一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

四住期について

四住期とは~今日はこれについて考えてまいります。

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インドのヒンズー教社会では人生を四つの時期に分けて捉えます。
これを「四住期」と言います。

第一は「学生期(がくしょうき)」であり、8歳から25歳ごろで目上の人の元で体と精神を鍛え、一人前の力を得る期間。
第二は「家住期」といい、25歳から50歳ごろで定年を迎える頃に相当し、一家の大黒柱的立場で家族を養う責任があり、子育てや仕事などを通して変化ある生活が楽しめる時期。
第三は「林住期」であり、50歳から75歳ごろであり、家族や社会のために働いた人も、その役目を終えての新なステージです。古代インドでは家庭や社会と離れて林の中で修行や瞑想をしたが、現代では自分の内面と向き合い、成熟を目指す段階と捉えられています。
第四は「遊行期」で75歳ごろからであり、最後のステージです。
人生の終焉に向けての準備をする時期。この世に対する執念をなくし、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める時期。その昔、インドのバラモン教では居住地さえ捨てて乞食として旅をしたということです。

私は予てよりヨーガ教師をしていたためもあり、インドに関しては関心がありました。この「四住期」についても知っていました。作家の五木寛之氏が「林住期」という本を記したことにより、日本でも知れる所となったようです。

私は今年に入ってから元気がありません。気力が湧きません。原因をこれと特定できませんが、身内が2人が他界したことも一因かとも思います。寂しいとか悲しいという思いは全くありません。
あるいは肉体の病気が進行していることは十分考えられます。少し歩くだけで呼吸が苦しいからです。

私はスピリチュアリストを自認しています。人間は死んでも彼方の世界で生き続ける、霊界は厳然として存在するという確信を持っています。其れなのに何故か?

死ぬのが怖いということではありません。しかし、正直なところ、死んだらどんな所に行くことになるのだろうか、という心配が何処かにありました。
しかし、そんな心配は無用です。行く先は因果律の働きにより自ずと決まって来るからです。安心して神の配剤に委ねるのです。
必要なのはそうした心配ではなく、今何を為すべきか?という事だけです。

今私は第四の「遊行期」にあり、人生の終焉に向けての準備をする時期です。
この世に対する執念をなくし、巡礼を通して死ぬ場所や悟りを求める時期に該当します。お遍路さんになり巡礼や断食、瞑想三昧に生きるということではありません。
私に求められているのは何か、これを考えてみました。

その① 肉体と精神、魂の健康に努めること。

具体的には出来るだけ心を正し、正しい食、運動と休息に留意すること。
今の自分に必要な内容を見つけて実践することですが、これはかなりの努力・工夫が必要です。老化という足かせがあるので生半可な考えではすぐに挫折してしまいます。

そして、この世の執着を捨てる、これについてはかなり前から取り組んできました。というよりは、そもそも私は不器用さから、この世的な物及び出来事にはあまり関わらないで来たようです。結果、無関心で冷たい人間であったかもしれません。

スピリチュアリズムを知ってからは、物的な事柄に関してはさらに執着は薄れてきました。今家の中は最低生活に必要な物だけになりました。
総仕上げの遺言書の作成に取り掛かっています。

その② できる限りの事を行う。
ブログを通して、伝えたいことがあるなら、その努力をする。自分の周囲にいる人達には出来るだけ親切にし、且つ感謝を伝える。ブログだけではなく、周囲の人達にも折りに触れて、死は怖くないこと、霊界があることを話す。

その③ 素直に生きる。
人は知られている通り、一人では生きて行けない存在です。生まれてすぐに親、周囲の人に支えられ育ちます。死ぬときも同じです。段々年を取り自分ひとりでは何も出来なくなります。次第に人の助けが必要となります。

これまで何でも自分ひとりで出来てきたが、年を取るとそうは行かないので、できないことは素直に周囲の人のお世話になることです。これが共に生きる、という事の一側面でもあるのです。
最後は誰の世話にもならず、一人で恰好よく死にたい、などという人が居ますが、それは止めにすることです。そんなうまい話しはありません。(16年間一緒に生活した愛猫は、ある夜家を飛び出し、帰ってはきませんでした。そのまま何処かで死に場所をみつけたに相違ありません、猫は飼い主に迷惑をかけまいとする本能がそうさせるのです。)人間は猫のようにはまいりません。

私はこれまでの人生を他に依存せず、一人で頑張ってきたと思っていました。一人で何でもできる、寂しいなど思った事などない、一人だって平気だと強がり、負け惜しみの中で生きてまいりました。しかし、それもある時まででした。
“誰の世話にもならない“、など辛口をきいていても体力・気力が衰えるなら、嫌でも他人のお世話にならざるを得ません。それが現実なのです。もしも未だに強がりを言っている人物が居るとしたら、その者はまだ本当の意味で病気の苦しみなど、修行が足りないのかもしれません。人は弱いものです。強がりだけでは生きて行けません。ガチガチ、トゲトゲは止めにしました。そうやって人間は互いが助け合って生きるように作られているのです。
次いで言えば、人は個人的な関係だけではなく、社会、そして国家同士の関係に於いても同様であります。共に生きることです。助け合うということです。

争い・戦争からは不幸しか生まれて来ません。

以上が私の現在までの悟りです。大した事ではありません。極めて当たり前のことだけです。それでも私は今現在は幸せを感じています。それはなににも増して嬉しいことであります。ここに報告させていただきました。まことに有難うございます。