一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

80歳の誕生日を迎えて

80歳の誕生日を迎えました
 今日の日をむかえることに深い感慨があります。果たしてどんな人生であったかを振り返って見ます。先の大戦の最中に東京に生をうけ、九死に一生で北海道に逃げてきて最低の生活が始まりました。その後も何度か事故や病気で死にかけながら、今日を迎えました。
 人生に意味なんてないとか、生きる目的なんてない、たまたま偶然にこの世に誕生したのだ、という考えには納得できませんでしたから、若い頃から人生の目的を探してまいりました。そして、十数年前にスピリチュリズムに出会いました。スピリチュリズムとは何か?これについては私のこれまでのブログで簡単に紹介してまいりました。 詳しくは以下をご覧ください。
  スピリチュアリズムシルバーバーチの霊訓の総合サイト  https://spiritualism.jp/help

ここは人間存在の奥義を教えてくれる「霊的真理」を余すところなく、紹介してくれています。
人間の生きる目的はなにか、神は存在するのか、人間は死んだらどうなるのか、霊界は存在するのか、人間如何に生きるべきかなどなどです。 
人生は山あり谷ありで、決して平たんで安楽なものではないことはどなたも承知です。深い谷に降りての体験は決して無駄になることはなく、人間性を深め豊にしてくれます。
 ここからは私自身の過去の信仰体験を披露いたします。決して自慢できるものではありません。自分の愚かさ、未熟さを晒すこととなり些か身の縮む思いがいたしますが、何らかの参考になればということから書かせて頂きます。

過去の信仰体験を振り返る
 23歳の時、今世間を騒がせている宗教に入信しました。問題は解決したか?いや、全く正反対でした。そこの教えは「われわれが地上天国を創るのだ」とします。入信したと言っても無理やり献身させられたようです。(決意したのは勿論自分自身であり、他人に責任を転嫁してはなりません。自分の責任であります。)
 そこでの生活は早朝5時ごろに起床して礼拝をします。それから私に与えられて仕事に就きます。そこは大学生たちのホームでしたから、食事作り・掃除・若い男子の汚れた下着などの洗濯など寮生のまかないさんか、むしろ下女のような扱いを受けていました。時間を見て当てもなくとぼとぼと伝道に出ます。また、万物復帰と称して詐欺的手法で物品販売をしたり、カンパを募ります。全くエネルギーは湧くはずもなく、成果がまるでなく、とても惨めでした。自尊心が酷く傷つきました。これが信仰生活か?どうにも納得がゆかないまま、誰にも相談することも出来ず、ただ己の信仰心のなさに打ちのめされてきました。後日、ある人物が言いました。曰く、“姉弟に仕えることは神に仕えることである”と。当時私にはそういう信仰心はまるでありませんでした。
姉弟(?)たちを愛の目でみることは出来ませんでした。仕えることなど出来ませんでした。それはどうしてでしょうか・・・。教義を信じていないのか?そもそも人を愛することが出来ないからか?多分その両方であったと思います。

自問自答を繰り返しても解決出来ませんでした。苦しんで苦しんで疲れ果て、自殺未遂までしました。その後、放心状態に陥り考えることを止め引きこもりを続けました。一切の義務を放棄しました。
やがて少しづつ冷静に物事を考えられるようになり、そこからの脱出を準備し実行にうつすことができました。洗脳から開放されたのです。しかし、それには8年間という歳月を要しました。脱会=神への裏切り=地獄行き、という構図が出来上がっていたからです。
 今、世間で統一教会の2世や元信者が様々な被害や苦しみを訴えています。それを見聞きしていますが、私がここに述べたような己の信仰自体に苦しんだ、というお話しはあまりありません。多いのは、自由恋愛が禁止されていたとか、貧乏であったとか、高額の献金をさせられたとかです。どういう事なのでしょうか・・・。一つには、今現在は“献身制度”なるものが緩くなっているのか。私が献身したのは1960年台であり、時代はだいぶ前でした。それだけではなく、もっと他の理由があるように思います。それは”信仰”そのものの捉え方のように思います。

信仰心はどのように育つのか
 一体、信仰心とは如何様にして育まれるのでしょうか。これについては今まで私は明確に答えることができないで来ました。
私の両親は信仰心や道徳観念など有るとは思えない人間でした。ですから私もそういった事柄に関しては、全く関心を持つことはありませんでした。それでも幼いころから何となく神様が居て私を見ておられる、という感覚は持ち合わせていたように思います。ひとりぽっちで広~い北海道の原野にいることがとても好きでした。周りはピンクや白の野の花が咲き誇り、神さまと私だけがいるようでした。
 看護学校では毎朝「ナイチンゲール誓詞」という誓いの言葉を唱和いたします。その誓いは次のような文から始まります。「我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん・・・」このように知らぬ間に、毎日神様の前に立っていたのです。そうして、ここは主事がクリスチャンで全寮制であり、先輩後輩の関係は厳格で規律はしっかりと保たれていました。知らぬ間に信仰心や大切な道徳心が養われていたように思います。今思うに、これは明らかに霊界がある目的のために計画的に私を導いて来られたことと思います。私はそれまで特定の宗教は持っていませんでしたが、知らぬ間に信仰心の基礎が築かれてきたことと思われます。
 それなのに何故、あの教団は私の居場所にはならなかったのでしょうか。
修練会なるものには長期、短期と何回も参加しましたし、断食もしました。毎朝、祈祷から一日が始まりそれぞれ伝道に出かけます。宗教的な生活そのもののようですが、私の心は常にそこから離れていました。どうしてでしょうか?ホームで一緒に生活している仲間は誰一人として、不満げな様子をしている者はいません。私は一体どうして彼らと同じような心境、信仰に至れなかったのでしょうか?
 信仰とは何かを信じる、と言う心の在り様です。心の底から信じられなければ、信仰には至らないのであって、そこで展開されている諸々の事象は私が求めているものではなかったという事のように思います。私が求めていたのは、互いに思いやり、困ったことがあればそれを表現し、共に助け合い、喜びも苦しみも共有できる、そのような集団です。しかしそこは全く異なりました。
 信仰心とは生まれ持ってきた素質があり、その上に絶対なるものを発見し、それに帰依する心の態度と言えるように思います。天(神)は求める者には適切な時期に与えてくださいます。”求めよ、さらば与えられん”です。あの時、私は完全には洗脳されませんでした。教義がどうあれ、そこに展開されている実態に真実なるものを発見できなかったからと思います。発見できなくて幸いでした。今思います。神さまが守ってくださいました。私が真理を真理として見極められるように、十分に心(魂)を耕して受け入れられるように時間を稼ぎ、導いて下さいました。私にはどうしても必要な訓練でした。。

人間は親なる神を求める 
 困ったことが生じたからとか、人生が苦しいからと言った事で宗教に走ると思われていますが、信仰心とは本来そういうものではないと思います。人間とは本来親である神を求める存在であり、それが信仰だと思います。ですから、元来人間に備わっている特性でありましょう。霊的親である神に近づきたい、親のような存在になりたい、という永遠の願望です。これは地上の親子にも見られることです。即ち尊敬する立派な親のような人間になりたい!という願望です。しかし、残念なことに現在はそのような親や子は殆ど見かけず、“毒親”という言葉さえ市民権を得ている状態です。

宗教の間違いに気づく
 巷間には掃いて捨てるほどの宗教があり、その教えには多くの間違いがあり、人類を間違った方向へと導いています。それは本来存在するべきではありません。それを見極める目が求められます。シルバーバーチの教えの中に、“神から与えられた理性を用いなさい”と言うのがあります。つまり、ご利益がありそうだからとか、親や親せきが進めるから、といった他愛もないことに左右されてはなりません。理性を十分に働かせて正しいと判断できるものを見極めなさい、ということです。これは盲目的・狂信的信仰にならないためには非常に重要な事です。

 現在は地球規模でも世界規模でも危機的状態にあります。毎日、世界中で生じている出来事を見聞すれば、いやでもその差し迫った困難・危機を知ることになります。ここでも、理性を働かせて慎重に物事を判断し応じなければ大きな間違いを起こすことになります。テレビや新聞、マスコミの言うことを鵜呑みにしてはならないのです。この地球を覆う惨状を生み出している原因を一掃することでしか問題は解決しません。スピリチュアリズムシルバーバーチの霊訓はそれを教えてくれています。今はもう姑息的な解決法では間に合わなくなっています。そのことにどうか気づいてくださいます様、お願いいたしまして、今回の記事をおわりに致します。最後まで読んでくださりありがとうございました。