一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

地上人生での課題~私の場合

        

 人は自分の課題を持ってこの地上世界にやってきます。とはいってもその課題が何なのかは簡単には知ることが出来ないようです。3年程前に私はこのブログでこれに関係する記事を書きました。そこでは私の課題は”人を信頼する、愛する”ことであり、幾分かは達成できたと言っています。”幾分か”は本当ですが、このたびは更に考察を深めてまいりたいと思いました。

 私は子供の頃から生き物が好きでした。人間はさて置き、植物・虫・動物が好きでした。長じては様々な精神世界を彷徨い歩きました。そこで学んだことの多くはほぼ人を癒すセラピー関係でした。

 これまでの人生は平坦ではありませんでした。そういう人は大勢いますが、私はそのうちの一人であったと思います。
 生い立ちは過去のブログで一部を紹介させて頂いていますが、ここでまた繰り返しとなりますが述べさせて頂きます。

 第二次世界大戦の最中私は東京で生を受けました。2歳で戦火を逃れて北海道に逃げてきました。何もない北海道の原野にクマザサで竪穴式住宅のようなものを作り、そこで家族6人での開墾生活が始まりました。
 でも私は楽しかった記憶ばかりです。前年に切り倒しておいた木の株を父と掘り起こして耕し種をまき、秋に収穫した大豆を小さな背に背負い一生賢明歩いたこと、唐竿(からさお)でそれを脱穀する作業。父と一緒に夕顔の棚造り、そして畑の草取り、どれもわくわく出来る仕事でした。完全に没頭出来ることがこんなに素晴らしい喜びをもたらすことを子供ながら知りました。学校ではいじめられ友達は居ませんでしたが、私にはその辛さを大きく凌ぐ生活でした。
  看護学校に入ったころから人生に関する疑問が次々と生じ、模索する日々となりました。卒業して2年が経過するころ、私はあの悪名高い統一教会に入信しました。そこからが私の本当の苦しみの始まりでした。
 人は始祖の堕落により罪びとになってしまったのだから、それを救済するためにメシアが必要である。イエスはその使命を為しえなかったので再臨のメシアが必要。そのメシアが文鮮明である、というのがそこの教えであります。そして教祖は絶対であり、完全に従わねばならない、そうして我々はこの地上に天国を創るのだ、というのが教義であり、私はこのわれわれが地上天国を創る、というキーワードに惹かれたのです。

 献身を迫られ、貴重な青春時代の約10年間そこに留まることとなりました。そこでの生活とはどのようなものであったのでしょうか。
 新宿や池袋の駅前での路傍伝道や偽りのカンパ、マイクロバスに寝泊まりしながらの花売り(昼間は家庭訪問、夜は薄暗い下町酒場)交通事故も体験しました。次いで原理研究会のホームでの下女のような仕事です。掃除、若い男子の下着の洗濯、食事作りです。私はひどく自尊心が傷つき惨めでした。食事は最低の更にまたその下の食費で作るのですから、完全に健康を害します。もともと体力的に優れない私は自分の肉体がミシミシと悲鳴を上げているのを感じていました。
 ある時は、わずかばかりの交通費をバスに乗らず徒歩で帰宅し、その費用をパンに変えてお腹を満たしたことがありました。自分が哀れで悲しかったです。時間もお金も私物をも制限されること、特に私が辛かったのは睡眠時間の少なさでした。宗教に修業は付き物で、我慢・忍耐が必須なのでしょうが、当時の私にはそれだけの信仰はありませんでした。
 そのホームでは私は学生ではないので、誰にも困り事を話すことも出来なく孤独でした。見捨てられたように感じました。もしかしたら、本当は見捨てられていたのかもしれません。逃亡を図ったり、引きこもったりしました。

 後年、私は脱会しましたが、それは教義に疑問を持ったからではなく、そこでの暮らし(修行?)に堪えられなかったというのが実態です。逃げ出したのです。私は、ず~と信仰がなく卑怯者、弱虫と自分を責めてきました。
 しかし、今は違った見かたをしています。私の魂がそこに留まることを拒否していたのだということです。私の居るべき所ではないとのメッセージであったと思います。
 当時の私には、その教義が正しいか間違っているかを判断するだけの力はありませんでした。たぶんこれは現在もかの教団に留まっている多くの信者についても同じことが言えるように思います。
 ア ベル(上の者)が”こうしろ”、と言ったなら一切の疑問を持たず従うことが良き信者とされているからです。疑問を持つことはサタンに魅入られていることを意味するからです。洗脳されてしまっているのです。私には疑問が沢山ありました。あまり深く洗脳されていなかったと言えるでしょう。彼らからすると不信仰そのものです。ですから私は時間がかかりましたが 脱会することが出来ました。

 宗教2世の小川さゆりさんの著書を読みました。私も間違った宗教に囚われ、今も苦しんでいる人達を思うと、なんとかしなくてはならないと思います。

 私は脱会し33年たって、スピリチュアリズムに出会うことが出来ました。それまでの間、放送大学へ入学し”人間の探求”を専攻したり、ニューエイジ思想、精神世界の著書を読み漁り、セミナーへ参加、瞑想や断食、アートセラピーユング心理学、カウンセリング、夢分析、レイキ、ヨーガ療法などを学んできました。 精神分析も札幌から東京へ通って受けました。
そうした物凄く遠回りしてのスピリチュアリズムとの出会いでした。
 しかし、これらの過程は私のようなガチガチに硬く、無知な人間には必要なことなのでした。これでもか!と言わんばかりに耕されてまいりました。そしてようやく、「シルバーバーチの霊訓」が私の前に置かれました。
 私は乾いたスポンジが水を吸うが如く12巻を一気に読み干しました。そこに書かれている事柄は全て納得のゆくことでした。眼が覚めました。厚い雲に覆われて暗かった私の人生に光がさしました。
 生きる目的が解りました。死はなく、霊界で永遠に生きる事が解りました。怖いものはなくなりました。お金や物への執着はなくなりました。人は他を愛することで霊的に成長出来ることを知りました。これは相手が人間だけではなく、動植物に対しても同じです。元気になれました、勇気を頂きました。

 間違った宗教に翻弄されても光明を見出せることを皆さんにお知らせすることが、私の今生の人生の課題であったと今思っています。

 間違った宗教に囚われ、苦しんでいる人達に伝えたいのです。私の苦しみの歴史がそうした人達の支えになるなら、それは望外の喜びです。どうか一緒に元気と勇気を取り戻して前進しましょう。