一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

霊的視野に立って物事を観る

           
在家信者という言葉があります。これは、仏教において出家せずに、家庭にあって世俗・在俗生活を営みながら仏道に帰依する者のことだそうです。

ではスピリチュアリズムではどうでしょうか。

 家庭に在ってスピリチュアリズムを学んでいる者は多数居ます。というより、全員がそでありましょう。では、真のスピリチュアリストとそうではない者との違いは何でしょうか。それは摂理に忠実であるか、そうではないか、という事になります。
 ですから、自分の生活が摂理に合っているかどうかを見極める目がどうしても必要になります。具体的な戒律があれば大変にわかりやすいのですが、たとえば、“盗むなかれ”とか“姦淫するなかれ”のようにです。私達の生活は様々な細かい事柄が入り混じっており、複雑な様を呈していますから判断が難しいことも生じます。

 スピリチュアリズムでは、霊的成長のための日常生活とは、「神」と「神の摂理」に対する信仰であると訓えています。自分を摂理に合わせようとする信仰です。
 日常生活で何を為すべきか、それは「霊主肉従の努力」と「利他愛の実践」です。そして日常生活の中で生じてくる「様々な困難やトラブルを広い霊的視野に立って甘受する」ということです。この歩みが地球人として最も価値ある霊的人生(スピリチュアリズム人生)なのであります。
 ただ、問題となるのは、この霊主肉従や利他愛がどの様な事を指すのか、これが理解できていないことが多々あるということです。ここに“実践出来ない”ということが生じてしまうわけです。くどくなります金沢弁)が、実践できるためには、まず霊的真理の理解が前提となります。タイトルに挙げた霊的視野に立つということはこの理解の上でなされます。
 霊的真理の理解には、知性と霊性が必要です。どちらか一方ということではダメなのです。知的に、そして霊的に見合った事しか理解が及ばないからです。もし自分にそれが欠けているとしたなら、それを補うことしか他に道はありません。つまり努力するということであります。
 自分は霊的真理について“無知”であるという自覚が必要です。この自覚を持てない人達がいるようです。ほんの少し真理を知ったことであたかも沢山の知識を持っているかのように勘違いをし、うぬぼれています。そうして“自分は知っている、自分は正しいのだ”と喚きます。観る目を持つ者には、その者の未熟さは明らかであります。

 何時から私達日本人は慎ましさ、謙虚さを失ってしまったのでしょうか。傲慢さが密かに、あるいは堂々と世間を席巻しています。

 先の大戦に敗れてから、自国の在り様にすっかり自信を失ってしまったのでしょうか。欧米の在り方を取り入れ、日本独自の良さをも捨て去ってしまったのでしょうか。教育面にもそれが顕著に見られます。自分の意見をもつことは立派なことですが、自分が絶対に正しい、自分は何でも知っていると思い込み、謙虚さを失うなら、独善となって仕舞うことを知らねばなりません。それをせずに“自己主張”をしてはなりません。自分がどれだけ無知なのかを自覚しないまま自己主張を繰り返してはならないのです。

 かってあった美しい物に対する憧憬の念や、清らかさを取り戻し、誇りある日本人に回帰しましょう。こうは言っていますが、私は国粋主義者でもなんでもありません。全ての人々がそういう魂であってほしいと願って居るだけです。

“自分は知っている、自分の判断に間違いはない”、という自負心は一体何処からくるのでしょうか・・・。
 また、日本人を引き合いに出しますが、少し前までは、我々日本人は「道」、これを極めることを大切にしてきました。“茶道”、“華道”、“書道”、そして各種の“武術、また工芸を始めとする文化も実に芯の有る姿であり形でありました。そこには当然厳しい修行が要求されました。ただ褒めるだけ、自由にやらせるなどはあり得ません。そういう世界が用意されていました。そこでは自分に厳しく対峙する姿勢が求められます。甘えは許されません。至らないところがあれば、とことん扱(しご)かれます。そうして肝の据わった芯のある人間に成長できるのです。私は何か習い事をしたり、研修に参加せよ、と言っているのではありません。自分に厳しく向き合うことを奨励しているまでです。   
 つまらない自尊心は思い切り捨て去り、今から自分を向上させるべく、精進して参りましょう。霊的真理が、これこそが自分の生きる指針であり、道標であることを確認してまいりましょう。そうしてこそ、日常生活を霊的生活に切り替えることが可能となり、霊的視野を持てるのだと思います。