一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

不完全燃焼の人生を打ち破る

Neutral World *慶應ナースリカちゃん*

  過去にこのブログで、“霊界の導きとスピリチュリズム”というタイトルでこれまでの自分の人生の幾つかの場面を切り取って考察してきました。 

私は良く夢を見ます。ユング心理学に基づく夢分析を学んできました。
 最近3日続けて昔の仕事関連の夢を見ました。どちらかというならそれは悪夢ともいえる内容です。仕事がまるで進まない、ある事案がうまく処理できない、不手際続きでどうにもならないというものです。人生の多くの時間をそうして過ごしてしまい、不完全燃焼のうちに仕事を終えたという感じでした。もう仕事を退いてから24年、四半世紀も経過しているというのに。これは何かを悟りなさい、と言うことと理解しました。

 私は看護師をしてきましたが、病院という組織のなかで、納得のゆかない仕事を命じられることが多々ありながら、それに反論することもなく、不承不承にやり過ごしてきました。反論するほどの知識も経験も乏しく、また勇気もありませんでした。

 そもそも私は多くのことを知らなさ過ぎました。今生じていることが果たしてどんなことで、どんな意味があるのか、なにが正しいのか、こういったことがまるで判断できないのです。組織にはそこなりの論理があり、それに盾突くならそこには居ることは出来ません。解らないまま不承不承の中で仕事をしている人間は私だけではありません。皆それぞれ生活のため、と我慢し自分を納得させて生きているのです。我慢をし自分をなんとか言いくるめて正当性を見出しているのです。決して主体性のある人生ではありません。多分多くの人達・同僚は仕事とはそんなもの、人生なんてそんなもの、としてやり過ごしてきたのではないでしょうか。言うならば、自分の意見など端からない付和雷同です。一番安全な生き方なのです。
 いつもオドオドしたり、ときには虚勢を張ったりと惨めで悲しく、全く自信のないままで生きた自分の人生は不完全燃焼だったいう思いばかりでした。
やり切った、自分の力を精いっぱい出し切ったという充足感はこれまで殆どありませんでした。
 何故そんなにオドオドしなくてはならないのだ?何を恐れていたのか?それは自分の考えが受け入れられないのではないかという不安、恐れだったように思います。皆と一緒でないと安心できない、仲間外れにされたくないと思いながら、実際には私は他の人達とはあまりうち溶けないでいました。違和感を感じるのです。しかし、何度も繰り返すことになりますが、自分に自信が持てないということが主なる理由でありましょう。

 しかし次第に、これではいけない何とかしなければいけない、という焦りのようなものを抱いていました。何とかそれを克服したい、最近特に強く感じられるようになりました。その理由は自身が地上を去る時はそう遠くはない、つぎのステージへと行くためにはどうしてもクリアしたいからなのです。 これを疎かにしていては順調にステージアップできそうもないと思うのです。目指せ!完全燃焼!!です。

この度の夢でそれを悟ることが出来ました。そうして一日置いて今朝素晴らしい夢を見ました。皆さまに報告出来ることを大変に嬉しく思います。

 私は兼ねがねやりたいと思っていたことを実行するという夢です。素晴らしい夢でした。少し時間がかかるかもしれませんが、ぜひとも実行に移したいと考えています。    もう自分の至らなさを悔いたり、不完全燃焼だった自分自身を責め、後悔するこことはいたしません。確かにそうでした。未熟さに、惨めさに打ちのめされてきました。しかし、今スピリチュアリズムに出会えて思うことは、そうした不完全感があったからこそ、完全を求めるという魂の欲求が芽生えることができたのだと確信しています。
 辛い思い、悲しい思いの峠をいくつも乗り越えて眺めるその視界には、燦然と輝く光の世界があります。今、それが実感として感じられます。

 この現世は何が間違いであり、何が正しいのかがまるで解らないという無明の世界です。時代により地域により善悪の判断が異なってきました。普遍的な善悪の基準をうちだせないできました。人々はそれぞれに主義主張を叫び大混乱を作り出しています。収集のつかない世であり、正に終末の観を呈しています。スピリチュアリズムは無知を知に変え、闇を光に変えます。
 
 私は自分の人生は不完全燃焼だったと思って来ました。たしかにこれまではそうでした。しかし、今はそれを打ち破ることが出来そうに感じています。私にはもう何も捨てるものはありません。怖いものはありません。恐れることは何もありいません。

 2000年前、洗礼ヨハネと言われる人物がいました。彼は当時のユダヤ人たちが理解できない中、声高に救い主キリストの到来を叫びました。彼は”荒野に呼ばわる声”でした。聞く耳を持つ者たちに呼びかけていたのです。そうして彼は最終的には殉教の人生を送ったのです。今、そうした時代ではありませんが、聞く耳を持つ人達に語り掛ける、という意味においては全く同じであると思います。魔女狩りはありませんし、殉教はありません。なんという自由さでしょう!後は永遠の大霊、神の定めた摂理に従って歩むのみであります。スピリチュリズムがそれを教えてくれています。

有難うございます。