一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

洗脳について

                                 

今回は一スピリチュアリストとしての個人的見解を記したいと思います.
全体を観る
 人は自分の価値観に合えばその教えを納得し受け入れます。今日は宗教における洗脳について考えてみたいと思います。
 今、私は過去に関わりのあった者としては、決して看過できない事態に遭遇しています。統一教会は世界平和を解き、家庭を大事にしましょう、純潔を守りましょうなどを説きます。その理念は尊いもので容易に受けいれられます。私もそうした者の一人でした。しかし、物事の真偽は一面だけを見て判断をしていては誤りを犯します。「盲人像を見る」のたとえがあります。像の足を触った盲人は像とは柱のようなものだと言い、また別の盲人は鼻を触り、像とはチューブのようなものだと言います。

 宗教であれ、教育であれ、政治であれ全体を見据えなければ過ちをきたすのです。まず第一に見なければならないのが、その組織あるいは団体の挙げる理念・目標です。
  政治であれば、おそらく“国益”でありましょう。しかし、現時点では各国それぞれの国益であり、人類全体の益・幸福とはならず互いに己の主張を繰り返し、ついには戦争となってしまっているのが現状です。
  教育はどうでしょうか?幼児教育では”皆仲良くしましょう”と教えます。しかし、年齢が進むにつれ、他を排斥してでも上にのし上がることを学びます。熾烈な競争社会への参入を余儀なくされてしまいます。
 宗教の多くは御利益信仰の教えであり、自分中心、自分が幸せであればそれで良いのです。しかし、自己中心と平和は対極にあります。

 統一教会を見てみる
 理念・理想だけ見れば美しく容易に受け入れられます。それだけを語っていれば人々はついて行くかもしれません。しかし、実態を見ることでそれらの美辞麗句の数々は、単なる方便、あるいは騙しの手口であることが解ります。羊の皮を被ったオオカミには気を付けなければなりません。世界の平和はそうしたところからは到底実現するはずもありません。
 彼らは心の底から世界の平和を望んでいるのではありません。妄想・狂信のなかに留まり、己の理想を実現するためには手段を選ばず突っ走ってきました。人々の幸せを願っているのではありません。自分たちだけ(選ばれし者)が幸せであればそれで良しとしているとしか思えません。他の者がどうなろうと一向にかまわないのでしょう。
 表面に現れる華やかな建造物、儀式や行事に騙されてはなりません。それらはあくまでも自分たちの都合に良いように作り上げた飾り・成功譚にすぎません。

洗脳にいたる過程
 ここで問題となるのは“洗脳”という厄介なシステムです。どうしてこうも簡単に洗脳が行われてしまうのでしょうか?
それは古くから使われて来た“人の弱みを利用する”、“恐怖心を煽る”、”エリート意識をくすぐる”というやり方です。困難を抱えている人や人生に疲れて心の弱っている人達に近づき、こう語ります。
”先祖何代にも亘る悪因念がある、この悪因念を解かなければ今の災厄も苦しみからも救われない、そして先祖たちも永久に地獄から出ることは出来ない”と説き恐怖心を煽ります。献金するという行為で贖罪し、それにより神様に救ってもらえると説きます。そのためには教祖という存在が必要と説きます。そしてそれは絶対的なのだと説きます。
 現状から救われたい、死をも覚悟をしたような人たちは藁にもすがる想いでいますから、容易に彼らの手口に乗せられてしまいます。このような人達を宗教に頼る弱い人間、自分で考えることをしようとしない人間、と蔑んではなりません。彼らなりに模索してきました。確かに人間として未熟であったと言えるでしょう。しかし、人間とは多かれ少なかれ未熟さを抱えているのです。こうした弱い人間、そして教義に確信を持つ幹部たち(教育する側に立つ人達)はどうしたら、洗脳から開放されるのでしょうか?
 彼らは自分たちの教えに背くものがあれば、それはサタンの仕業と決めつけています。自分たちは最高の指導者に認められた選ばれし者であり、その与えられた使命を果たすことに喜びを見出し、心理的な高揚感に満たされます。困難・苦難を必要な事として受け入れる事が出来るようになります。
 こうした心理状態においては、他の教えを研究してみようと思わなくなります。彼らはこのように言います。”これ以上の教えがあるのなら、それに従う”と。しかし、口ではこのように謙譲、寛容な素振りはしても、決して他の教えを研究してみようとは思わないのです。恐らく心の底で、“これ以上の教えはない”と確信しているのでしょう。

洗脳状態からの開放
 こうした洗脳状態から開放されるにはどうしたらよいでしょう・・・。それはただ一つ、これまでに経験したことのない衝撃を受けることと思います。
「ショック療法」です。今回の事件はあるいはその糸口となるかもしれないと思います。自分たちの団体の正体を色眼鏡で見ることを止め、客観的に見つめることです。
反社会的行動  ・家庭の破壊  ・貧困  ・二世の悲劇  ・献金の行く先
 決して感情的に反応するのではなく冷静に考えてゆくことです。何故このような事柄が起ったのか・・・?突き詰めてゆくとそれはその教え、教義自体に問題があるからなのです。教義が間違っているということです。

間違った教義を捨てる
 指導的立場にある人達にとっては、この教えを捨てることはこれまでの自分自身の人生を丸ごと捨てることとなりますから、それは大変なことです。しかし、考えてみてほしいと思います。人生とはこの目で見える地上世界だけではないことは既にご存じのはずです。今、50歳60歳の方がこれまでの人生を綺麗さっぱりと捨て去り、新しく生まれ直して(魂の新生)、残り少ない地上人生と永遠に続く霊の世界で、何ら良心に恥じない生き方が出来るなら、それに勝る幸せなないでしょう。

 ここまで、私なりの意見を記してきました。かなり一方的な決めつけ、と受け止めた方ががおられるかと思いますが、スピリチュアリストとして、そして過去の経験と現状を鑑みてのことでありますのでご容赦を願います。

どうぞ良心に問いかけてくださいませ。

どうぞ霊的真理に触れてくださいませ。

霊的新時代の到来

  肺がん闘病記 - 希望の光 末期ガンから奇跡の生還 

雑多な知識からスピリチュアリズム
 私は読書が趣味でした。しかし、ここ最近あまり本を読みたいと思わなくなりました。なぜか?老化現象で、脳の機能が衰えて、意欲が低下し様々なことに対する興味・関心が薄れてきたのではないか・・・、とも考えました。しかし、どうやらそうではなく、興味・関心の対象がこれまでの種々雑多なことから、焦点が絞られてきたということが判明しました。
 これまでは様々な分野の書物に親しんできました。
宗教・思想・教育・健康・医療・心理学・環境問題・動物愛護関係などいろいろでした。それらは勿論、非常に大切ではありますが、人間の本質は霊であり、精神・魂・霊に関する事が人間にとって最も大切であることが明確になったということなのでした。
 ですから一番肝心な事ことを蔑ろにしていては、大切なこの地上人生を無駄にしていると言うことになります。地上人生は決して長くはありません。私は間もなく80歳の誕生日を迎えます。10数年ほど前に、この地獄の様相を呈している地球人類を霊的に救済しようとするスピリチュアリズムを知ったのです。
 勿論、遅すぎたということは在りません。スピリチュアリズムに出会うためにはそれなり の準備が成されていなければなりません。私にはそれだけの期間が必要だったということです。その期間は人それぞれであり、短期間の人もいれば、時間のかる人もいます。あるいは今回の地上人生中にはその出会いが訪れないかもしれません。いずれにしてもその時期が来ていないなら、真理は近づいてきてはくれません。近づいても理解をしてくれないからです。
 そうして時期が来て本物の霊的真理に出会ったなら、いつまでもどうでも良いものに執着していてはならないのです。
シルバーバーチはこのことを次のように言っています。
「私自身としては幼児期を過ぎれば、幼稚なオモチャは片づけるものだという考えです」    地上人類への最高の福音 (スピリチュアリズム普及会版) P237  
 私達は霊的なことを全くと言ってよいほど知りません。霊的な赤子なのです。学び、大人にならなければ人間として成長したことになりません。この地上人生でどんなに学問をし、業績を積み名声を得たとしても、人間は霊的な存在でありますから、霊的成長が成されていないなら、それは虚しいことなのです。それにはまず、霊的真理を学ばなければなりません。
 長い歴史を通して私達人類は多くの宗教・思想を起こし、学んできましたがどれも役に立たなくなっています。いうならば、それらはもう御用済みということになります。というより正確にはその殆どが間違いであったということです。そのため、数知れないほどの惨劇が宗教により起きてきたことは周知のことです。
 しかし今、霊的新時代へと突入したのです。
悲劇の地球人類史からの脱却、人類の霊的新生、魂の革命の時を迎えたのです。新しい知識がもたらされているのです。
 人間は死んだらどうなるか、死とは何か、死後の生はあるのか、霊とは何か、神は存在するのか、人間はそもそも何の目的があってこの世に存在するのか、こうした最も根源的な問題を私達は蔑ろにし、上辺だけの幸せを求めて右往左往してきました。それで魂は本当に満足してきたでしょうか・・・。幸せであったでしょうか・・・。
決してそうではなく、いつも心の深いところで、こんなはずではない、と虚しさを感じて来たのではないでしょうか。
孤独の人生
 私自身の人生がそうでした。幼いころから私は孤独でした。親にも友達にも心を開いて接することはできず、夢想の世界にいたように思います。
 若い頃には宗教団体に属していましたが、そこでも何ら救いになることは見い出すことは叶わず、かえって苦しみで一杯となりました。10年間教団による囚われの身となり、そこで苦しみました。ようやく脱出し、看護職に復帰し役職にまで就きました。しかし、そうして自由の世界を得たはずでしたが、やはり上手く適応することが出来ず、質こそ違いますが苦しみは続くこととなりました。
 これはどういう事かと言うならば、私はこの世の常識に染まり切れない、納得できない事だらけだったのです。
この世の何処にも自分の居場所を見つけることが出来ないのです。
次のような言葉があります。「この世を旅するものであれ、この世の者となるなかれ」イエスの言葉とされています。この言葉はわたしにはとてもしっくりときます。
 この世は体験を積むための旅先であり、本来の住処ではありません。必要あって一時、旅をしているのです。本来の住処に在って人間は初めて魂の安らぎを覚え、安堵することが可能となるのです。
 私は度々、自分の人生は生きづらいものであったと口にしてきました。私にとってはこの世は馴染めない事だらけでした。
この世はしっくりしませんでした。自分の住む所ではないように感じていたのです。当時は特にそのことを意識していたわけではありませんでした。が、人間とはもっと自由で、温かくて、共に居て心地良いものだと思っていたのかもしれません。
 苦しむ若者にエールを送る
 こうした体験は何も私だけの特殊な体験ではありません。多くの若者が生きづらさに苦しんでいます。引きこもりの若者やうつに苦しんでいる若者、職場や社会に馴染めず、苦しんでいる人はなにも若者だけではありません。大人であっても苦しんでいる人達は大勢存在します。彼らもまた自分の居場所を見つけることができないでいるのです。
 私の過去のブログでも書きましたように、むしろそうした人たちは真面目で人生に真摯に向き合っている、純粋な魂の持ち主と言えるでしょう。彼らが勇気を出して真理の探求をしてくれる様激励したいと思います。

 地上人生は永遠の霊性進化(霊的成長)の道程の、ほんの一コマにすぎません。地上人生の最大の目的は、物質世界の体験を通して霊的成長の基礎を作ることです。地球はその意味で、霊的な訓練場所と言えます。

繰り返しとなりますが、もう一度書きます。
 霊界、地上の準備がようやく整い、降ろされたスピリチュアリズム(霊的真理)です。その真髄を理解し、主導されるイエスの願いに答えてまいりましょう。2000年前に人類の霊的新生をはかり、救いの使命を果たそうとした、あのイエスの切なる願いをです。

 

 

「神観」について

日本人の神観 
我々日本人の神観は実に様々です。古くからアニミズム(自然信仰)と言って、広く生物・無生物を問わず、全ての存在の中に霊魂が宿っているという考え方で精霊信仰とも言われていますが、今も尚、我々の中にこの考え方が浸透しているようです。
日本社会は多様化を認めると言いつつも、信仰に関して言えば、一神教キリスト教国ではないし、イスラム教の国でもありません。文化庁による宗教年鑑 2020年版によると、神道系・仏教系の信者は合わせて約95%となっており、一神教的な思考に馴れていません。圧倒的に多神教世界に馴染みがあるといえるかもしれません。   いま述べたように、我々日本人の神観ということに私はかなり前から関心がありました。というのも神について話をすると、必ずと言ってよいほど相手の神の概念が取りとめもなく曖昧模糊としているからです。
これではもう一歩たりとも前には進むことが出来ません。話はそこで虚しく終わります。日本人のこうした性格傾向はさきに述べたように、アニミズム多神教・仏教といった思想背景があり、知らず知らずのうちにそれで良し、とするように訓練づけられてきたのでしょうか。曖昧さを残す、決めつけない、何でもあり、狂信的にならない、他人に良い顔をする、と言った漠然さを許容するという態度とでもいいましょうか。

神道について 
神道アニミズムから発展したとされておりますが、神社ができる前までは、神は精霊であり、祭礼の毎に神を招き降ろし、榊や岩や人に憑依させていましたが、政策上の都合により神社という社をつくり、固定化された祭神を信仰の対象としてきました。そうして明治政府により「国家神道」となり、神道は宗教ではない、とされるような考えが生み出されています。

そもそも「神道」とはなにか?という問題が自ずと生起してきます。神道における神とは多神教の神であり、八百万の神々という風に様々な神が存在します。海の神、山の神、嵐のような自然界・自然現象を司る神々、商売や学問の神々、縁結びの神などをあげることが出来ます。

仏教について
ブッダは神の存在を説いていません。そうなると、では人間や万物はどのようにして生み出されてきたのかについて答えることが出来ません。「創造神」という考えは何処からも出てこないのです。何の原因もなく突然なにもないところから、あなたは出現した、ということですか? 理性はどこに行ってしまったのでしょうか?自分はどこから来たのでしょうか?父と母から生まれて来た。なるほどそれはその通りですが、それはあくまで肉体的次元のことです。唯物論者の考えることです。
あなたは肉体だけの存在ですか?そうではありません。肉体と精神と霊からなる存在であることを、思い出していただきたい。

ブッダは「死後の生」の問題は不問に賦したまま他界しました。ですから仏教徒にとっては、それは考えないことが正解としてきたのでしょう。解らないことがあってもそれはそれで良いとするのです。確かに科学が進歩し分明が栄えたからと言っても、今の我々にも解らないことがらは沢山あります。殆ど分かっていないとも言えます。人類が進歩することにより、それらは理解できるようになってまいります。しかし、だから学ばないでよいことにはなりません。学び続けること、真理の追究は人類の義務と私は信じています。

平和ボケの我々日本人
我々の周りを見渡すならば、専門家や学者と言われる人たちを除くと、解らないことがあってもあえて調べない、曖昧なままにしておくことが平気である、といった傾向が大いにあると私は常々感じてきました。どうしてでしょうか・・・。多分、今日明日に困ることにはならないからでしょう。明日の食べるものがない、としたらどうしようか?思案するはずです。ロシアが攻めてきたらどうしようか?しかし、お人よし・平和ボケの日本人はそんなことはないと勝手に決め込んでいます。事が生じたら、それはすでに遅いのです。事前に考え、手筈を整え準備を怠ってはならないのです。

私は身近な人と、良く「死んで霊界で永遠に暮らすとしたら、今どんな心がけで、どんな準備をしたらよいと思うか?」と聞きます。すると殆どの人はこう言います。「死んでみないと解らないことで、いまから考えても意味ない。」ここには、可能な限り努力をして成長したいという向上心が全く感じられません。行き当たりバッタリで自分自身に対してさえ責任を持ちません。悲しい事実です。

スピリチュアリズムにおける神観    
スピリチュリズムについては第一回の私のブログと先月に紹介しておきました。もしご覧になられていないならば、是非とも目を通してくださいませ。スピリチュリズムについての大枠はご理解頂けると思います。
スピリチュアリズムには、はっきりとした「神観」があります。思想体系「Ⅱ」「神観」にはこのように述べられています。項目だけを以下に記述します。

      ①   創造主としての神
   ② 大霊としての神
   ③   愛の始原としての神(愛なる神)
   ④ 摂理(法則)としての神
   ⑤ 究極の理想としての神

スピリチュアリズムの到来によって地球人類は、イエスの時代よりもさらに多くの啓示を受けることができるようになりました。スピリチュアリズムによってもたらされた神観は霊界の高級霊たちが総力を結集して地上に伝えたものなのです。

この内容を全て述べることはここでは致しません。
スピリチュアリズム普及会ではこの内容の全てを2時間21分のビデオにして販売しております。またその一部をYouTubeで公開しています。是非とも時間を作って視聴して頂きたいと思います。 皆さまのさらなる明るい未来のための一助となることを祈念にて今回のブログを終わりと致します。最後まで読んでくださり誠に有難うごだいました。

参考文献:「神道」の虚像と実像 井上寛司著 講談社現代新書     
        霊の発見 五木寛之鎌田東二 平凡社
                     文化庁による宗教年鑑 2020年版
          スピリチュアリズムの思想体系「Ⅱ」「神観」

スピリチュアリズムとは地球人類救済運動

スピリチュアリズムとは地球人類救済運動です。

霊的無知から発した地球上の悲劇をなくし霊的真理による人類救済をめざした霊界主導の霊性復古運動であります。
それでは地上を覆う悲劇とはどのようなものかを見てまいりましょう。
・地球全体から見た場合
戦争による人殺し、貧富の格差、それに伴う貧困者の餓死、精神性の凋落、動植物の虐待、環境破壊
・個人の内面を見た場合
悲しみ、苦しみ、痛み、恨みといった心の苦しみです。

世界と言っても、それは一人ひとりの個人から成り立っていますから、結局は一人ひとりの救済なくしては始まらないわけです。“自分は救済など必要としていない“と嘯く輩も居られるでしょうが、ご覧の通り地上には数々の悲劇に満ちています。それを横目でみながら、自分には関係ない、とすることは止めにしましょう。

私達人類は永い歴史を通して、本来の人間のあるべき姿というものを知らないで来たのです。これを「霊的無知」と言います。“人は何のために生きるのか?”
こうしたテーマは古代から続いてきました。様々な哲学、宗教が起され、哲人、聖賢と言われる人物が登場し模索してきましたが、地球上は様々な悲劇から解放されておりません。
これまでの思索や宗教では私達は救われないということがはっきりしたのです。2000年前にユダヤの地にイエスなる人物が人類の救いのため現れました。
しかし人類の無知ゆえに十字架上に追いやられてしまいました。
それから2000年間、霊界のイエスと億万の高級霊たちは、この地上世界の悲劇を何とかしなければならない、という思いをずっと持ち続きてきました。
そして1848年にアメリカの片田舎に「フォックス事件」という心霊現象が起きました。これは霊界が時期到来と見なして演出したものだったのです。今から約150年前のことです。その後、舞台はイギリスに移され交霊会やさまざまな実験会が行われて、スピリチュアリズムは一躍その名を世に知られるところとなりました。
そして今、イエスは霊的に地上に降臨されました。それ故に地上にも霊的な動きが活発となることでしょう。

繰り返しますが、冒頭に挙げた通りスピリチュアリズムとは霊的無知から発した地球上の悲劇をなくし、霊的真理による人類救済をめざした霊界主導の霊性復古運動であります。結論から言うならば、地上世界の悲劇をなくし、一人ひとりが幸せに生きるためには、自分たちの生き方を改めることなのです。
そのためには知識が必要です。どこがどう間違っているか、どう改めなくてはならないか?それを知らないままでは解決はありえません。永い間、私達は間違った教え、宗教にさらされ翻弄されてきました。間違いが間違いということに気付かないで来たのです。何が正しくて、何が間違いかを見分けることが出来なくなってしまったのです。今日までその状態が続いてきました。何を信じて良いのかさえ分からない混沌の中にあります。それを明確に訓え、説いているのが霊的真理であります。その最高峰が「シルバーバーチの霊訓」といわれるもので、まさに現代のバイブルといえます

悲劇は何処から生まれているのか。「利己主義」と「物質主義」という二つの悪癖からです。人類の救いのためには、己の幸せを優先する生き方―利己主義をあらため、利他愛に変えること。そしてもう一つ、物質中心から霊中心の生き方へと変更することだけなのです。こんな簡単な事と思われるかもしれませんが、実はこれがとても大変なことなのです。
現在の世界を見てみると、一部の人間による富と権力の独占、そして支配がまかり通っています。嘘や誤魔化しがさかんに行われており、これはあきらかに神の摂理に違反する姿です。これまで国連を始め、あらゆる手立てを試みてきましたが、有効なものは一つもありませんでした。唯一行われてこなかったのが、この「霊的真理」による人類の霊的覚醒なのです。社会を変える、世直しをする、といっても、世界を構成する一人ひとりの心を入れ替えない限りそれは無理なのです。

人間とは“霊”であり、肉体はその霊が活動するための道具であります。ですから肉体は十分に手入れをして大切に扱わなければなりません。ただし、あくまでも霊が主で肉は従の関係にあることを完全に理解しなければなりません。
現代は科学至上主義に陥り、医学を例に取るなら、肉体のみを扱い、心の問題は取り上げようとしません。精神科があるじゃないか、と仰るかもしれませんが、ここでもまた心の問題は取り上げようとはせず、ただ現れた症状をみて“眠れないんですね、では睡眠剤を出しましょう”で終わりです。この者はどんな問題を抱えそしてどのように苦しんでいるのか、こういう心理社会的な面は全く考慮しようとしません。
今医学の問題の一例を取り上げましたが、社会も世界も物質中心主義に陥り、精神面、霊的面は見向きもしないという危機的な状況にあります。これでは人間であるというより、機械を相手にしていると言っても過言ではありません。そしてこのままでは自らもIT化されたあわれな存在となってゆくことでしょう。

このことはなんとしても防がねばなりません。スピリチュアリズム人間性の復興運動でもあるのです。人間の本来のあるべき姿を理解し、自分自身と地球人類の救いのためにそれぞれの持てる力を結集させ、明るい未来を築こうではありませんか。

 

人間関係について

札幌にもようやく遅い春がやってきました。待ちに待った新しいスタートです。

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雪解けのフキノトウ

人間は社会的存在として造られていますから、一人では生きて行けません。必ず誰かと関わりを持ちながら存在し続けています。人生のサイクルともいうべき家庭、学校そして職場環境に身を置き切磋琢磨しながらそれぞれの段階を踏んでまいります。どの段階にあっても、人は幸せを求めます。私達はまずは衣食住という身体的欲求を満たし、次いで心情的には愛されたい、という欲求を持ちます。これは人間として当然の姿であり、何ら咎められるようなことではありません。

さて、ここで実際の在り様を見てみましょう。
私達は人間関係に於いて、第一に優しさを優先して求めてはいないでしょうか・・・。その結果、間違いや指導すべき所であってもそれをしない、「いいよ、いいよ、過ぎたことだから」などと言い、うやむやにし家庭では厳しさを嫌い、お友達親子になる、子供の言いなりになってしまう、しまいには子供の奴隷と化してしまうというありさまです。学校においても、教師は「そのうち気づくよ、自主性を重んじよう」などと言い甘やかし、指導らしきことは全くと言うほどなおざりにされたままです。これは職場でもまた然りです。子供や部下・後輩の人格を尊重しており正しいことである、という共通の認識が存在していそうです。しかし、それは違うと私は思います。「平等・公平」の使い方が間違っているからです。

人間としては子供であれ、乞食であれ(最近ではあまり使われない言葉ですが、都会の貧民街で物乞いする人たち)人格を有しており平等です。しかし役割としては親・教師・上司はそれぞれ果たなければならない役割があるのです。それを怠ることは責任の放棄となります。上に立つものの役割とは、下に立つものを教え導くことになります。間違いがあれば指摘してやらなければ、彼らは何時まで経っても気が付きません。「そのうち気づくだろう」など甘やかしていては好機を逃して後悔することとなります。
特に大人になってからは間違いを指摘することは、する方もされる方も辛いことです。しかし注意されることで反省することが出来ます。反省することなくしては進歩・向上は望めません。互いに辛いことではありますが、そこは厳しい愛の鞭、と真摯に捉えてまいりましょう。決して逆恨みなどしてはいけないのです。反省し謝罪することは大きな努力が必要で、勇気が試される時なのです。
優しさと厳しさ、これは両方が必要で、どちらかだけといことでは正しく成長することは出来ません。優しさと厳しさは丁度コインの表と裏の関係にあります。

責任についてですが、ではどうして彼らは責任を果たそうとしないのでしょうか?
子供に嫌われたくない、生徒たちに好かれたい、物分かりの良い上司でいたい。
子供、部下の事より自分が可愛いのです。自分第一なのです。自分が幸せなら他はどうなっても一切責任は取りません。取りたくないのです。自分が可愛いから、自己愛に陥っているからなのです。
とても厳しいことを申し上げました。
しかし、これらのことは現場における親や教師に全責任があると申しているのではありません。国家として、未来を担う子供たちをどのような人間に育ててゆくのか、という未来を見据えた展望を示せていない故の悲しい実情なのです。本当は親も教師もどのように指導するべきなのかが解らないのです。
とりあえず、国から示されたガイドラインに則って表面的な事柄に取り組むしかないのです。自分が育てられたように、あるいはそれを半面教師としてみなして子供を育てます。そして、周囲の人達がしているように、見様見真似で子育てをします。
周囲の人達、即ち世間は物質第一主義と利己愛に覆われていますから、当然、目先の目標は良い大学を出て、一流会社と言われるところに就職し、良い人と出会い結婚をする、子供を育て・・・・・、という流れに乗ることとなるのです。

こうして見てくると、親や教師も犠牲者に思えなくもないですが、当事者としてはそれに甘えていてはいけません。被害者意識ではダメで、当事者であるからこそなんとかしなければ、と奮闘努力が要請されるのです。自分が奮闘努力せずして、では誰がそれをするというのでしょうか?だれも居りません。いけない、と知りながら目を逸らす事を呼んで、それを「卑怯」と言います。

一人の人間のできることは本当に微々たることですが、自分に出来ることから、始めるしかありません。物事は一朝一夕には成しえません。これは真理です。コツコツと地道な努力をすることでしか、道は切り開けては行きません。

私は十数年まえに、スピリチュアリズムに出会いました。そこでは人間とは如何なる存在か?何のためにこの地球上に生まれてきたのか?どのように生きることが求められいるのか?死とはなにか?死後の生はあるのか?神は存在するのか?
こうしたことを学んでまいりました。
人類にとって極めて重要な内容が網羅されており、幾つかの言語で「シルバーバーチの霊訓」として出版されています。まさに「現代のバイブル」とも言うべき書籍です。関心のあるかたは是非お手にされて熟読されることを心より祈念いたします。

この地上生活は人間として成長・進化するための訓練場、学校でありますから、いつも安楽に暮らせるという風には創られていません。努力と苦労が必要であり、まさに山あり谷ありの茨の道でもあるのです。これを通過して人間は強く逞しくなれるのです。

人生の谷に低く落ちた人ほど高く登れるというのは真理です。もし今、貴方がとても深い谷底で苦しんでいるとしたなら、それは幸いなことです。あとは登る道しかないからです。登ことは本当に苦しいものです。登山の経験のある方なら、お解かりになるでしょうが、何のためにこんなに苦しいことを敢えてやっている?この答は十分に理解しておられることでしょう。

今回の内容は予てより書きたいと思ってきたことです。しかし、何分私には教育者としての経験は専門学校での僅かな経験しかなく、ましてや子育てという体験もなく、自信が持てませんでしたが、どうしても一声を発したく思い、書かせていただきました。充分に思うところを発揮できたとはいえませんが、お読みくださり有難うございました。

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          地球人類にとっての真のバイブル シルバーバーチの霊訓(一)

四住期について

四住期とは~今日はこれについて考えてまいります。

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インドのヒンズー教社会では人生を四つの時期に分けて捉えます。
これを「四住期」と言います。

第一は「学生期(がくしょうき)」であり、8歳から25歳ごろで目上の人の元で体と精神を鍛え、一人前の力を得る期間。
第二は「家住期」といい、25歳から50歳ごろで定年を迎える頃に相当し、一家の大黒柱的立場で家族を養う責任があり、子育てや仕事などを通して変化ある生活が楽しめる時期。
第三は「林住期」であり、50歳から75歳ごろであり、家族や社会のために働いた人も、その役目を終えての新なステージです。古代インドでは家庭や社会と離れて林の中で修行や瞑想をしたが、現代では自分の内面と向き合い、成熟を目指す段階と捉えられています。
第四は「遊行期」で75歳ごろからであり、最後のステージです。
人生の終焉に向けての準備をする時期。この世に対する執念をなくし、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める時期。その昔、インドのバラモン教では居住地さえ捨てて乞食として旅をしたということです。

私は予てよりヨーガ教師をしていたためもあり、インドに関しては関心がありました。この「四住期」についても知っていました。作家の五木寛之氏が「林住期」という本を記したことにより、日本でも知れる所となったようです。

私は今年に入ってから元気がありません。気力が湧きません。原因をこれと特定できませんが、身内が2人が他界したことも一因かとも思います。寂しいとか悲しいという思いは全くありません。
あるいは肉体の病気が進行していることは十分考えられます。少し歩くだけで呼吸が苦しいからです。

私はスピリチュアリストを自認しています。人間は死んでも彼方の世界で生き続ける、霊界は厳然として存在するという確信を持っています。其れなのに何故か?

死ぬのが怖いということではありません。しかし、正直なところ、死んだらどんな所に行くことになるのだろうか、という心配が何処かにありました。
しかし、そんな心配は無用です。行く先は因果律の働きにより自ずと決まって来るからです。安心して神の配剤に委ねるのです。
必要なのはそうした心配ではなく、今何を為すべきか?という事だけです。

今私は第四の「遊行期」にあり、人生の終焉に向けての準備をする時期です。
この世に対する執念をなくし、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める時期に該当します。お遍路さんになり巡礼や断食、瞑想三昧に生きるということではありません。
私に求められているのは何か、これを考えてみました。

その① 肉体と精神、魂の健康に努めること。

具体的には出来るだけ心を正し、正しい食、運動と休息に留意すること。
今の自分に必要な内容を見つけて実践することですが、これはかなりの努力・工夫が必要です。老化という足かせがあるので生半可な考えではすぐに挫折してしまいます。

そして、この世の執着を捨てる、これについてはかなり前から取り組んできました。というよりは、そもそも私は不器用さから、この世的な物及び出来事にはあまり関わらないで来たようです。結果、無関心で冷たい人間であったかもしれません。

スピリチュアリズムを知ってからは、物的な事柄に関してはさらに執着は薄れてきました。今家の中は最低生活に必要な物だけになりました。
総仕上げの遺言書の作成に取り掛かっています。

その② できる限りの事を行う。
ブログを通して、伝えたいことがあるなら、その努力をする。自分の周囲にいる人達には出来るだけ親切にし、且つ感謝を伝える。ブログだけではなく、周囲の人達にも折りに触れて、死は怖くないこと、霊界があることを話す。

その③ 素直に生きる。
人は知られている通り、一人では生きて行けない存在です。生まれてすぐに親、周囲の人に支えられ育ちます。死ぬときも同じです。段々年を取り自分ひとりでは何も出来なくなります。次第に人の助けが必要となります。

これまで何でも自分ひとりで出来てきたが、年を取るとそうは行かないので、できないことは素直に周囲の人のお世話になることです。これが共に生きる、という事の一側面でもあるのです。
最後は誰の世話にもならず、一人で恰好よく死にたい、などという人が居ますが、それは止めにすることです。そんなうまい話しはありません。(16年間一緒に生活した愛猫は、ある夜家を飛び出し、帰ってはきませんでした。そのまま何処かで死に場所をみつけたに相違ありません、猫は飼い主に迷惑をかけまいとする本能がそうさせるのです。)人間は猫のようにはまいりません。

私はこれまでの人生を他に依存せず、一人で頑張ってきたと思っていました。一人で何でもできる、寂しいなど思った事などない、一人だって平気だと強がり、負け惜しみの中で生きてまいりました。しかし、それもある時まででした。
“誰の世話にもならない“、など辛口をきいていても体力・気力が衰えるなら、嫌でも他人のお世話にならざるを得ません。それが現実なのです。もしも未だに強がりを言っている人物が居るとしたら、その者はまだ本当の意味で病気の苦しみなど、修行が足りないのかもしれません。人は弱いものです。強がりだけでは生きて行けません。ガチガチ、トゲトゲは止めにしました。そうやって人間は互いが助け合って生きるように作られているのです。
次いで言えば、人は個人的な関係だけではなく、社会、そして国家同士の関係に於いても同様であります。共に生きることです。助け合うということです。

争い・戦争からは不幸しか生まれて来ません。

以上が私の現在までの悟りです。大した事ではありません。極めて当たり前のことだけです。それでも私は今現在は幸せを感じています。それはなににも増して嬉しいことであります。ここに報告させていただきました。まことに有難うございます。

なぜ病人が増え続くのか

なぜ病人が増え続くのか

f:id:gsirakaba:20220115153213p:plainこのブログに初めて訪れる方も居られるでしょうから、私が何者かを申しあげます。長年看護師をしてきて沢山の病気の方に接しつつ、中間管理職という立場から医療の裏側も見てきました。また子供の頃から現在まで沢山の病気をしてきました。その経験から医療に関して様々な疑問を抱いてまいりました。この現状を何とかしなければならない、その思いは益々強くなり現在に至っております。

今は本当に多くの方が病気で苦しんでおられます。
医学が発展し高度な医療が行われています。それを誇りに思う医療者か沢山存在しますが、一向に病人の数は減ることがなく、むしろ増加の一途をたどっている現状があります。医療費の高騰が問題視されています。国家が破綻してしまうのではないかと危惧されて久しくなります。これはどう見ても異常事態です。人は年を経るにつれて病気になることが増えています。どうしてでしょか・・・。勿論子供であっても病気になりますし、ある人は先天的な病気を持って誕生してくることもあります。それでも年を取るにつれて病気は増えています。

壮年と言われる頃には皆さん,どこかに不調を感じるようになり、老年者の殆どの人は一つならず、体のあちこちに不調を感じています。
これをどう捉えるでしょうか・・・。
年を取ると病気の一つや二つ抱えるのは当たり前、と捉えてきたのではないでしょうか。しかし、果たしてそうでしょうか?というのも、中には100歳になってもどこにも不調を感ぜずに、矍鑠(かくしゃく)とされている方が存在します。どこに違いがあったのでしょうか。先ずはこのことについて考えてまいります。

人は年を重ねるから病気になるのではない

結論を言えば、それまでの人生をどう生きて来たか?ということになります。
つまり、病気になるような生き方をしてきたからに他ならないのです。 
(子供の病気や先天的な病気は別の要因が考えられる)

中國奥地における長寿調査ツアーの報告を以下に見てまいりましょう。下の表はある日の長寿者の食事内容です。
         第10次・巴馬長寿調査ツアー/森下長寿郷調査団 2017/12月より

      朝食    昼食    夕食   備考
楊〇菊さん/104歳/女 トウモロコシ粥・野菜 ご飯・野菜 牛乳・野菜 少し肉を入れる
蘭〇新さん/105歳/女 トウモロコシ粥 トウモロコ粥 トウモロコシ粥  
黄〇衣さん/120歳/女 トウモロコシ粥  トウモロコシパン トウモロコシ粥 おやつにイモ
暢〇英さん/102歳/女 米粉の麺・豚足スープ ご飯・野菜   一日2食

「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」(ホリスティック医学・健康学研究所刊)では、健康維持のためには “4つの健康条件”を挙げています。
それは心(精神)食・運動・休養であります。このどれもが歪なく保たれてこそ健康が維持できるというのです。
ここに挙げた高齢者はみな自然豊かな所で農業に従事し三世代、四世代と暮らしており、まさに自然と調和した生き方です。今回は食事内容のみ取り上げましたが、これを見ただけで、豊富な物と文明の利器に囲まれている私達先進国の人々の生活とは全くと言ってよいほどの違いが分かると思います。
心・食・運動・休養、この4つが見事に調和されていることが推察できます。
結論を言えば、様々な病気はこうした自然との調和から逸脱した結果なのです。
何も文明の利器を全て排除せよ、ということではありません。つまり、そのような”物”に支配されるではなく健康長寿のために、それらを利用するという考え方に変更することが大切という事なのです。さらに言うならば、“健康長寿”はなぜ必要か?という命題まで行きつきます。今回はそこまでの追究はせずまたの機会にしたいと思います。
私達日本人は長寿村の人達と同じ生活をすることは最早出来ません。ですが、近づくための努力は出来ます。

医療にどう向き合うか?   
先端医療技術は目覚ましいものがあります。ゲノム医療はがん患者さんの遺伝子変異を調べ、分子標的治療薬の開発が成されています。またips細胞を使ったがんの免疫治療の治験も開始されました。
このように各種の診断機器の開発や技術は格段の進歩が見られ、がんや様々な難病が近未来には克服されるかに思えます。しかし実態はそう上手くは行ってません。確かに診断技術は進んでおりますが、治療はというならば思うようにはなっていません。
がん患者は減るどころか増える一方です。がんは標準治療が推奨されており、それらは相変わらず人体に少なくない侵襲を及ぼします。
例えば食道がんのⅢ期の場合、食道の全摘術が標準治療となり、術後の生活は想像をはるかに超えたものとなることが多いのです。(失声・ダンピング症候群他)たとえ命が何年か永らえることが出来たしても、果たして受容できるものでしょうか・・・。
そして問題があります。「先生におまかせします」と言い、十分に自分の病気・病状・治療そして治療後の生活を知らないままに事を進めるなら、後に大きな悔恨を残すことになるのです。「お任せ医療」は絶対にいけません。このお任せ医療は少し昔の情報のない時代に、知識のない人々が専門家に任せるほかには手段がなかった時の名残りでしょう。もうそれは過去のことです。今もし、自分に医学的知識がないとするならば勉強するべきです。しかし高齢で学ぶことが難しい、あるいは病状が進んで自分で考えることも儘ならいとするならば、誰かに助けを求めるとよいでしょう。私はそう思います。ちなみに、私は自身の上顎洞腫瘍の治療方針の選択に迷ったときに、知人の医師が行っている「がん何でも相談」外来を訪れました。

予防医学について
なにより賢い生き方とは、病気ならないように生活を律することです。先に挙げた長寿村の方たちの生き方から学んでまいりたいものです。
「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」で述べられている健康維持のための “4つの条件” 心・食・運動・休養。この詳細は本書を手にされ、じっくりと学んでいただきたいと切に願います。

病気になって慌てて治療はどうしようと、じたばたしないために、ましてや壮絶な闘病をさけるためにも、まずは予防に力を注いでまいりましょう。
しかし、すでに病を抱えている、治療中だという方も多いことと思います。それでも出来ることは在ります。今受けている治療で疑問を感じるものがあれば、主治医とじっくりと話し合うことです。その他には、食事を変える、睡眠・休養の在り方を見直す、心の在り方を振り返ってみる、などいくらでもあります。

老婆心ながら申し上げたいことがあります。もし、主治医と上手くコミニュケーションが取れない、相性が悪いとしたなら、主治医を変えることです。恐れることは在りません。幸いにも我日本には沢山の医師が存在します。どこかにあなたと上手くコミニュケーションの取れる医師はいるはずです。

さらにここで少々医師の名誉のために述べたいと思います。”3時間待ちの3分間診療”という悪名高い言葉がありますが、これは医師その人に問題があるというよりは、システム上やむを得ない理由があります。
短時間に沢山の患者を診なければ、病院経営が成り立たない、そういう医療制度なのです。日本はそういう国なのです。この問題は一朝一夕には解決しないでしょう。そして、ここで覚えておかなければならないこととして、今日の医療とはそもそも「不確実で限界がある」という事実についてです。しかし、我が身を守る為の智慧は必要となります。それは一言で言うならば、”賢い患者になれ”に尽きるでしょう。これを「患者力を高める」と言います。医療の不確実性と限界を許容した上で患者力を高めてまいりましょう。
皆さまのご健闘をお祈りいたします。

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                       「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入」
ホリスティック医学・健康学研究所 スピリチュアリズムが明らかにした医学と健康の本質 - 健康フレンド