一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

自立について

       f:id:gsirakaba:20210723135621p:plain

このたび「キタキツネ物語」という映画をみました。この作品はかなり古く1978年に作成されていて、その当時の私は題名は知ってはいましたが、見てはいませんでした。今回見た作品は2013年に公開35周年を記念しリニューアルしたものでした。
ご存じの方も居られるでしょうが、北海道オフォーツクで展開されるキタキツネの物語です。ここの冬は実に厳しい環境であり、キタキツネも生まれてその冬を越せるものは数匹の中で1匹というぐらいなのです。

                 f:id:gsirakaba:20210720224009p:plain

キタキツネの夫婦は5匹の子を産みましたが、翌年の春までに最愛の妻を人間の仕掛けた罠にはまり亡くします。子供たちも5匹の中4匹を失います。
この夫婦は賢明に子供たちを育てますが、私が最も感動したのは時期が来て子供たちの自立を促す様子です。子別れの時です。
それまで優しく大切に接してくれていた親がある日突然に態度が変わり、子供たちを追い出し始めるのです。それは全く情け容赦はありません。どんなに子供たちが親元に残りたくても決してそれを許しません。子供は何がなんだか訳が分からない内に、追い出されてしまうのです。後ろを振替りつつ去ってゆく様は本当に切ないものがあります。

こうした子別れは知床のヒグマに関して過去に私のブログで取り上げました。
自然界では動物たちは自立しなければ生きてゆくことは出来ません。
子供が自立するべき時が来れば、親は子供に餌を与えず、または運ばないで、自立を促す厳しい行動をするのはライオンから小鳥にいたるまで例外なく見られます。

             シジュウカラの子育て日記

自立を促すという行為は何も動物に限られた話ではありません。本来人間に於いても、子供を産み育てるということは即ちその子供を一人でも生きて行けるように、自立できるようにすることが絶対的な使命であります。子供を自立させることが親としての第一の役割ということです。
其れなのに、人間界を見渡してみると耳目を覆いたくなるような育児放棄、虐待、子殺しが行われている現実があるのです。まさにこれは動物以下の所業であります。
動物は神のお決めになった役割を忠実に果たしています。人間だけが何故そうしないのでしょうか?ここに人間界における大きな問題があるのです。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉を聞いたことがあると思います。これは獅子は生まれたばかりの子を深い谷に突き落とし、這い上がってきた生命力の強い子だけを育てるという言い伝えであります。(ここで言う獅子とはライオンのことではなく、想像上の生物であり、実際のライオンは子供が崖から転落したら、すぐに助けに行くそうで、私はそうした映像を見たことがあります)

               f:id:gsirakaba:20210720224625p:plain

転じて本当に深い愛情を持つ相手にわざと試練を与えて成長させるという意味で用いられています。また「かわいい子には旅をさせろ」という言葉も有名です。
本来“厳しくない愛は愛ではない”、“優しいだけが愛ではない”のです。
親は子供を愛するが故に、ともすれば子供を甘やかしすぎて、厳しい局面での人格形成がおざなりにされていることが少なくないと思われます。

           f:id:gsirakaba:20210720224246p:plain

教育というとすぐに思い浮かぶのは学校教育です。しかし、子育てというのは子供が生まれてから直ぐに、いや生まれる前からもう始まっているのです。
ある宗教家は次のように論じています。“夫婦が交わるとき、どのような心境でいるか、これがそこに宿る魂を決める”というのです。これが事実だとするなら何という神秘的で且つ、恐れ多いことでしょう。これは神が”私の子供をそなた達に託す、健やかに育ててくれよ”、と人間に託したということなのですから。人間は斯くの如く、いつでも神の前に真剣で誠実であることが求められているのだと思います。

私は子供を持ったことはありません。子育てもしたことはありません。子供と接したのは小児科病棟で親から離れて療養している就学前の3歳から6歳の幼児たちのお世話をしたことぐらいです。
其れなのに教育だ、幼児教育だ、など語るのは分不相応である、そもそもそんな資格はないと仰せになる方がおられるかもしれません。
確かに実際の経験は極めて大切です。それはそうですが必ずしも全てがそうであるとは言い切れないと思います。親でなくともたとえば保育士であるとか、生活指導員であるとか、さらには幼児教育の専門家はそれなりの貢献は出来ます。また血縁上の親でなくても、里親であっても愛情を持って育てるなら、それは素晴らしいことです。

子供の成長には褒めて伸ばす、ということを推奨する方が多く見られますがが、先にも少し触れましたように、優しいだけではダメなのです。必要なときには厳しい教育が必須です。では厳しいとはどのような事かを、言葉だけでその論旨を伝えきることは私には出来ませんがあえて説明するなら、ただダメと叱るのではなく、なぜダメなのか考えさせることの出来るように促す、ということでしょうか。幼い頃から考える癖を身に着けることです。
幼児教育ではまず「他人に迷惑をかけてはいけない」これを教えなければなりません。当然のことであるから、いちいち口にしない、ではなく何度も繰り返し教えるのです。小さなマナー違反を見過ごしてはならないのです。

 幼いころの教育が不十分であれば、大人になっても真に自立した人間になれないのです。何時までも親に依存し甘えています。親もまたそれが当然のように許しています。なかには親子で共依存に陥り、そこから抜け出せない事例も見られます。確かに優しさには甘美な要素があり、人はそれを知らず知らずのうちに求めます。心地よいのです。安心感をもたらしてくれます。大人であってもそうなのですから、勿論子供はそのようにして親に絶対なる信頼と安心の境地を見出しています。
しかし、いつまでも求めるばかりではなく、成長した暁には与える立場にならなければなりません。
社会人になってもまともに仕事が出来ません。困難にブチ当るとすぐに逃げ出してしまいます。そして挙句の果てには、あの会社が悪い、社会が悪い、といちいち責任転嫁をして逃げ回ります。なかには親が悪いと恨み、怒りをぶちまけることをします。自分で責任をと取ることが出来ないのです。自立できていないのです。確かに自立できていないということは親が責任を果たしていない、親が悪い、と言えなくもありません。即ち子供を自立させることが親の第一の務めであったのですから。が、しかし、実は親の育て方だけの問題それだけではなく、ある宿命のためにそうした生れ方があります。これに関してはスピリチュリズム普及会の「霊性教育」をご覧になることをお勧めいたします。
しかし、いつまでも誰かに責任転嫁をして逃げ回っていても進歩はありません。厳しくても難しくても、助けを求めてでも苦境を打開してゆかねばなりません。
もしも本当にダメ親だったとしても、自分もダメになるのは必然とあきらめてはいけないのです。負の連鎖は並大抵の努力では打開できないかもしれません。しかしやるしかないのです。
ときには厳しくまたあるときには優しく、切磋琢磨してゆきたいものです。

最後になりましたが、ここで強調しておきたいことがあります。人間は霊と肉体から構成されており、本体は霊であり、肉体はそれに付随するものである、と言うことです。ですから霊的に成長することが何にもまして重要なのです。それには先ず「霊性教育です」

 尚、スピリチュリズム普及会では「霊性教育」についての指針を述べています。関心のあるかたはどうぞそちらをご覧ください。