、いつも孤独でした。どこにも自分自身をさらけ出して気を楽にする所はありませんでした。あったとするならば猫と遊んでいるとき、それと住んでいる山奥の大自然の懐に抱かれている感覚に浸れるときであったように思います。どこまでも青く澄み渡った空を、降り積もった真っ白な雪の上に寝転んで眺めます。物音は一切聞こえません。静寂過ぎて宇宙の鼓動が聞こえます。自分は無く宇宙と一体の感覚になるのです。素晴らしい体験でした。

幼少のころの山奥での貧しく(当時は誰もが貧しかった)、且つサバイバルな生活、高校生になり一人での自炊生活のため栄養不良で脚気、更に炊事に使った炭火で一酸化炭素中毒で2度死にそうになったりしながら、なんとか死なずにやって来られました。成人してからの宗教教団での厳しい生活などをを通して、困難に耐えてゆく底力が培われたものと思っています。
私はこうして霊界から強くなれ、忍耐強く在れ、と鍛えられてきたのだと思います。

課題を達成することは簡単ではなく、厳しい試練が必要なのです。これでもか!というような試練が必要であったのです。 そして単に試練を受けるだけではダメで、それを乗り越えなければなりません。信頼することが出来きなかったなら、出来るようにならなければなりません。 愛することが出来なかったのなら、出来るようにならなければならないのです。

体験して来た事柄が間違っていた、ということを理解しなければ新たなスタートは出来ません。スピリチュアリズムの訓えはこれを強く自覚させてくれました。間違いは正さねばなりません。出来なかったことはやり遂げなければなりません。自分自身を作り変えるのです。
スピリチュリズム的人生とは、このように人間関係や社会の軋轢による葛藤を繰り返しつつ、過去世を含めてこれまでの人生で成しえなかった事を成就する生き方です。
私の中で大きな位置を占めていた課題である、対象を信頼する、愛する事の幾分かは達成できたように思います。スピリチュアリズム人生とはそう意味で厳しい試練の人生なのです。私は好き好んで皆さまを脅したりしようという思いは全くありません。ただご自身の人生の意味をご理解いただき、勇気を持って立ち向かって頂きたいと願うばかりなのです。

私は自分に課した課題を達成し、待っている類魂のもとへ帰還したいと思っています。類魂の仲間たちはきっと喜んで迎えてくれることでしょう。“おかえり!よく頑張ったね”

今度こそ本当の人間になりたいのです。“ミニチュアの神“とシルバーバーチが言う、本来の人間です。神の属性を顕現できる人間です。今生の人生は短いですがもう少しがんばります。神の願われる人間を目指して。

今回は不肖私の生い立ちなどを書かせていただきましたが、何某かの参考になればと思います。
地球上の全ての人間が作り変えられるならば、地上天国は出来上がるのです。一気に全ての人間が作り変えることは不可能です。が、気づいた者たちから、行動し努力することしか方法はありません。実に気の長い話ではありますが、人間は永遠に生きるのです。死んでも死なないのです。宇宙も地球も存続し続きます。そういう訳ですから、決して焦ることなく、倦むことなく努力してまいりましょう。

 

霊力について

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霊力について考えて行きます。

「霊」とは肉眼では見ることが出来ませんので、存在しないとする考え方があります。現代ではそうした目に見えないものは存在しないと主張する人たちが多数を占めています。唯物的思考です。
しかし目に見えないものは沢山存在します。
電磁波とは電場と磁場が交互に作用しながら空間を伝播する波のことを言います。それには放射線、紫外線、赤外線、電波などがあります。波長が短くなるほど、エネルギーは高くなります。波と粒子の性質を持ちます。
空気はご存じのように窒素、酸素、二酸化炭素など原子からなっています。目には見えないけれど存在します。物質から構成されています。
細菌もウイルスも見えないけれども存在します。そして良くも悪くも私達に多大なる影響を及ぼしています。共存している、と言っても良いかもしれません。

そして目には見えないけれども「愛」は厳然として存在します。「霊」も同じく存在しているのです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊カというものは存在しないことになります。

では、ここで基本的なことを抑えておきたいと思います。
それは「霊」とはなにか?ということですが、私達は死んで「霊」になるのではありません。地上で生きているときからすでに「霊」なのです。しかも「霊」が本体であり、肉体は霊を包む衣服に当るのです。あなたという人間は霊と肉によって構成されています。では、どこに霊を発見することができるでしょうか?
それはあなたの言葉、行い、存在そのものに見ることが出来るのです。あなたの言葉、行い、生活そのものにあなたの霊的進化の度合いが現れているのです。

ペットや野の花の愛らしさ、自然界の美しさは汚されていないままの創造の御業が現れています。人間界の醜い在り様とは大違いです。

霊性が進化すればするほど、人間は美しいものを求めるようになるのです。次のシルバーバーチの言葉をご覧ください。

 美を求める心は魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。精神が成長すればするほど、醜い、卑劣な環境に不快感を抱くようになるものです。波長が合わなくなるからです。自分の置かれた環境をより美しくしたいと思い始めたらそれは進化と成長の兆しであると思ってよろしい。

  (シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ  ハート出版 P196)

 次に「霊力」とは何か?についてですが、いわゆる霊の姿が見えるという霊視能力、聞こえるという霊聴能力、そして未来予言などという狭い意味での心霊的能力のことを指しているのではありません。
霊力とはスピリチュアルな力でありここにあげた能力はサイキック能力と言い、区別されます。つまりスピリチュアルな力はあくまでも霊界から来るものであり、サイキック能力とは霊媒自身の持つ力を指し、霊界とはなんの繋がりもない、ということです。ですから、例えサイキック能力が発達していたとしても、魂の成長が伴なわなければ、低いバイブレーションの仕事しか行えません。

遠い過去から、この宇宙には霊力が注がれています。あなたが存在し考え、動き回れるのは全て霊力のなせる業です。自然界のあらゆる動き、変化を支配し四季を調節し一粒の種、一本の植物、一本の花、全てに関与し千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。その霊力が地上世界において顕現するためには、それに適した器、道具、媒体、通路、霊媒といったものが必要となります。

「霊力」は端的に言うならば、“霊界からの働きかけ“を指しています。
それは高級霊界からの啓示であり、霊界通信という形で受け取ったり、インスピレーションとして受け取ったり、様々な媒体を通しての知識であったりします。そしてそれに触発された人間は霊力を顕現させる良き道具となることが出来るのです。
それは何時でも、どこに於いても、絶えず注がれているわけではないようです。受け止められる地上の器が是非とも必要なのです。霊界側はそれを注意深く見定めています。

「霊力」は神の、そして高級霊界人の意志を受け継いだ人間を通してこの地上に顕現することになるのです。地上の進化・発展に寄与できるのは実に恵みであります。

それは私達に真の自由をもたらし、あらゆる束縛や足かせを捨てさせる方法を教えてくれ、物質界だけでなく死後にも通用する生き方教えてくれます。

美と愛と叡智、理解力と真実と幸せをもたらしてくれるメッセージです。

170年まえにこの地球上に勃興したスピリチュアリズム運動(ハイズビル事件に端を発する)はまさにこの霊力の降下そのものでした。どうしようもないほどに醜い状態に陥ってしまった地球人類を救済するために、高級霊界の霊人たちが一致団結し、入念な計画のもとに降ろされたプロジェクトなのです。

科学・医学・思想・宗教その他あらゆる分野において物質万能主義を否定して霊的事実に目を向けなければなりません。一人ひとりが霊的真理に目覚め、それを実生活に展開してこそ人類の救いがあるのです。

救世主やほかの天体から宇宙人がやってきて、人類を救ってくれる訳ではありません。一人ひとりの自らの努力が要請されているのです。これまでも、このブログでも言及してきましたが、指針は既に示されているのです。

真理を学ばなければなりません。無知であってはならないのです。あまりにも長い間、無知の暗闇に置かれて来た私達人類は、それに慣れっこになってしまっています。

暗闇でも、苦しくても何とか生きてきました。実は本当には生きているとは言えない有様でありますが・・・。しかし、もうただ耐えていることは止めにしなければなりません。目を覚まさなければならないのです。

なぜなら、時至り高級霊界から霊界通信を通して霊的真理か降ろされています。辿るべき道筋が示されているからです。私達一人ひとりが霊力の受け皿となり、この乱れ切った混迷の地球を浄化してゆく時が到来したからです。

人生観の転換と霊的成長

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今日は人生観について考えてみます。

「あなたご自身の人生観はどのようなものですか?」と聞かれ何と答えるでしょうか。殆どの人は自分自身の人生について何らかの思考を巡らしてきたと思います。
それは若い頃であったかも知れませんし、今まさにそうした考えを巡らしているかもしれません。人生って何だろう・・・、何のために人は生まれてくるのであろうか・・・運命は決められているものだろうか・・・、運命って自分で変えることができるとしたら、自分はどんな人生を望むだろうか・・・、価値ある生き方をしたい、では価値ある人生ってどんな人生なのか・・・。

 これらはすべて私自身が極若い時から抱いてきた疑問であり人生の課題でした。
しかし、その疑問も課題も解決されないまま、時は経過してきました。自分自身の生き行く道が解らない、人生の指針を見出せないという状況です。

 考えてみれば、このような状況は何も私一人に限ったことではなく、地球人類の多くがそのように生きているのです。自分はどこを目指しているのか、目的地が見いだせない。何をすべきなのかが解らないまま闇雲に右往左往しているだけなのです。地球は迷子たちで満ちているのです。どこを見ても道を見出せない迷子たちで溢れているのです。そしてこのような人間によって出来上がっているのが社会、世界なのです。どこの社会であろうと、どこの国家であろうと、状況は同じということになります。人類はすべからく迷子の状況にあるのです。

ですから、当然どこを見ても混乱に満ち満ちているのです。政治、経済、教育、科学、宗教、あらゆる分野に見て取ることが出来ます。人間とは如何なる存在か、宇宙とは何か、何のためにこれらは存在するのか、こうした最も根源的なテーマを蔑ろにしていては、どんなに労力・時間をかけて物事に取り組んでも、すべてが砂上の楼閣でしかないのです。虚しい取り組みに終わることでしょう。そうして現代人の多くは諦め、あるいは疲れ果てて虚無的になったり、刹那的快楽に生きるようになります。

スポーツや退廃的な娯楽に興じるようになります。薬物依存、セックス依存が幅をきかせています。物質至上主義に飲み込まれ、道徳は廃れ、伝統や文化は必要のない代物と扱われ精神性の危機に見舞われています。神の存在は随分と遠くなったようです。

それでも人間は魂の奥に神の分霊を宿していますから、自分自身が納得のゆくように努力します。なんとか折り合いを付けて頑張ってきました。

 テーマに戻ります。人生観とは何に価値を置くか、という価値観ということになります。つまり、人生観=価値観ということです。

スピリチュアリズムでは「神」と「神の摂理」を説いています。お金や地位、権力に価値を置く物質至上主義は間違いであり、人間とは「霊」が主で、「肉」は従であるので「霊主肉従」、そしてまた自分中心の利己愛ではなく、他を愛する「利他愛」が摂理であるとしています。これがスピリチュアリズムの価値観でもあるのです。先に述べた目標の見えない人生、迷える人生、虚しい人生は一重にこの「神と神の摂理」を知らず、摂理から外れた結果から生じているのです。

ここで私が言いたいことは、「人生観」の転換をして頂きたいということです。すなわち「価値観」の転換です。物質中心の人生から、精神と霊を主に、そして自分中心の利己愛から、他を想う利他愛の生き方に価値を置く人生にです。世界は人間によってなりたっているので、一人ひとりがこうした価値観で生きるなら、それは自分ひとりの問題解決だけではなく、広く世界の諸問題の解決に至るということです。

これはこのように一口に言うことが出来ますが、実際に実践することはそれは困難であります。何しろ間違いを間違いであるとの自覚もなく、長年続けてきた習慣を見直すことになるからです。しかも周りは皆これまでの貴方と同じく間違いの自覚がありません。そういう人たちに取り囲まれているのです。ですからそれは苦しい歩みと言えます。これまでの生き方を変更するのですから。しかし苦しみ、困難を避けていては先へは進めません。私達人間は良きものを手にしたいなら、真の幸せを手にしたいなら、努力は欠かせません。そんなことは幼稚園児でも知っています。

端的に言うならば、この地上人生とは、苦難の体験を通して、これまでの罪(あなたはどう思われるかしれませんが過去世をも含めて)の償いをし、霊的成長をする場として存在しているのです。しかし、その歩みは決して辛いばかりではありません。霊的成長をするその歩みは喜びももたらしてくれます。魂のなかから湧いてくる他のために生きる喜びです。最も身近なことから少しずつ取り組むことは可能です。気づいたことから実践するのです。スピリチュアリズムの真髄を学んでください。そうすれば、何を為すべきを知ることが出来ます。知識は大切です。無知からは向上、進歩はあり得ません。

神は愛そのものです。ですから地獄さながらの中に住む私達地球人類を救おうとされ、あらゆる手立てを講じられています。諦めないで下さい。求めてください。霊界の高級霊たちが涙ながらに手を差し伸べています。それは細い糸かもしれません。ですが、強靭に出来ており、あなたが離さない限り決してあなたを見捨てることはしません。あるいは芥川龍之介蜘蛛の糸の様であるかもしれません。あなたが自己中心の心を持たないなら、けっして切れる様なことは起こりません。

 先回でも述べましたように、スピリチュアリズムでは人生の最重要事項は「霊的成長」であると説いています。霊的成長とは「霊的価値観の確立」のことを指します。つまり、霊的価値観への転換こそ人生での最重要事項というわけです。

今回のテーマに「人生観の転換と霊的成長」と挙げたわけが幾分かはお解り頂けたものと思ます。

自由と喜びと霊的成長

 

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今日は「自由と喜びと霊的成長」に関して論じてみます。

ずっと前になりますが、ある宗教教団に属していた時、一つの囚われから解放され、心底からほっとしたことがあります。それは何と表現するのがふさわしいのか、その時にはまだ霊的真理を知らない時でしたが、いま考えるにそれはまさに霊界の大勢の霊人たちが共に喜び祝してくれている、という感覚とでも言いましょうか。
その時、私は琵琶湖近くの公園に一人佇んででいました。
見上げる空が急に表現できないように澄み渡り、まるで別世界の様でした。どこまでも明るく、光輝いていたのです。胸の中は、安堵・喜びといった想いでした。
そして最近も、あることを通して自由とは斯くも心地良いのもであるという体験をいたしました。

人は 何処の国に生まれたかによって、あるいは時代によって、そして学問の世界、思想・宗教の世界でも、それにに属することで一定の基準、規範、枠組みの中での判断・行動が要請されます。私達は法治国家日本に生まれ、憲法を始め多くの法律や条例などにより規制され、その枠組みの中で生きることになります。さらに世間には文化と言われるものや、常識とされているものが幅を利かせています。多くの人々はそれに取り込まれて身動きが出来なくなっています。まさに憲法で保証されているはずの自由が損なわれています。雁字搦めの有様です。たとえそれに何らかの不都合や違和感を感じたとしても、世の中とはそんなものだ、と妙に悟ったように諦めてしまいます。間違いも皆が言い続けるうちに、いつの間にか当たり前のこととされてしまいます。それ以上には疑いを持たず、受け入れています。洗脳と言っても過言ではないように思います。

 シルバーバーチは訓えの中で幾度にもわたって、“魂の自由”は神から子供である人間に付与された遺産である、と述べております。人間は神の操り人形やロボットではありません。自由意志を有した神の子供なのです。神は創造の御業の時“摂理“を設けられました。私達人類はこの摂理に従うも、また背くも付与された自由意志に任されてきたのです。私達は誰か他の人に“こうすべきだ、こうしてはいけない”など規制されて生きて行くのではなく、神の作られた摂理に従う事のみが要請されているのです。

  スピリチュアリズムでは人生の目的は「霊的成長」であると説いています。そして霊的成長とは”神と生きとし生けるものへの貢献”によって成し遂げられることになります。そうして、そうした歩みはまさに「幸せ」であるということが出来ます。
言い換えれば、「人生とは幸せを得るために在る」、ということが出来るのです。
今、人生が思う通りに行かなくて、あるいは病の中で苦しんでいるとしよう。こうした一見不幸と思えることも、魂の成長のための大事なステップであり、むしろ有難いことと捉えるのがスピリチュアリズムなのです。こうした苦しみはイコール不幸ではないということなのです。
例を挙げてみます。
愛する我が子のために犠牲になる親が居たとします。しかし彼・彼女は決して不幸ではなく、むしろ喜びさえ感じて居るかも知れないのです。
スピリチュアリズムでは、幸せとは如何なるものかを訓えてくれています。

 以下にすこし長くなりますが、「シルバーバーチの霊訓(四)」潮文社 p41~43 からの文章を引用します。 

『光と闇、日向と影、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして影はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。困難、障害、不利な条件、これらは皆魂の試練なのです。それを克服したとき、魂は一層充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。一体無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。勿論思われないでしょう。人生の喜び、笑いの味は、人生の辛酸を嘗め尽くして初めて分かります。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の肥やしです。そのうち、あなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返るときが参ります。そうすれば紆余曲折した一見とりとめのない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんと意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものを持っております。一体何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです。』

 続けてもう一つ「シルバーバーチの霊訓(一)」潮文社 p55より   

『悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に、深甚なる意味を持つものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸などは地上に人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。そもそも、その教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。』     

いまこそ、私達は神から付与されている最も尊い「自由」について考え、神の子供らしく堂々と生きてまいりましょう。そのために私達を知らないうちに縛り付けている様々な間違い、しがらみを明らかにしなければなりません。無知の闇に留まっていてはならないのです。探求心、勇気が必要です。

私は医療の世界に生きてきた人間です。そこには間違った考えによる多くの不幸が発生しています。度々申し上げていますが、病気は医師が、薬が直すようなものではありません。自分に備わっている自然治癒力によるものなのです。医師、そして薬はその手伝いをするにすぎません。そして薬は数々の副作用があります。薬の添付文書をみるとそこには驚くような副作用がこれでもか!というほど沢山記載されています。例えば、かって私が服用していた抗不整脈剤の添付文書の注意事項には”不整脈”と記載されているのです。不整脈を治そうとしているのに、副作用に”不整脈”とあるのです。頭は大混乱です。それを億面もなく、製薬会社は添付文書に記載しているのです。そして更に、医師はなんら疑問もなくそれを処方するのです。
また、私の友人は医師に勧められるままに、10種類以上の薬を服用しています。一つ一つの薬にこのような副作用があるのにそれを10種類も合わさったら一体どういうことが生じると思いますか?そもそも、その一つ一つは本当にその方に必要なものでしょうか?そうしてその友人はさらに新たに別の生活習慣病見に舞われました。脳梗塞です。勿論直接に薬との因果関係が証明されたわけではありません。が、当然何らかの作用(好ましからざる作用)があると考えられます。
薬の恐ろしさについて述べましたが、これは私達の身近な問題の一つにすぎません。さまざまな分野において、私達が知らないうちにそうした間違いをも間違いとも感じなくってしまっています。

世界は混迷の極みにありますが、これも光明に至るための私達人類に課せられた大いなる宿題と捉え、困難ではありますが地道に努力し、共に立ち向かってまいりましょう。