一スピリチュアリストの声

10年程まえスピリチュアリズムに出合いました。まだまだ学びの途中にありますが、これまでに知り得たこと、経験したことを混じえながら、今思う事を綴っていきます。

ガーデニング

「災い転じて福となす」という言葉があります。今、私たちは未曽有の災厄に見舞われています。一切の物質的価値観から目を転じる時がやって来たのでしょう。物も、そして人の命でさえもそれのみを追い求めてはならないことに気づかなければなりません。これまでの価値観ではもはや人類は生き延びていくことは出来ないのです。

私の趣味はガーデニングです。北海道の春は遅いのですが、それ故にやっと巡ってきた春はこころ浮き立つ思いです。3月も終わり庭の雪がすっかり溶けてなくなりました。 

       クリスマスローズ:ヘレボルス・ニゲル 真っ白の花を雪の中から一番に顔を見せてくれるのは、クリスマス・ローズの原種ニゲルです。これはドイツ・オーストリアの山中に自生する清楚な花です。それらの地ではクリスマスのころに咲き出すので、そのような名前になったようです。
私の庭でも雪の中から咲き出しました。沢山ある我が家のクリスマス・ローズのなかで一番好きな花です。昨年株分けして、今二株咲いています。他のクリスマス・ローズはもう少し後に咲出します。 同時期に咲くのがクロッカスですね。   

                 クロッカス - Wikipedia 黄、紫、白があります。

それから少ししてチューリップが咲きます。これは色々の種類を植えています。サーモンピンクの大、紫罹ったピンクの中、オレンジの小、 黄色の極小などです。
5月のゴールデン・ウイーク頃に、ようやく桜が咲き始めます。桜は白と八重のピンクが在ります。 6月にはバラが咲きます。バラは全部で7本あります。 昨年までは赤のつるバラがありましたが、四方へ蔓が伸び、私の手に負えなくなり、残念ながら処分いたしました。長年慈しんできたバラでとても躊躇しましたが仕方がありません。
狭いマンションの庭です。それなのに40年間で100類ぐらいの植栽になってしまいました。少しづつ整理しなければなりません。 

今年の冬中、ベランダの手すりにエサ皿を設置してシジュウガラ たじみ百景/多治見の野鳥ヤマガラ階の窓の外にヒマワリの種を置いて ... にエサやりをしました。シジュウガラ、ヤマガラ、コガラ、鶯と4種類が来てくれて楽しいですね。写真はヤマガラです。

それから、我が家には猫が居ます。名前は「たまごろう」白黒の八割れでもと野良ネコです。野良なのに初めて会った時、「あなたの家の子になる」と訴えてきました。 そして15年になります。最高にかわいいですね。癒されています。

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これでお分かりかも知れませんが、私は動植物全般、生き物が大好きです。 こうした性格傾向は幼い時に暮らした山奥での生活が原体験となっているのだと思います。そしてそれ故とは言えないのかも知れませんが、人間相手はどちらかというならば苦手でした。過去形で書きましたが、実は未だその傾向で苦労しています。  

桜やバラはまた何時かアップしますね。      

認知症について~その②

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生物としての人間はいずれ肉体の死を迎えます。
「ピンピンコロリ」ということにあこがれる人は沢山います。しかし、それは心筋梗塞脳梗塞、そして戦死、事死故、自死でしかありえません。
本来の死に方は老衰であると言われています。
老衰で死ぬ場合、どのような経過をたどるのかを簡単に説明します。

これといった病気もなく、段々と食が細くなります。これは生理学的には老化することにより、人体の組織、器官、細胞の機能が低化、代謝が低くなり食物を必要としなくなるからです。また霊的には次のように考えられるでしょう。。即ち、霊界へ還るときが来ると、霊は肉体とお別れしなければなりません。ですから人間は食物を摂らなくなります。この時点ではまだ意識はしっかりしています。食が細くなったからと言って、無理やり介護者が食べ物を口に放り込むことをしてはいけません。本人が食べたい時に食べたいだけを食します。
そしてやがて何も食べなくなり、水だけになります。当然体重は落ちとても痩せてしまいます。それで良いのです。当然点滴などもしません。このころには意識はもうろうとしてきます。そしてやがて眠るように息を引き取ります。遺体はすっきりと軽く、本当に楽になったことが解り、周りの者たちも安堵します。

これに対して、食べなくなったからと言って病院に入院させるとどのようなことになるでしょうか?まず、経管栄養か大量の点滴を行います。経管栄養とは少し前までは鼻からチューブを挿入し流動物を流し込むやりかたが主流でしたが、今は外から胃に穴を開けて栄養補給をする胃瘻に変わっています。
チューブは栄養チューブの他、点滴チューブ、尿管カテーテル、酸素吸入チューブ、心拍数と血液中の酸素濃度を測るパルスオキシメーターなどが付けられます。場合によっては動脈ライン、気管内挿管チューブなども加わります。これを俗にスパゲッティ症候群と呼んでいます。
そして代謝が落ちているため当然排泄されない水分で、肺を始め全身水ぶくれの状態で苦しんで死を迎えます。溺死です。

介護療養型医療施設(いわゆる老人病院)ではまともには注視できない光景が展開しています。6人の高齢者が薄暗い部屋で臥床しています。丁度昼食時間であり、彼らの側には点滴ポールにぶら下っている流動食の袋が見えます。そこから経管栄養剤が胃ろうから注入されています。誰一人声を挙げたり、身動きをしたりしません。何故なら、彼らはもう殆ど意識がないからです。ただ、意識もないまま肉体を生かされ続けているのです。こうした部屋が廊下に沿ってずーと幾つも並んでいます。実際に私が目撃した光景です。
 強制栄養により10年も意識がないまま、生かされるという社会問題、人権問題が発生しているのです。
当然こうした医療の在り方に疑問の声を上げる人達が現れてきています。ではどうして未だこれへの解決手段が講じられないのでしょうか。
一つには医療を行う側、医師たちが人命第一主義に凝り固まっている、対象が誰であれ、どんな手段を講じても少しでも長生きをさせるのが自分の使命であるという信念です。
例えば事故の場合、救命を第一とするのは当然理解できます。そうすべきでありましょう。しかし、病が進行しもはや死期が近い場合、あるいは老化が進展し自分で食事を受け付けなくなった時は、自然の流れにまかせるのが妥当でありましょう。それが出来ないのは唯物的思考に囚われている人間の限界なのでしょう。

そうしてとても大切なことは、譬え医師に「あなたのお母さまは口から食べることは誤嚥の危険がありますから、胃ろうを創りそこから栄養物を与えるという方法が適切と思いますが、どうしますか?」と問われた場合です。 
よく考えずに、「そうですか、それではお願いします。」と答えれば、あなたのお母さまは10年間も胃ろうからの栄養補給でそのまま生き続ける、ということもあるのです。お母さまはそれを望んでいたのでしょうか?そしてあなたご自身はそうした生き方を望んでおられますか?
元気なうちに本人の意思確認をしていおくとが大切な理由はこうした事態を避けるためにも絶対に必要なのです。ちなみに私は日本尊厳死協会に入会しています。自分の意志を文章にしております。(living will―終末期医療における事前指示書)
無駄な延命は摂理に反すると思われます。地上に生まれ、そこでの使命、仕事を果たしたら安心して次の生に移るのです。あくまでもそれが自然であり、人間だけではなく生きとし生けるもの全ての在り方と思います。

ここまで、認知症に限らず死に瀕した者の在り方について述べてきましたが、ここからは認知症に関してです。認知症は高齢化した現代人には避けて通れない問題です。
アルツハイマー型は全認知症のうち約60%を占めています。認知症になることは誰もが望んではいないのにも関わらず、多くの人が発症しています。本当に避けることはできないのでしょうか?多くの人が認知症になるといっても、全ての人ということではないことに注目しましょう。
避けることも可能である、ということです。つまり予防です。何の手立てもせずに漫然とこれまでの生活態度を続けてはならないのです。アルツハイマー病の脳に見られるβアミロイドは病気が発症する25年も前から蓄積が始まっているのです。ですから、予防は早いほうが断然良いのす。中年期のあなた、そしてお若い方も、今すぐにご自分の生活を見直されることを強くお勧します。
今、解っている予防あるいは対策を挙げてみます。
生活習慣病(糖尿病、脳および心血管障害、高脂血症、高血圧)を予防、治療をする
・食事を見直す(魚を食べる、動物性脂肪を減らす、抗酸化物質を含むのもを食べる)
・運動をする(有酸素運動など)
・達成感を味わう(趣味など)
・他の人と交流する、共同作業をする(ボランティアなど)
他に教育歴や環境(ストレス)が関係するとも云われています。
教育歴については次のような見解があります。 生来の知能、受けた教育、職業の質によって造られる何かが、アルツハイマー病の病理に対する抵抗力になるのではないか、というものす。これに関連して言えることとしては、「頭を良く使う」事の大切さが挙げられています。
ストレスについては豊かな環境(マウスの実験で回し車で自由に遊ばせる)では神経細胞の新生が盛んに行われた、と報告されています。

結論として言えることは、アルツハイマー病にならない生活習慣とはつまり、昔から健康的な生活として奨励されてきたものなのです。
欧米化された食事、美食は健康の大敵です。
ホリスティック健康学・栄養研究所では生活習慣病を引き起こす原因となる”欧米食”を見直し、食生活を根本的に改善することの必要性を訴えています。詳しく知りたい方はそちらをご覧ください。

次に認知症の主な症状と基本的な対応について少し述べます。
初めは記憶障害、見当識障害です。いわゆる物忘れです。それから妄想、徘徊、不安、焦燥、うつ状態、せん妄、さらに失行(衣服の着脱、リモコン操作、お金の払い方、トイレの使い方が解らなくなる)、暴力行為、さらに進行すると、歩行、食事、排泄などの基本的能力、言語が失われて殆ど会話がなくなります。最終的に寝たきりとなります。

治療は根本的な治療法は現段階ではありません。
・抗認知症薬としてアリセプトなどがありますが、進行をゆるやかにするだけ
睡眠障害に対して睡眠薬
・不安を抑えるための精神安定剤、という状況です。

 次は基本的対応です。
・どうしてそのような行動をしたのかを考える
・自尊心が保てれるように対応する
・「できないこと」を責めず、「出来ること」に注目して引き出す
・役割を奪わない
・一人の人間として対等に接する
以上、まとまりに欠けるようですが、認知症について述べさせていただきました。
皆さまがより良い人生を送ることが出来ることを祈念してこの項を閉じます。

 参考文献
 「アルツハイマー病にならない」 井原康夫 / 荒井啓行著 朝日新聞社刊 2007.08  
 「スマート・エイジングー人生100年時代を生き抜く10の秘訣」 村田裕之著 徳間書店 2019.02

 

認知症について~その①

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先日、認知症研究の第一人者で、ご自身が認知症になった長谷川和夫氏のドキュメンタリーをテレビで見る機会がありました。老人医療、介護に関わる者なら誰もが知る精神科医で、1974年に「長谷川式簡易知能評価スケール」を発表、日本老年精神医学会を創設、学会を牽引、認知症の研究、診療の第一人者として活躍されてきた方です。

氏は現在91歳になられ、認知症デイケアセンターに通所されているようです。
奥様とお嬢様に支えられつつ、落ち着いて穏やかな日々を送っておられる様を拝見する事ができとても安堵しました。事実、物忘れはあるでしょう。日常生活では何かと不都合があるでしょう。しかし、たとえ認知症になったとしても、悲観する事はないと感じました。これまでの人生において、沢山学び人々に廣く貢献してきた事によって培われた人格の高潔さが伺えました。

もう一例、少し前のことになりますが、レーガンアメリカ大統領が全世界に向けた手紙の一部をここで取り上げてみます。(彼は2004年6月に93歳で肺炎で亡くなっています。)

「ですから、私は私がアルツハイマー病であることを皆さんに知ってもらうのは意味のあることであると考えています。こうして皆さんにお伝えすることによって、アルツハイマー病への関心が高まることを心から願っています。そうすればこの病気に罹った方やその家族の苦しみを理解することにもつながるでしょうから。今のところ、私はとても元気です。私は残された日々を、これまで過ごしてきたのと同じように過ごすつもりです。これからも同じように、愛するナンシーや家族と人生を分かち合います。(中略)私のアルツハイマー病が進行するにつれ、残念ながら、家族は重荷を背負うことになるでしょう。ナンシーをこの苦痛から解放する方法があれば、と思います。そしてその時がくれば、皆さんの助けを得て、ナンシーは信念、そして勇気をもってそれに直面すると私は信じています。」

なんと率直で気高い内容かと、改めて想いを深くしました。

人は高齢になってそれまでの人生の刈り入れを致します。
無知で我がままな生き方であったか、それとも他の人のために喜んで生きてきたか、人生の刈り入れの時に結果が示されるのです。

老齢期の看護、介護に関わって来た私達が度々口にする言葉に、「認知症になるとその人の素が出る」というものがあります。本当にそうなのです。若い頃にはなんとか表面を繕って社会生活を全うしますが、高齢となり更に認知症になれば、いわゆる理性でのコントロールが覚束なくなり隠されていた本性が表面化するのです。この理性でのコントロールについて、脳科学的には背外側前頭前野の機能不全で感情の抑制がきかなくなることによると言われていますが、ある人は穏やかで謙虚で好々爺と言われるようになり、又ある人は従来の我がまま、高慢さがさらに強くなり他人にとって迷惑な存在となるのです。
ある意味で本来の自分になる、とも言えます。好き嫌いの感情がはっきりと隠すことなく表現されるようになります。
老化現症は避けられません。私は必ずしもそれが憂うべきこととは思いません。社会の常識という囚われから自由になれるのです。夢にまで見た自由です。
高齢になると今まで出来ていた事が出来なくなる、自分自身のケアさえ出来なくなります。その究極が「下の世話」です。他人に下の世話をしてもらうことは本人の自尊心を大いに傷つけます。認知症になることで、その屈辱を回避できる。認知症とは神さまが与えて下さった恩恵であり、神さまの深遠なる配慮なのかもしれません。こうした声はなにも私だけではなく、以前から云われてきたことであり一考を要すると思います。

確かに社会からは生産性のない生き方しかできない、役に立たない者「お荷物」として見られることが多いのですが、彼らはかって今日の経済発展に多大な貢献をしてきた大先輩なのです。今その役目を終えてゆっくりと疲れを癒しているのです。

しかし、ここで重大なことを見過ごしてはなりません。それは、今述べてきたようにその人間がこれまでどのように生きて来たか、が問われているということです。
より良い結果を得るためには、それにふさわしい生き方を若いころから心掛ける以外にはあり得ないのです。生きて来たように死ぬのです。
人間としてより良い生き方をするためにはは無知であってはなりません。年を取ってから始めては遅すぎるのです。勿論なにもしないよりははるかに良いのですが。

世の常識は間違っていることが大変多いことを心に止めなくてはなりません。常識に囚われず、また他人任せにするのではなく、自分の人生は自分で構築してゆくという覚悟が必要です。

わが国では認知症に関してはあまり良いイメージがありません。
 認知症とは好ましからざる病気ないしは状態であり、
▪ ああはなりたくない
▪ お荷物だ 
▪ 不快な存在だ 
▪ 国家予算の大分を占めており、何とかせねばならない
などであり、つまり人間として尊重されていない存在だというのです。だからぞんざいに扱ってもよい、そもそも自業自得であるというのです。そんな人に大切な我々の税金を使うのは許されない、となります。
一方で「病気だから仕方がない」「誰もがいづれ認知症になるのだから、社会、国家が面倒を見るのは仕方がない」という声もあります。

2007年12月に愛知県で認知症のTさん(91歳)が電車に跳ねられて死亡するという事故がありました。JR東海は家族に720万円の損害賠償を請求し、一審の名古屋地裁は全額の支払いを命じました。これがマスコミで報道されたことにより、衝撃の声が沸き起こりました。
私もあの時は本当に驚き、この国はどうなっているのであろうかと危惧しました。これはむしろ事故死した高齢者の家族がJRを訴えるほうが当然と思いました。その理由は安全への注意義務を怠ったことに過失がある、と感じたからです。この判決に対して多くの人達が声を挙げました。「認知症の高齢者を24時間一瞬の隙も無く見守ることは不可能」「あまりにも認知症の介護の実態を知らない判決」と。そして2016年3月に最高裁が一審の判決を覆して逆転判決い言い渡しました。この9年間はご家族にとっての苦しみは如何ばかりであったでしょうか。

認知症は20世紀の終わり頃までは、「痴呆」と呼ばれており人前には出すことのできない存在とされ、家に閉じ込められていたり、精神病院へ収容されるという人権が全く無視されるされる時代でした。2004年になって「認知症」と改称され、認知症にたいする理解が進むようになり、その人たちに対して尊厳を守ろうとする動きが始まりました。

現在、65歳以上の高齢者のうち、7人に1人、462万人が認知症と云われています。そして2025年には5人に1人とその数が増加すると予測されています。
発症率は実に80歳代後半では40%、90歳代後半では80%が認知症になると言われています。

それでは我が国における認知症に対する取り組みを概観してみることにします。

先にも書いたように2004年に痴呆から認知症と呼称が改められました。その後いくつかの施策が発表されて来ました。
最新では2019年6月に認知症施策推進大綱が発表されました。基本的考えは以下の通りです。
認知症の発症を遅らせ、認知症になっても、希望を持って日常生活を過ごせる社会を目指し、認知症の人や家族の支援を尊重しながら「共生」「予防」を車の両輪として施策を推進する。
具体的には
①普及啓発、本人発信支援
②予防
③医療・ケア・介護サービス介護者への支援
認知症バリアフリーの推進、若年性認知症の人への支援、社会参加支援
⑤研究開発、産業促進、国際展開
となっています。
これらの施策に関して、国や自治体、企業などがどのような対策をしているか、私は殆ど解っていませんが、九州の大牟田市では独自のやり方で認知症への取り組みを展開しています。「大牟田方式」と呼ばれており、2004年から一般市民が訓練に参加、成果を上げています。
徘徊見守り大牟田方式と言われるもので、そのやり方とはこうです。
・家族が行方不明者として警察へ捜索願を出す。
・その情報を市内の役所、企業、公共機関へ配信≪愛情ネット≫する。
・すぐに見つかる。
というものです。
私の住んでいる札幌市の地域包括支援センターは住民に対して「認知症サポーター」になるための初歩的な指導を実施しています。また、認知症に特化してはいませんが、区の介護予防センターでは、月一度軽い運動教室を行っています。

ここから私の体験したことを書いてみます。

私は認知症グループホームに嘱託の看護師として2年程働いたことがあります。
そこで感じたことは、できることなら、こうした施設には入居したくないという事でした。そこでは人間としての尊厳が踏みにじられているという印象を受けました。

職員たちは訓練も受けていますし、工夫もなされていますが、極めて不十分なのです。
先ず挙げられることはマンパワーの不足です。高齢者一人ひとりに対する気配りが出来ません。当然事故も起こります。活気がありません。皆じ~と座っており、本を読むでもなく、テレビを見るわけでもなく、何もしていません。よれよれの人形のようです。形ばかりのおやつの時間があります。年に何度かの季節のイベントが催されます。喜んで参加しているようには見えません。職員に言われるがままに折り紙を折っています。

そしてマンパワーに関連するのですが、自由が制限されています。外出したいといっても自由ではなく、職員の時間のある時に限られるのです。

また、病気により不自由になった身体の機能回復に向けたリハビリが受けられません。Sさんは室内を壁などに伝って歩くことができますが、廊下に出る時は車いす使用と制限されています。
私の母の場合は(母はこの施設の入居者でした)施設で入浴中に転んで大腿骨頸部骨折をし、病院へ移送されて手術を受けました。創傷が治癒したら即退院です。病院でのリハビリは全くありませんでした。退院して施設にもどっても一切リハビリはありませんでした。私はリハビリを受けさせてください、と申し入れをしましたが受け入れられませんでした。完全な車いすでの生活になりました。認知症の人にリハビリは危険であり、衰えた機能を回復に導くということはあり得ない、とされているようでした。何が危険かというと、彼らが自分の意志でリハビリをしようと介護者のいないところで動くことが危険ということです。ここではリハビリという考えがそもそもないのです。機能の回復ということは完全に諦めている所なのです。

私は医師でも理学療法士でもありませんが、母の場合リハビリを順調に進めるならば、骨折まえのように歩行は可能になると観ていました。
肉体は使わなければ退化します。筋肉も脳細胞もです。機能は衰えるのです。
ところがこの施設では、衰えるに任せて何もしません。ただただ徐々に弱り死にゆく時を待っているだけなのです。

さらに問題と感じたことは、入居者が「ここが痛い」「具合が悪い」と言ってもまともに受け止めようとしないということです。
曰く「あの人はいつもああなんです、人の気を引こうとしているんです。」それに対して私は「そうした受け止め方ではなく、本当に痛いのかもしれない、きちんと対処しましょう」と助言するのですが聞く耳を持っていませんでした。これが介護支援専門員(ケアマネージャー)の態度でした。介護支援専門員は、施設管理者であり、嘱託看護師の私には施設の運営方針に口出しする事はできませんでした。
ちなみにその高齢者の方はしばらくして全身に転移したがんで亡くなりました。

自分の母を施設に入居させたことについて、私は後悔とともに他に方法はなかった、という自己弁護の思いが錯綜しました。

ここでの経験は10程前のことですので、今は少しは改善していることを願うところです。

今回は認知症について思うことを述べましたが、次回は認知症の要因、症状、予防、ケアについても言及したいと思います。

ご意見など御座いましたらどうぞコメントを御寄せください。

 

 追記

世界は今、ウイルスとの戦いに翻弄されています。人々は為政者を始め皆パニックとなり、冷静な判断が出来にくくなっています。
アメリカにおける昨年秋から5カ月間のインフルエンザによる死者数は1万8000人以上、と言われています。
日本における季節性インフルエンザの死者数は3000人/年ということです。
そして今回の日本でのコロナウイルスによる死者数は3月18日現在29人です。

たったこれだけのデータですが、これは何を意味すると思いますか?
私たちはもっと冷静にならねばなりません。

たしかに、人類の歴史は感染症との戦いとも言われています。古代エジプトのミイラのゲノム解析などから、天然痘との闘いの痕跡が見られるという報告があります。
スペイン風邪(1918~1919)のときは死者5000万人、14世紀のペスト流行時では死者推定1億人とされています。これは当時のヨーロッパの人口の1/3とのことです。

ただ、恐れるのではなく人類はもっと賢く、そして国際協力という形の利他愛に目覚めなければならないのです。

自然破壊を止めねばなりません。動植物の虐待を止めなければなりません。耐性菌の出現を許してはなりません。

具体策の一つとして、元長崎大学熱帯医学研究所教授で、国立国際医療センターユニセフなどを通して感染症対策に従事してきた國井修氏が日本にもCDCを作るべきと主張しています。

CDCジョージア州アトランタに本部を置く、米国疾病対策センター。ここでは感染症対策だけでなく、慢性疾患予防、健康増進、出生異常、発達障害などさまざまな健康分野の研究センターである。

 

 

 

 

 

 

 

アドラー心理学に学ぶ

 

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人間にとっての幸福とは何か。これは哲学が一貫として問い続けてきたテーマです。 そして心理学も又自分を知り、人間存在を知り幸福になるためのアプローチを模索してきました。
学問分野での区別はありますが共に人間存在について、そして幸福についての学問ということになります。 

最近アドラー心理学についての著書を読みました。かって、ユング心理学を学んだ時期もあり、心理学とは「分析心理学」が最高である思っていました。ですからアドラー心理学については名前こそ承知していたものの、その内容に関しては全く知りませんでした。というより当時は知る必要さえないとの位置づけをしていたように思います。

200万部を突破しベストセラーとなった、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」(著者:岸見一郎 / 古賀史健 ダイアモンド社)2冊を読みました。

ルフレット・アドラー(1870~1937)はオーストリア出身の精神科医・心理学者で、フロイトユングと同時期の人物であり個人心理学(アドラー心理学)を確立しました。
アドラー心理学には「常識へのアンチテーゼ」という側面があります。
フロイトらが主張する原因論を否定し、トラウマを否定します。人生において他者の承認を求めないこと、課題の分離を提唱します。

そして私が最も感銘を受けたのは、「自立」についての考え方に在ります。

「幸せになる勇気」の152ページからの一節を引用します。

褒められることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっと褒められる」を求めます。その人は「依存」の位置に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになる。
「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方「私」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それが本当の個性というものです。

私はスピリチュアリストを自認していますが、日々の歩みの中で迷い悩むことは多々あります。今最も明らかにしたい課題はこの「自立」ということでした。
いつも自信のなさに翻弄されてきたように思います。
そしてもう一つ、自立に関連するが重大なことに気づくことができました。

アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、全ての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。
横の関係とは対等な関係ということです。上下関係ではないのです。そしてまた、劣等感とは、縦の関係の中から生じてくるというのです。これもとても合点のゆく点でした。
縦の関係というのは、(介入について見てみると)対人関係を縦で捉え、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまうというのです。相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいるのです。
介入しないということは、今困難に遭遇している人を放っておくことではありません。つまり「介入」ではなく,「援助」が必要というのです。そしてその援助とは褒めることではなく、勇気づけることであると言うのです。
褒めることとは相手に「能力がない」ということを意味します。褒めるということは能力のある者がない者に下す評価そのものであるからです。

思い悩む・不安・心配というマイナスの思いが生じるということは、真理の理解が十分ではないことを物語っています。真理を本当に理解するならば、心配や不安など一切生じるはずはないからです。それでも尚真理を受け入れたとしても、それを現実の生活、対人関係に生かすことが出来ない、という困難さを感じるのは私だけではないように思います。スピリチュアリズム普及会ホームページの11.スピリチュアリズムへの敵対者との戦いの中に次のような一節があります。

譬え真理を受け入れた人間であっても、一定の霊性レベルに達していないかぎり、実感を持って真理を理解することが出来ません。“知”では分かっていても、“情”では納得できないという状態に陥ってしまいます。霊性が未熟で「魂の窓」があまり開いていない人の場合には、霊的エネルギーを少ししか取り入れることが出来ないために肉体的感情に支配されるようになり、霊的世界に対する実感を持てなくなるのです

この文章の中の“情”での理解、とはどういうことなのか・・・。 私が思うにはこれまで述べて来た「自立」「縦の関係」が関わっているように思います。

私はこれまでの人生で縦の関係で生きてきたために、その囚われの中での思考がすっかり習い性になってしまっていました。これが障害となり、真理をストレートに情のレベルに届かなくなっていたように思います。
ところで「縦の関係」という言葉からは、幼少のころの親への絶対なる信頼、安心感の獲得、といったプラスのイメージと、大人になっても自立できないマイナスのイメージとがあります。後者としては、依存、甘え、責任転嫁、卑屈さ、劣等感、嫉妬、猜疑心などを挙げることが出来ます。

霊性が高い・低い“ということは地上に誕生した時から、すでにある程度決まっているでしょうが、誕生後にどれだけ努力したかが大きく作用します。
その努力とは利他愛の実践であり、また己を知り足らないところを補い誤りを正す、そして苦しみに対しての正しい対処、という絶え間ない日常生活での戦いでしょう。 この戦いは小さいことから、人生を左右するほどの大きなことまで実に多様であると思います。
スピリチュアリズムを受け入れたといっても、その時点までの人生で様々なことを体験しており、間違った考え方、習性が魂に沁み込んでしまっていることもあります。
それを真理に照らして間違いを捨て、新しい価値観を習慣化するには、殆ど気の遠くなる道のようにさえ感じられます。 それでも希望はあります。気づいた時から実践することで成長進化は約束されます。この道は永遠の道なのです。喜びの中に歩めるのです。これを祝福と言わずに何と表現できましょうか!

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないことです。この現実に対して、アドラーは極めてシンプルな回答を用意しました。即ち、「私は共同体にとって有益である」「私は誰かの役に立っている」という想いだけが、自らに価値があることを実感させてくれる、というものです。
これはまさに霊的真理の訓える「利他愛の実践」を彼の言葉で述べたものです。
アドラーは地上生活中には多分スピリチュアリズムに出合っていないであろうと思われます。時代的には可能であったでしょう。それでも彼は己に託された地上での仕事を自身の全てを懸けて臨んだことが伺われます。尊敬すべき大きな魂の持ち主でした。

 

心霊治療

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心霊治療とはどのようなものでしょうか?

 現代西洋医学とは別の医学を総称して代替医療と呼ばれているものがあります。それは実に沢山あり、そのうちの一つが「スピリチュアル・ヒーリグ」 です。これは霊的な力・エネルギーといった目には見えない力を用いた神秘的ともいえる療法です。

これは太古の昔より行われてきており、且つ今でも世界中の至る所で行なわれているものです。
心霊治療を希望する人の多くは、それまでいくつもの医療機関やヒーラーを訪れ治療を受けて来たにも関わらず、一向に病状が好転しないため将来に全く希望を見失っていた人たちです。つまり藁にも縋る思いで心霊治療家を訪れるのです。

私は昨年の11月に公開スピリット・ヒーリングを受けました。公開ヒーリングとは、大勢(今回は30人)の人の前で直接ヒーラーによりヒーリングを受けるというものです。「日本スピリチュアル・ヒーラーグループ」なる存在はずっと前から知っていて、いつか受けたいと思い続けてきましたが決心がつきませんでした。

10月に肺がんが見つかり、放射線治療を受けました。そんな折、霊界は私に「今こそスピリット・ヒーリングを受けなさい」」とその道のりを整えて下さり、すんなりと札幌から横浜へ赴き受けることが出来ました。私はなんの準備も、働きかけもしないのにです。勿論ここには地上の幾人かの人間の働きがあったということは言うまでもないことですが。霊界は本当に私に必要なことを、きちんと時期を見て導いてくださる、ということを実感しました。 

以下にその時の感想文を載せます。

 直接ヒーリングが始まり、私の番はまだでしたが、涙が止まらなくなりました。霊界の高級霊達がこう言っているように感じられました。「あなたはもう安らいでいいのですよ。安らいでください」と。私はずっと自分を奮い立たせるべく激励をしてきました。正直、体もボロボロで、すっかり疲れてしまっていました。そんな私を、霊界はあらゆる手段を駆使して公開ヒーリングの場に参加させてくださいました。ただただ感謝と喜びです。とても勇気をいただきました。神と高級霊達のあふれるばかりの愛を感じることができました。これから、どのくらいの時間を地上で送ることになるかは、自身としては知ることはできません。でも、私は喜びのうちに生きることができます。ありがとうございました。

  公開ヒーリングの会場に着いて直ぐに、お招き下さいましたヒーラーさんにお会いしました。その時、彼女はこうおっしゃいました。「お元気そうで本当に嬉しいです」と。そうでしょう、私はとても元気に喜びをもってこの場へやって来たのですから。
実際にヒーリングを受ける前に、既に横浜への道中に於いて霊界から力を頂いて来つつあったようです。

 実は肺がんを指摘される2年前に、上顎洞腫瘍であれこれ大変な思いをしてようやく手術も終えほっとしておりました。そうした時にさらにがんの告知です。十数年前にも2度にわたり乳がんを患っていましたから、又か!という想いでした。自分は一体いつになったら“病というカルマ”をきることができるのだろうか・・・、もうこれで地上生活を終いにしよう、と絶望感に襲われていたのです。

しかし、今回は少し気持ちを切り替えることが出来ました。同志が「生きてください」と言ってくださったのです。地上にも私に生きていてほしいという人間が存在するという喜びを得ました。そしてこれは霊界が私にもう少し地上での仕事がある、ということを示していると理解しました。

私は現代西洋医学に携わってきており、そこでの矛盾を多々見てきたことで現代医療に疑問を抱いていました。自分が病気になっても直にそこでの治療を受け入れられないで来ました。
ですが、こうした現代医療にもただ抵抗するのでなく、譬え望まざる副作用があっても必要なら甘んじて受け入れようと思えたのです。抵抗し身構えてがちがちになっていた気持ちがふっと楽になったことが解りました。

こうした状況でヒーリングに臨むことが出来ました。閉じていた「魂の窓」が幾分開いたのではないでしょうか。

では治療効果は如何に?と気になるところではありますが、スピリット・ヒーリングを受けてまだ3か月しか経過していません。また現代西洋医学の誇る最新の定位放射線治療をも受けていますので、今の時点で効果をどうのこうのと判定することは出来ません。もっとも私の場合、肺にがんが見つかったからと言っても何ら自覚症状はありませんでした。症状としては十年来の心不全の症状である息苦しさが主でした。従って肉体的にはヒーリング前と今との差は殆ど感じられません。 

スピリット・ヒーリングでは、しばしば奇跡的な治癒が実現します。また、肉体レベルに症状の変化は見られない場合でも、霊の一部・心の一部・霊体の一部が治癒されていることが多いのです。肉体次元にまで治癒が表れるかどうかは、患者サイドの条件によって決まります。このことから私自身は譬え肉体的次元の変化は現れないとしても、心の深い次元で何らかの変化があったと実感しています。それは上に挙げた感想文からも証明し得ると思います。

ところで、この文章の中で「スピリチュアル・ヒーリグ」と「スピリット・ヒーリング」という少し違った言葉を使っていますが、「スピリチュアル・ヒーリグ」が「心霊治療」ということになります。この二つの言葉は似ていて非なるものです。

スピリット・ヒーリングでは肉体の治癒だけではなく、魂の覚醒という重大な目的が存在します。このことにもう少し触れたいところですが、私の拙い文章ではなく、日本スピリチュアル・ヒーラーグループhttps://spiritualhealing-volunteer.jp/ではとても詳しく、且つこれまでの訓え、書籍にても解明されてこなかった膨大な内容を公開しています。関心のある方は是非そちらをご覧になって下さい。学び、そしてご自身の魂の成長を目指してくださるなら嬉しく思います。

 

 

8050問題を考える

私の小学生時代は、一学年8人という山奥の学校でした。そこにはたった一人の男子生徒がいました。彼は毎日1時間かけてさらに山奥から通学していました。

ものすごく遅刻してです。そして教室に入ることなく、ず~と校庭で一人遊んでいました。先生も彼に教室へ入るようには強要しません。そうして一しきり遊んで、早めに下校します。そんな彼はその後どうなったでしょうか?

人伝えに聞いたところ、その地域では立派な一人前の青年になり指導的な立場に居るということでした。

今では落ちこぼれと言いますが、彼は引きこもったりはしませんでした。もっともその頃はどんな時代かというなら、戦後間もない頃でどの人も皆生きることに精一杯でした。引きこもったりしている時代ではありませんでした。
 前置きが少々長くなりました。

今、8050問題が浮上しています。
80歳の親が50歳の引きこもりの子供の世話をするという深刻な問題です。
2019年3月29日の内閣府による調査では40歳~60歳の引きこもりが61万3000人にのぼるというのです。彼らは就業経験があり途中で何かに躓いて引きこもったケースと、中学生、15歳ごろから引きこもり現在その年齢になったという者もいます。

そのうち気づいて立ち直ってくれるだろう、と楽観的な親もいたかも知れませんが、多くの場合なにもせずに居たということではないはずです。親や周りの人間は善かれと思うことはしてきたはずです。それなのに問題は実に深刻です。親が亡くなったら彼らは生きて行けません。

引きこもりは個人や家族に要因や責任があるのではなく、「社会構造の歪み」と捉える識者もいます。

すなわち、社会には問題を個人の責任としたり身内の者もこうした子供を持って世間に対して恥ずかしい、と行政や周りの人に相談をせず隠そうとする風潮があると言います。

ドイツでは「引きこもる子供」という話は聞いたことがない、とある文献に見ました。

この国では成人が18歳であり、子供たちは早く自立したいという考え方をするそうです。

成人してからの引きこもりに見られる傾向として、職場でよく叱られる、真面目である、残業が多い、人間関係を上手くを作れない、などがあります。

一頃よく耳にした言葉に「勝ち組、負け組」がありました。親たちは自分の子供は何としても勝ち組にしなければならないと、幼稚園の頃から習い事や学習塾へ通わせ、良い中学・高校・大学へと進学させ、良い企業に就職させる、という流れになんとしてでも乗せようとする。物質的価値観一色に染められていました。

そこから落ちこぼれたと感じた子供たち、そうした親や価値観に絶望した子供たちは、それらに抵抗することはできても、では次にどうしたら良いかが解りません。できることは「引き込もり」でした。

なかには生まれながらの障害のケースや、虐待や放任などの生育過程で適切な処遇(上記の落ちこぼれたと感じ、絶望した子供の心のケアを含め)をされなかった子供も多かったであろうと推察されます。

農水省次官が、かって同僚に語ったという言葉がネット上に紹介されていました。
「子供は上手く育たないものだよ」と。

現在の日本社会は物質的価値観から自由になれる人は希有な存在と言えるでしょう。みな多かれ少なかれ、この物質的価値観に絡めとられています。スピリチュアリズム普及会では  霊性教育」について言及しています。人間は魂を成長させるためにこの物質界に生まれてきました。霊的成長の指針となるのが「霊的真理」です。霊的真理に沿った生き方をすることが地上人生の目的です。 そして「霊性教育」とはスピリチュアリズムが教える育児・教育の事です。

現時点では、まだまだこうした霊的真理が社会に認知されていません。人間はどの様に生きるべきか、生まれてきた理由は何か、こうしたことが解っていないのです。

正に暗闇の中を手探りで右往左往しているようなものです。

物質的価値観と自分だけが大事という利己主義が間違いであると気づくことで、明るい未来は望めるでしょう。

今、出来ている事は、社会に出られず働けないものに対する生活支援としての生活保護費の支給と、精神科を受診させて効果もない(否、有害でさえある)薬を与えることと、それが長期化した場合、精神障害者と認定し僅かばかりの障害年金の支給を受けることぐらいです。

今すぐ、8050問題に対して抜本的な対策は見当たらないようです。

だからと言ってなにも手を打つことなしに傍観していてはならないと思います。

先ずは、今引き込もっている人に心から同情の意を示し、その苦しみを労い、人間とは”温かい存在”である、ということに気づいてもらうことのように私は思います。

 私達は自らが招いた負の遺産を抱えながら、苦しみつつ真の道を見いだしてゆく事となるのかも知れません。

 

健康問題と自己責任(その2)

今日は健康問題と自己責任の続きを書きます。

我が国は少子高齢化という、かって経験したことのない困難に直面しています。国家の存続にも関わる問題といえます。

医療費はひたすらに高騰し、ついに2018年度の概算医療費が42兆円を超えたということです。これは国家予算の44%に相当します。

医療費の高騰は少子高齢化だけによるものではありません。医療技術が進歩したこと、皆保険によって誰でも医療にアクセスしやすいこと、なども後押ししています。

今、政府は年金・医療・介護の社会保障全般を見直そうとしています。

例えば、75歳以上の後期高齢者は保険料の軽減措置を縮小しようとしています。

こうした取り組みで医療費の高騰に対処しようとしています。

しかし、ここにはそもそも人が病気にならないようにする、病気を予防して医療に罹らないようにする、つまり「予防医学」という視点が見られないのです。それでも、一昨年ようやく一部の有志議員による「明るい社会保障改革研究会」なるものが立ち上げられました。「予防、健康」づくりをうたっています。

現在の医療は病気になるのを待っているのです。病気にならなければ、医療は始まらないのです。

日本の健康保険では診断と治療のみを給付対象としているので、例えば糖尿病にならないと医療給付はできない、糖尿病予備軍の段階では医療給付は受けられないのです。

つまり医師は糖尿病予備軍の患者では保険点数を稼げないので、時間を賭けて丁寧な保健指導したがらないのです。お金にならないからです。

ある研究によると、糖尿病患者の4/5は、血糖のコントロールが出来ていない、病状の悪化を防げていないというのです。

その先にあるのが腎透析という最悪の結果です。

腎透析について少し述べてみます。

日本は「人工透析大国」なのです。

日本透析医学会の統計資料によれば、2017年の透析者数は33万人超えで、年間医療費は1兆8000億円ということです。これがどのぐらい途方もない額なのか、概算医療費が42兆円ということからも解ります。

精神疾患についても、患者数は28万人、年間医療費は1兆4000億円という数字です。

 

私の場合を見てみます。

病気を悪化させない、早い段階での適切な対処は出来ていたのであろうか。

私は40歳代から心臓の弁の異常を指摘されていました。しかし、そのときは自覚症状がなかったため、看護師であるにもかかわらず放置していました。担当医からも注意はありませんでした。

放置してなんらケアをしなければ将来どうなるか、これを考えられないという本当に情けない看護師でした。そして、今現在70代で心不全という状態です。それでも健常人の60~70%の機能は保持していますので、無理は出来ませんが日常生活にさほど問題はありません。

多分ほとんどの人は、譬え医療者であったとしても、私と同様な道を歩んだであろうと思います。障害が身に迫って初めて何とかしなければ、と思うのです。

今はしみじみ思います。人間はもっともっと思慮深くなければならないと。

しかし、これは医療のシステムの問題でもあるのです。

出来高払い」というシステムであり、(どれだけ検査をしたか、どれだけ薬を処方したか、どれだけ手術をしたか、などの医療行為に応じて診療報酬が得られる)優秀な医師でも、未熟な医師に懸かっても診療費は同じ、健康指導だけでは保険点数にならない、というものです。

 

予防医学」とは病気にならないようにする、という取り組みです。

スピリチュアリストの私が何故にこうした極めて現実的な問題に関心を示すのでしょうか。私は医療者でした。放っておける問題ではありません。

スピリチュアリズムは単に霊と精神に関する問題だけを扱うわけではありません。

人間は霊が主体ではありますが、さらに精神と肉体から構成されています。それ故に肉体は大切に扱わなければなりません。十分な知識と配慮とが必要なのです。

決して無視したり、軽んじたりしてはならないのです。

 

では「予防医学」にはどのような取り組みが必要でしょうか。

*現役時代から正しい生活を送ること。(もっと言えば幼少の頃からの)

 正しい生活に関しては何れ項を変えて書いてみようと思います。 

*検診などで早い段階で異常に対処すること。

 これにより、病気を予防したり重篤にならないようにできます。これこそ”自己責任”と言えるでしょう。(ただし、この検診なるものにも落とし穴があります。これについても述べる機会があれば、そこで書きたいと思います。)
誰かが導いてくれるのを待つのみではなく、各自が国民としての自覚のもとに責任の一端を担うべきと思います。

これこそが、医療費の高騰による国家の破たんを免れる手段でしょう。少子高齢化だけが問題の原因ではないのです。

  *実業家の堀江貴文氏を発起人として2016年に「予防医療普及協会」が

   活動を開始しています。

   どこまでの踏み込みが出来るか、期待するところです。