一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

「死ぬことは怖いか?~私の霊界探訪」

今回は死ぬことは怖いか? という極めて深刻な問題について考えてまいります。

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私達スピリチュアリストは霊的真理を学んでいますから、人間の本質は肉体ではなく、霊であることを知っています。霊は永遠です。私達は死んでも死なないことを知っています。それなのにある時、死ぬことを恐れている自分に気づきました。

 夢を見ました。

自分が処刑されるために、処刑場へ誘導されて行きます。何人かが見送りにきてくれました。私は笑顔で手を振り、「又ね」と言い歩を進めました。”又ね”というのは霊界でいずれの日にか再び会うことがあるでしょう、という確信があったからです。しかしその時の自分は恐怖そのものでした。私がどの様な罪を犯したのかは分かりませんでしたが、刑に服して処刑されることは受け入れていました。そして私は死んでも生きる、ということも知識としては知っていました。それなのに何を恐れているのでしょうか?目が覚めても、わたしは自分が死を恐れていると認めざるをえませんでした。(ある意味では人間はすべて死を宣告されていると言えます。ここではたまたま罪人であることとされていますが、すべての人間は死を受け入れて今を生きています)

これではスピリチュアリストと自認することが憚れると思いました。
一体どうしてこうなのでしょうか?考えました。

 一般に「怖い」という感情はこの先どうなっていくのか分からないから、知らないから不安、恐怖の念が起こるのです。

私は知識としては死後の世界、死後の生活についてある程度知っていると自分では思っていました。“霊界通信”はいくつもが書籍になっていて、沢山の実例が紹介されています。そこにはかなり詳しく、ありありと情景が描写されています。ですがそれも書物を通しての知識であり、実感を伴ったものとはなっておらず、そういう意味からはやはり“知らない”のです。そこで翌日、“死後の世界、霊界についてもっと実感の伴う方法で教えてください”と守護霊にお願いして就寝しましたところ、早速その夜に次のような夢で、“霊界探訪“をすることが出来ました。昨日に続き二日間に亘る霊界探訪です。

 訪れたそこは、薄暗く殺伐としていて、人影も殆どなく寂しい所です。医療現場か、研究施設のようなところで、一人の人間が横たわっています。その女性(らしい)は全身のあちこちに巨大な褥瘡が出来ており、そこを最新の医療技術で修復手術を施してあります。あちこち赤黒く変色しており無残な姿です。そして何故かその女性は生きたまま体を切り刻まれてゆきます。(私は医療者でありましたから、このように解りやすい場面を見せつけられるのだと思います)

別の部屋では40歳ぐらいの女性が入院していますが、何ら適切な処遇は受けておらず消されてしまいます。その後片付けも出来でいないうちに、次の患者が入院してきます。若い男性の患者で、不安そうに当たりをきょろきょろしています。この人も間もなくいなくなってしまいました。一体どこへ消えてしまったのかは分かりません。

超高齢で一見老賢者ともいえそうな人物が見えます。ここは病院というよりは高齢者の施設の様です。ここにはこの人物以外には誰一人姿は見当たりません。彼は誰かを待っているようです。やがてそこにある人物が現れ、なにやら話し合いっていましたが、相手に翻弄されたあげく、彼もまた何処かに消えてしまいました。

また、身ぎれいな高齢の女性がいます。育ちも良く教養も高そうです。彼女もまた、迎えに来た何者かによって何処へやら連れ去られてしまいました。

ここは騙しあい、策略、殺掠の横行するところで、それ以外は何も残っていないのでした。まさに地獄とはかようなところか、と納得がゆきました。最後には、私自身が30~40代と思しき男性と一騎打ちの戦いとなり、私は辛うじて勝利しました。そこで目が覚めて地上世界へ戻りました。

以上が夢の内容の要約です。

昨晩、“霊界の実態を実感をもって知りたい”と守護霊にお願いした結果、連れられて行ったところが幽界の最下層、地獄とも言える所(ここからが地獄ですよ、というような境界線などは存在しない、同じような低い霊たちが自然と集まる)だったのです。想定外でした。私は美しく、喜びや、安心・安らぎの満ちている階層を想定していたからです。しかし、結果は真逆でした。地獄を見せられました。これは一体どういうことか?

守護霊は私に何を悟れというのかと訝りましたが、直ぐに理解できました。

それはこうです。

「お前は(あなたは)自分が安心したい、喜びを得たい、というのが動機である。しかし、それは利己愛であり、永遠の摂理である利他愛の真逆にある。その次元にいるお前をその境涯へは到底連れてゆくことは出来ない。見せられない。まずは、苦しみと不幸の境涯に永遠ともいえる長い間、そこに留まる哀れな同胞を見るが良い」ということのようです。

このように、守護霊が直接に言葉を発したわけではありません。そのように私は理解したということです。

かれらは殺し合い、騙し合い、失望という地獄に何百年、何千年と閉じ込められている魂なのです。暗く、冷たく、寂しい荒涼とした世界で蠢いて暮らすのです。殺されても死なないのですから。かれらは地上生活の時は、地位や身分も卑しからぬ存在で、それなりの尊敬をも享受していたかもしれません。教養もあり、立派な人物とされていたかもしれません。
それなのに、霊界ではこのように幽界の最下層の地獄とも言えるような境涯で苦しんでいるのです。
この事実を知ったものは、己の喜びや心の安らぎを最優先に求めてはならないのです。なににも増して優先すべきは彼らの魂の救済です。永遠とも言えそうな地獄からの救済です。そして、今地上で人生を送っている70数億の大勢の人々は、これから霊界にゆくわけですが、これらの人々も救済されなければなりません。この人々が地上では勿論救済され、幽界でも地獄へ赴くことなく、順調に霊界生活に順応していっていただきたいのです。

私達は持てる全ての力をふり絞って霊的真理の普及に尽力しなければなりません。この度の霊界探訪は私に以上のことを教えてくれました。
美しいもの、喜び、安らぎはその先に用意されているはずです。その時の楽しみとしてとっておきます。

「死ぬのが怖い」ということは知らないからだ、ということも勿論あるでしょう。が、それよりも寧ろ「今、やるべきことをー真理の普及」を第一にして生きてゆけば、その途中で死んでも一切の心残りは生ぜず、また不安も恐怖も生じないことと思われます。それが出来ていないから恐怖を覚える。こちらの方が主なる理由と言えるかもしれません。

「死」は自然現象です。肉体をもっての地上人生は学びのための一時的に過ごす場所、旅における一時的な逗留の場です。ですから、その学び・仕事を終えるなら、そこにそれ以上留まる必要はありません。ですが、そこでいう「死」は自然死であって、「処刑」は含まれません。夢では私は「処刑」です?

もしかしたら、私は「自然死」であるならば、恐怖は感じなかったかもしれません。

「刑死」が問題であったかも知れないのです。「刑死」これは自分が何か誤りを犯したということなのです。それが何かは解りませんでした。あるいはそれとは異なり、イエスの十字架上の死、殉教者の死、ソクラテスの死、現代でいえば職務上の死、すなわち殉職ということも考えられます。すなわち、罪にたいする罰としての処刑ではない、ということです。私には解りかねます。殉教者の死であるならそれは恐怖ではなく、喜んで処刑されるでしょう。解らないから、恐怖を感じたのかもしれません。本来ならば喜びをもって死んでゆけるのに、です。

ただ今、分かることと言えば、私は未だやるべきことを一心不乱に取り組んでいないということのようです。実際、今だ解決できず気になっている課題があるとの自覚があります。このことを理解することができました。更なる努力を模索してまいります。霊界と守護霊にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

一心不乱に取り組むことです。

これを今日の結語といたします。

宇宙を貫く真理~愛の摂理  

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地上世界は永い間、悲劇・悲しみ・苦しみの中にありました。無知のなかに置かれてきました。今現在もその最中にあります。

 神はご自身が愛なるがゆえに、ご自身の属性である愛を顕現させるために人間界、そしてこの全宇宙を創造されました。であるから、このように悲惨さが満ち満ちた地上世界を何とかして救おうとされてきました。高級霊を用いてこの悲惨な地球を救おうとされてきたのです。高級霊、それは高度に進化した我々の先輩にあたる人霊です。

 ある苦しみの中にいる一人の人物を取り上げてみましょう。

彼は事業に失敗して借金地獄に陥りました。もうどうになりません。銀行は勿論、友人知人もいざとなると誰も助けてはくれません。家族も離散してしまいました。もう夜逃げするか、自殺するしかないのです。

こうした状況は現代では頻繁に生じています。なぜ、彼はこんなに苦しまなければならないのでしょうか?
一体どこに神の愛を見つけることができるのでしょうか?
“神も仏も存在しない!”と嘆きます。

 転じて、霊界という所は一切の「悪」「悲劇」は存在しません。何時もそこには“愛”が満ち満ちていて、平和であり、心安らぐ世界です。ただし、低い階層にはさながら「地獄」ともいえそうな所はあります。(場所は存在しないのであって、そこはそういう魂の人間の集まる階層を言う)

 しかし、この地上世界はあまりにも無知と未熟さに覆われているのです。霊界の常識が通用しない世界なのです。
そこで、私達人類はみな、さまざまな身体的・精神的苦しみの体験をして、その中から真なるものを探し求めてゆかねばならないのです。
家庭であれ、組織であれ、また個人の内部に於いても、生きるプロセスにおいては、戦い・葛藤・不一致・仲たがいなどを繰り返すことになります。

“利他“の思いは何処へか消し飛んで、”エゴ”が首を擡げ、成長・進歩を願う己を悩ますこととなります。己自身が生き延びることに精一杯となり、一体どこに“愛”の欠片を見出すことができるでしょうか。

しかし、それでも私は“神の愛”が根底にあると言います。どうしてそのように言い切れるのでしょうか。全ての苦しみ、悲しみ、悲惨さは“無知“から生じていることはすでにこれまでのブログでも書きました。
私達はその無知を克服するために、学ばなければなりません。あなたが無知、と言っているのではありません。我々人類は皆総じてあまりも無知なのです。

 *私たち人間が何のために生まれてきたのか?

*どこからやってきたのか?

*神は存在するのか?存在するとしたら、どのような存在か?

*死んだらどうなるのか?

*死後の世界はあるのか?

これらについて全く答えられないのです。
科学がいくら進歩しても、これらの疑問に回答できないでしょう。
医学生理学者が、いくら細胞や遺伝子を調べてもその答えは見いだせないのです。
 学ぶことは易しいことではありません。強い意志と忍耐と努力が必要です。少々のことで諦めたり、放り出すようではいけません。問題解決のプロセスは簡単ではありません。
それは多くの要素が複雑に絡み合いごちゃごちゃになっているからです。その一つ一つを丁寧にひも解いてゆくことが必要となるので、痛みが伴います。無傷でというわけにはまいりません。忍耐が要求されます。

病気治療と同じです。病気を治すためには、まず、原因・要因を明らかにしなければなりません。次いで、それに見合った対処が必要です。痛みと苦しみが伴います。しかし、それは“治る“という希望があるから、耐えることが出来ます。的外れでは治りようもありません。“がん“が何故治らないか、考えたことがおありでしょうか?
原因を見極められていないからです。的外れの治療をします。当然治りません。いくら医師が誠意をもって治療に当っていたとしても、虚しいことなのです。悲しいことです。
それと全く同じことです。私達地球人類の不幸の原因を究明しなければなりません。苦しみつつ明日の、未来の希望の向かって努力することです。
厳しいけれど、苦しいけれど、問題に堂々と直面し、何をどうするか明らかにしてゆかねば、問題は何一つ解決に至りません。

一人では難しければ、他に信頼できる人の助けを借りましょう。
勇気と知恵を求めて祈りましょう。
祈って、なにが変わるだろうか?気休めではなかろうか?とお思いになるかもしれません。しかし、考えてみてください。何かを成し遂げたときは、それなりの行動をしました。そして、その行動を起こす原因となる想いがあったはずです。想いは祈りです。“こうしたい、こうなりたい”という願いです。その願いが真っ当で真摯なるものであるなら、必ず神・霊界は答えてくださいます。これを“祈り”と言います。
“こうしよう“と決めたら、迷いを払拭して他人がどう言おうと自信をもって堂々と進みましょう。こうした態度に関してはあるいは、周囲からの反発や非難は覚悟しなければなりません。
“冷たい人間だ”と思う人もいることでしょう。それに怯んではならないのです。それも時間が経つことで、互いに必要な痛み・苦しみであったとの理解に至ることでしょう。
 問題を見て見ぬふりをしていては、問題は永遠に引きずったままとなります。不幸から逃れることは出来ません。
人類の歴史を見ればそのことは明らかであります。他人がどう思おうが、己の良心に従って英断をもって前進しようではありませんか。
注意点としては、相手かまわず、太刀をふるってバッタバッタと切り込んでよい、ということではありません。その相手に相応しい時に、相応しいやりかたで接して行くことが要請されます。

非常に落ち込んでいるときに、優しさの欠片も持たずに、厳しい言葉を投げかけられるならば、その人は立ち直れなくなります。自殺さえしかねません。
適切な時に適切な働きかけが重要となります。難しいことであり、大いに悩むところではあります。私自身もそのことで随分と失敗を重ねてきました。
しかし、いつも言いますように地上人生は学ぶために在ります。神は愛なるが故にこうして私達を救おうとされています。どんな人にも失敗・過ちはあります。それも成長に必要な一プロセスなのだと理解し、今日も生きています。

私達は実に不完全で未熟者であります。それを自覚して努力の最中にあるのであって、これからも失敗や過ち、そして葛藤や苦しみは続くことでしょう。でも、それでよいのです。そうやって人類は少しづつ成長・進化してゆきます。大切なのはそれで諦めないことなのです。

 たいへんに説教じみた内容になりました。未熟な自分が大それた発言と、些か心苦しくはありますが、どうしても皆さまに伝えたいという思いから書かせていただきました。どこか貴方の心に残るものがあれが幸いと存じます。

貴船菊~霊性への気づきに至る道

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今年も我が家の庭で秋明菊シュウメイギク咲きだしました。秋の訪れです。これを見ていてふと往年のある時を思い出しました。

私は10日間の瞑想修行のため京都を訪れていました。それが終了して鞍馬山へ出かけようと思い、叡山電鉄鞍馬駅へ向かいました。

鞍馬山は標高584mの山で牛若丸が天狗相手に剣術修行をした所として有名であり、パワースポットとして人気の霊山となっています。鞍馬寺の本尊は目に見えない宇宙の力なので鞍馬山に満ちているエネルギーは大きなものとされています。

私が訪れたときも大勢の修行者らしき人々が般若心経を唱えながら、境内にある沢山の寺院巡りをしていました。

これらの寺院の御朱印めぐりなど、鞍馬山を広く散策するハイキングコースは人気があります。御朱印は私の関心事ではなく、そこに満ちる清涼なエネルギーに触れたいという思いからでした。何百年、あるいは何千年も聳える自然林がその根元が複雑でかつ蛇のようにくねって地表に浮き出ている様、この根の間を身軽に飛び越えながら、剣術修行をする牛若丸の姿が目に浮かぶようでした。貴船駅へ続く渓谷沿いには料理旅館が立ち並び、夏季には「川床」が供され、蒸し暑い京都の納涼に処しています。その渓谷沿いには貴船菊が満開に咲いていて、私の目を楽しませてくれました。貴船菊とはこの辺りに自生しているため、そう呼ばれていますが、本当は秋明菊と言います。

そして私がなぜ鞍馬山へ足を延ばしたかというと、その時私はレイキの学習中で、その開祖とでも言える「臼井甕(みか)雄(1865~1926)」なる人物がこの鞍馬山で断食・瞑想の後、悟りを開きレイキを感得したと知らされていましたので、是非ともその地を訪れてみたかったからです。

ここで、レイキに関して少しばかり補足しておきます。

レイキとは宇宙に存在する生命エネルギーを活性化し、回復し、調和させる方法です。その歴史は古く古代チベットに辿り着くのですが、長い間に伝統が消失し封印されてきました。それが19世紀の終わりに、臼井博士により再発見されました。戦前、日本では「手当療法」の全盛時代で、その中心がレイキであったとされ、日本での信奉者数は100万人超えだったそうですが、戦後は極限られた人々に受け継がれて表面に出ることはほとんどありませんでした。

教えを受けたハワイ在住の日系2世の「ハワヨ・タカタ女史」の功績により海外へ普及していったという経緯があります。

それが廃れていた日本に逆輸入されたのが1985年だったのです。

現在、レイキは世界で最も人気の高いヒーリングで、イギリス、ドイツ、オーストラリア、カナダ、オランダでは医療保険が適応となっています。

私がレイキのティチャーズ・ディグリーを取得したのは2002年12月のことです。少しばかり、ヒーリングやディグリーの伝授を実践していた時期もありましたが、私にはヒーラーという天命はない、とい感覚があり現在は休止中です。

もちろん、宇宙に充満する生命エネルギーそのものは、いつの時代でも変わることなく存在していますから、レイキは自己ヒーリングとしてのみ、用いています。何よりも、”ヒーリング”は自分が行いたいからする、というものではなく、その能力は天命として与えられるものであることを今は理解しています。

ここで、私がどのような経緯を経て、「霊性」ということに気づいてきたかを整理してみましょう。

  • 看護学校と臨床で病める人々に奉仕するという「奉仕の精神」の大切さを学ぶ。
  • その後ある期間宗教団体に所属して、「宗教」というものを苦しみつつ知る。
  • 仕事上での人間関係を向上させるべく、心理学を学ぶ。
  • 広く教養を積むべく、放送大学で人間の探求を専攻する。
  • ユング心理学をベースとした自己開発セミナーを受ける。
  • 精神分析夢分析を受ける。
  • 瞑想の学習を始める。
  • レイキ・テイチャーとなる。
  • ヨーガを学び、ヨーガ療法士となる。
  • スピリチュアリズムを知り、今日に至る。

学習中、そしてそれからも沢山の病気を体験し、今スピリチュアリズムに出会ったことにより、長年の探求課題であった、人生の目的、神の存在、死後生について知ることができました。

思えば長い道のりでした。気がつけば地上人生のほとんどが費やされていました。

私は少しばかりの苦労や学びではなかなか悟れない無知で頑固人間でした。ですから、こうして挙げてみれば①から⑩までのようにこれでもか!というほど手間暇がかかりました。しかし、人生とはこうして知識と理解(悟りとも言います)を得るための学びの道程ということが出来るでしょう。私はそういう意味で本当に幸せ者であります。

私はいつでも真剣に物事に対峙してきたつもりです。しかし、それが故に人生は生きずらいものとなっていました。適当に妥協する、ということが出来ないのです。仕事においても、味方は少なく敵は多いほうでした。

こうした性格は物事を進めるうえで、プラスとともにマイナスともなります。

今は、そうした自分の傾向を知っていますので、そのバランスをとることに心を砕いています。

どんな場合に許し、どんな場合には厳然と対処すべきか、これを冷静にそして焦らず考えてゆくことが少しは出来るようになったと思っていますが、果たしてどうでしょうか・・・。

地上人生が終わるその時まで、いえ、あちらの世界に於いても私達は学び、そして他の人々に奉仕し続けるのです。勇気を持って顔を上げて進みましょう。


 

 



私の健康維持

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我が家の花たち 左から花オクラ、バラ、孔雀サボテン、椿、オオマツヨイ草、

今回も我が家のお花たちを紹介しながら、私の健康維持について少々述べてみたいと思います。今回紹介した花は特に目を引くような華々しいものではありません。どちらかというなら、ひっそりと庭の片隅に咲く、という感じでしょうか。

 予てよりお知らせしていますが、私は健康を損ねています。とても残念に思って来ました。しかし、霊的真理に巡り合うことが出来た今、これは決して不幸なことではなくむしろ有難いことと思っています。

私は20数年前に自分自身ががんになった時、沢山の関連記事に触れてきました。そのなかには闘病記のようなものも含まれていました。そこでは、さまざまな方法でがんを克服してきた方々の闘病記もありました。そんな中、とても興味深かいものがありました。

伊丹仁朗という医師ががんサバイバー(がん治療中、もしくは体験者)の方々と富士山に登る、という「生きがい療法」を実践しているという内容でした。その参加者が「がんになって良かった、がんに感謝している」と語ったことでした。これ知ったのはもう15年も前になり、この時の詳細については記憶も薄れてしまって、ここに紹介することはかないませんが、これはとても大切なことと認識しております。

伊丹医師は「生きがい療法」の医学的裏付けとして次のように述べています。恐怖への対処が上手になる。生きがいレベルが高くなる。治療効果がよくなる。

「生きがい療法」にはさまざまなものがあるようですが、これは現代医学からは総じて「心理療法」に該当する、としています。ライフスタイルの修正とも言えます。

 次に、いつ頃の実験か定かではありませんが2つの実験データを見てみましょう。

カルフォルニア大学ロサンゼルス校でのメラノーマ(悪性黒色腫という皮膚のがん)の術後6年目の再発率・死亡率に関する実験で患者群を2つに分けます。一つは「心理療法」をする群、そして他方はそれをしない群とです。

結果は「心理療法群」は再発率が半分に、死亡率は1/3という差が見られたという。

もう一つは、スタンフォード大学乳がんの多発転移のケースで同じような実験をした結果、「心理療法群」の生存期間が2倍に延長したというものです。

ここから、がん患者の生存率・再発率は単に外科医の腕が良いかどうかで決まるものではないということが分かります。その人間がどんな考え方をし、どんな生活をしてきたかが問われていると言えます。

私は今、がんになったことに寧ろ「有難い」と述べたことは本当です。このことにより私は沢山のことを学びました。現代西洋医学の提唱する医療内容に対する疑問。(例えば、今日、がんに対する治療といえば、手術・抗がん剤放射線照射、という3大療法です。それ以外に治療法はない、とするものです。)

何故がんが増える一方なのか?なぜ治療しても死亡率が下がらないのか?そもそも抗がん剤とはいかなるものか?人間に付与されている自然治癒力とはいかなる仕組みか?免疫とは?生活習慣との関連は?緩和療法とはいかなるもので、またどうあるべきか?リエゾンナース(精神看護専門看護師liaison-橋渡し・連携する)とはどのような仕事をすべきか?そもそも、医療現場に宗教者が介入することに反対する日本の医療界とは何ぞや?

これらは、私自身が臨床で看護師をしている当時はほとんどと言ってもよいほど、疑問に思わずにいたことです。現代西洋医学・唯物医学にまったく疑問を持たずに、それが真っ当な医学と信じていました。(今の医師たちのほとんどがそうです)

そうして今、私は3度目のがんを体験しました。昨年のことです。さすがその時は「もう終わりにしたい」と思いました。終わりにしたい、とはなにもせずに死ぬことを選択するということです。

でもその選択はしませんでした。スピリチュアリストの同志が「生きてください」と励ましてくれました。そして霊的真理に照らし合わせます。ここが踏ん張りどころなのです。この地上人生は人間として成長、進化するべく、神が用意してくれたものですから、何事も無駄にしてはならず、すべてを天からの恵みととらえます。病気になるのも、必要あってのこと、つまり必然なのです。私は現代西洋医学の誇る「定位放射線療法」、そして対極にある「心霊治療」を受けました。これらは、物質的か、霊的かという違いであり、共にそれぞれ深いレベルに作用します。

この病気になって何を学ぶべきか?私は自分に与えられた課題と捉えました。何事も前向きに積極的に探究すること、現代西洋医学のすべてを思慮深く考究し、必要なものは受け入れること。決して悲観的にならず、苦しい症状に陥っても、忍耐をすること。私はそれにより、幾分かは強い人間になれたように感じています。そうです、霊的真理は私に強くなれ、魂を鍛えよと教えてくれたのです。

今、己の毎日の過ごし方はいかなるものかと問われても、ぱっと目に魅力的なものは見当たりません。半病人(この言葉は好きではありませんが他に思い浮かぶことばが見当たりません)の生活そのものですから。

夏場はガーデニングがあります。いつも雨の日以外は、庭に出て草花や庭木に語り掛けます。丁寧に世話をします。トマトもおいしく実り、友人に差し上げます。

半病人ですが、トマトの支柱は全部自分で立てます。ヘルパーさんが見てはらはらすることもありますが、私は自分で仕事量はコントロールできます。

(このコントロールについてですが、以前、ある病院のガーデンの手入れというボランティアしていた時、仲間との共同仕事なので、自分の体調に合わせてということが出来ず、無理をしていまい、具合を悪くしてしまったことがありました。しかし、自宅でなら、他人に気兼ねすることなく作業が出来ます。)

それに愛猫が居ます。もう15年も一緒に生活しています。私にとって花木、猫の世話が生きがいともいえるでしょう。生命の息吹を感じさせてくれます。自然界の見事な調和の中に身を置いているような気持ちにさせてくれます。もしかしたら、私はナチュラリストと言えるかもしれません。

勿論、それだけではありません。私は今こうしてブログで拙い文章を公開しています。これを行うために、今も読書やさまざまな情報を得るように努力しています。霊的真理もいつも必要に迫られて読み返す日々です。

このブログはある意味で自分自身の終活ですが、それだけに留まらず、皆さまが私の辿ってきた道程から何らかのヒントを得ていただけたら、それは意味があろうと思うのです。私のこれまでの人生は、取り立てるような内容もなく、成果といえるものは何もありません。研究者でもなく、教育者でもなく、ただの一介の看護師でした。ただ一つ、「札幌シルバーバーチの会」を立ち上げて8年ほど、読書会を続けたことぐらいでしょうか。

自身の健康維持はどのようにしているのか?という問の答えは、ここに書いてきたような事柄である、と言えます。日常生活を可能な限り正すこと。心(精神・魂)と肉体を完全に近いものに保つ努力です。自然を愛し畏怖しそれと一体化すべく、私は庭の花を愛します。猫を愛します。近所の犬や猫も愛します。若いころのように山登りはかないませんが、戸外に出て、さわやかな大気に触れます。霊的真理の深いところを求めて、これまで見過ごしてきたところをじっくりと読み返します。瞑想し祈ります。

食するものも吟味して選びます。出来るだけ汚染されていないもの(現代の食品は数々の農薬、防腐剤をはじめとする食品添加物にまみれている)を探します。食べ過ぎないようにします。

現代の諸問題は私という個人をも含めて、自然の摂理から逸脱した生き方からすべて発している、といえるでしょう。

その根源的な問題とは、摂理からの逸脱、摂理とは神の摂理でありますが、「利己主義」と「物質至上主義」です。この二つが私達人類を不幸にしている元凶であります。ですから、何をおいても私達は霊的真理、スピリチュアリズムを理解しなければならないということになります。今、私はその思いを一層深くして、残りの地上人生を送ろうと決意しています。

 

 伊丹仁朗  1963年、岡山大学医学部卒業。1981年頃より心身医学的側面からのガン・難病治療に取り組み、生きがい療法を開発。ガン闘病者とのモンブラン登山や笑いの研究で知られる。1995年、米国医学博士号を授与。柴田病院・難治疾患研究部勤務、ルイ・パストゥール医学研究センター客員研究員を経て、現在、すばるクリニック・腫瘍内科(岡山県倉敷市)においてガンの治療及び研究にあたっている
ガン治癒力を高める心理療法 精神腫瘍学的治療法』より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物界に見る自然の摂理、そして美

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知床半島

地上世界は至る所に不調和、混乱が渦巻いており、私はいつも見ないように、聞かないように、と自分自身のうちに籠って謂わば世捨て人のごとく振る舞うという傾向にありました。私はそのように自分を捉えていました。。

最近あまり聞かれなくなりましたが、ぺシニズム(悲観主義)という言葉があります。厭世主義とも訳されており、この世界は悪と悲惨に満ちたものだという人生観です。

しかし、私はそれとは少し異なります。どういうところがと言うならば、私は世捨て人のごとく生きているが世の中すべてことごとく否定ないしは諦める、ということではないという点です。つまりかすかな希望を抱いていたということになります。

ですから、私はペシミストではありませんでした。

 先日、「ヒグマを叱る男」というドキュメンタリーの総集編とも言えそうな番組を見る機会がありました。皆さんもご覧になった方がおられるかと思いますが、世界遺産“知床”の番屋に漁師として生きる80代の高齢の男性と、そこでヒグマと共存する暮らしを取り上げたものです。以前にも部分的に放映していて視聴してきましたが、この度再度見ることでとても感動しましたので、ここで取り上げたいと思います。 

多い年で年間の観光客数は188万人と沢山の人たちが訪れています。北海道に住む私も当然訪れたことがあります。別の時のブログでも紹介しましたが、私は動物、そして自然が大好きです。若いころは休暇といえばもっぱら登山でした。それも一人で、ということもしばしばでした。そんなときは本当に幸せを感じたものです。

番組では、ある年の知床は鮭の不漁が続き川への遡上もほとんどなく、ヒグマたちは飢えました。歩く力もなく砂浜に横たわり、かすかに頭を動かしています。そうして何頭ものヒグマたちはやせ細り飢え死にしました。その映像は本当に痛々しく、何とか助けてあげたいと思うほどです。しかし、漁師たちはそうはしません。それが自然界の掟だからです。

またある時は、浜辺を親子のヒグマが餌を求めてさまよいます。死んだ鮭を見つけ母グマは夢中で食べます。しかし、意外のことに子には一切与えようとはせず、子グマが口にしたのは母グマの口からこぼれ落ちた、ほんの小さな欠片だけでした。

そうして間もなく、その子グマは飢えて死んでしまいました。母グマは死んだ我が子を丁寧に嘗め回します。そこが山の斜面でしたから、子グマはそのまま転げ落ちてゆきました。母グマはそれを確かめると、静かにその場を去ります。

これはいったいどうしたということでしょうか?人間ならば、母は自分が食べずにたとえ飢え死にしたとしても子供を助けようとするでしょう。

しかし、母グマは自分が、親が、生き延びる道を選択するのです。自然界では親が死ぬと遠からずその子も死んでしまいます。ですから、まずは自分が生きのび、次の子に命を託すのです。それが自然の摂理なのです。実に厳しい掟です。

またもう一つの場面を紹介しましょう。

発情期を迎えた大きな雄グマが母子のヒグマの周りを遠巻きに徘徊しています。こういう時、雄グマは自分の遺伝子を残すためにその子グマを食い殺すことがあります。それで母グマは子を連れて大急ぎで山の奥へと逃げます。しばらくすると雄グマは何処かへ行ってしまいます。海岸でようやく子グマは母を発見し、さかんに甘えます。しかし、母グマは子を邪険に追い払うのです。“子別れ“です。子グマはそんなことを理解できませんから、何度も母グマに甘えて離れようとしません。すると、母グマが驚くべき行動をします。何と、母グマは座って(皆さんはパンダの授乳シーンをどこかでご覧になったことがあるかもしれませんが)あのようなスタイルで子供に授乳したのです。子供は十分におっぱいを飲み終えると、静かにそこを離れてゆきます。こうした場面を見るのは初めてではありません。以前、キタキツネも同じ行動をしていたのを知ってはいましたが、改めて動物たちの行動の神秘さ、気高さは胸を打つものがありました。

動物たちは本能でどうすべきかを知っているのです。「本能」、まさしく全ての創造主であられる神の力のなせる業です。

それにしても、同じ大いなる神の御業である人間のありようは、どうしたというのでしょう。

昨今、幾つかの先進国では子供には家の手伝いなど一切させずに、ただただ勉強だけさせます。生活の知恵は全く身に付きません。大人との付き合いは親と教師のみ、入社試験にも親が同伴します。そして社会人になってゆきます。人との付き合い方が分かりません。どのようにコミニュケートすればよいのか分かりません。当然、営業成績も上がりません。上司に叱られます。すぐにへこみます。翌日から出社してこなくなります。

まったくもって自立しておらず、到底どんな職業でもやっていけないことでしょう。こうして見ると、万物の霊長などと増長して動植物、自然界を支配しようとするなぞ、まったくもって身の程知らずも程がある、と言わざるを得ません。どうして斯くも悲しむべき有様になったのでしょうか?これはほんの一例です。

歴史を通して人間は科学の恩恵により、多くの発見、発明をしてきました。遺伝子を操作し、これまでにはなかった生命体を作ろうとします。また、宇宙への野望に力を注ぎます。科学が全てを解決してくれるかのように思い込み、宇宙を貫く摂理は見ない、聞かないという科学万能主義、さらに自分、自国の物質的利益第一主義に陥り、悲劇と混乱の地球を形成してきました。

今、世界は新型コロナウイルス問題に翻弄されています。これは人間の間違った考え、行為により自然界からのしっぺ返しであると思われます。何が何処が間違いであったのか、間違いは正せねばなりません。自然を敬い、どうすべきかを教えてもらうことにより、解決の糸口が見えてくると思われます。特効薬、ワクチンで問題が解決するようなことではありません。

私が今回、知床を取り上げたのは、なにも自然が驚異に満ちた美しさゆえだけではありません。人間が自然界と調和し、共存するその在りように感銘を受けるからです。ここでの暮らしはまさにそれが実現できているのです。自然はもちろん、言葉では言い尽くされない美しさです。魂を癒してくれる最高の美です。

ドキュメンタリーのタイトルに「ヒグマを叱る男」とあります。ここではヒグマによる事故(人体にたいする被害)は一切起きていません。
漁師たちはヒグマの直ぐ傍で作業をしています。数メートルほどしか離れていません。
彼らヒグマが人間に一定の距離以上に近づくなら「こら!」と叱るのです。するとヒグマたちはそこから離れてゆきます。ヒグマは日本国内では最強の陸上動物で、最も恐れられている存在です。しかし、ここのヒグマたちは人間を襲うことはしません。人間との接し方を、かれらの親たちがそうしてきたように学習して来ているのです。

これらの実態をユネスコの調査団が現地調査で知り、深い感銘を受けた様子も映像に映っていました。
人間と野生動物であっても見事に共存・共生できるのです。私達はここ日本においてもこうした実績を有しているのです。何と力強く、そして希望を与えてくれることでしょう。私は本当にうれしく思います。

初めに、“世捨て人”のごとく生きてきたと書きましたが今は違います。10年ほど前から、私は未熟ながらスピリチュアリストとしての人生を歩んでおります。
スピリチュアリズムとは何か、これに関しては私の第一回のブログに記しました。ここにもう一度簡単に紹介いたします。 

スピリチュアリズムとはイエスを中心とする、地球圏霊界の高級霊が結集して計画された人類史上初めての地球人類救済計画です。それは「霊的真理」を地上にもたらすことにより、「神」「死」「死後の世界」「人生の目的」について知ってもらうことです。それにより、地上世界に悲劇を蔓延せてきた「物質至上主義」「利己主義」から脱却することを目指しているのです。戦争・紛争、発展途上国における飢餓、対する先進国における飽食・美食による肥満・生活習慣病、貧富の格差、環境破壊、動植物への虐待、精神性の凋落等々の地獄の様相からの脱却です。

これなくしては今人類が直面しているコロナウイルスによる災禍、そして上に揚げた数々の悲劇の解決法はないと確信しております。

今回は動物界のみごとな仕組みに神のみ業を見て取ることができました。私達は今こそ、自然界から謙虚になって学んでまいりたいものです。ご一緒にたとえ歩みは遅くとも確実な方法をもって臨みましょう。

 

 

無明の闇からの脱却

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小樽の海

 地上人生にはどうしてこのように悲劇、悲しみ、絶望が渦巻いているのでしょうか。
私たち人類は平和を希求してきたはずです。喜びを得ようとしてきたはずです。真の幸せを願ってきたはずです。それなのに何故にこんなにも願いと現実とが乖離しているのでしょうか?この事実を私達人類は長い歴史の中で、真剣に考えて来たでしょうか?疑問に感じなかったのでしょうか?何を学んできたのでしょうか?
歴史上には人間とこの宇宙に関して真摯に探究してきた人物は存在してきました。それは広く多くの分野におよびます。歴史家、科学者、宗教家、哲学者、教育者、思想家。

歴史の一点に誕生した私自身はどう感じて来たのか。それを振り返ってみます。

私は77年前にこの地上に誕生しました。時は第二次世界大戦最中で首都東京の下町でした。東京大空襲に見舞われました。その時の死者数は10万人と言われています。私はそこで辛うじて生き延びることが出来ました。被災後間もなく一家は親族を頼って北海道に暮らすこととなりました。

他の多くの国民と同様に、戦後の生活はいかにして生き延びるかであり、人間としての高尚な部分などは全く隅に追いやられて、生きることに精いっぱいで動物に近い状況でした。親はそうして子供たちを育てましたから、幼少のころから私は人間とはそのようなもの、と理解してきたように思います。(しかし、こうした体験は動植物とともに在る、自然との共生という存在の最も根源に関する貴重な体験となったと思います。)ただ、幼いながらも今は敗戦後という特殊な状況にある、という認識はあったように思います。

自分がどのように育てられてきたかによって、その人間が出来上がってゆきます。遺伝的要素がその人間を構成してゆくと言うことも事実ですが、それはある程度であり、環境による影響がその人を作る、というのが本当でしょう。
人間は自分の考え方が環境によって大きく影響されてきてしまうのです。人は自分の考えと思っていても、実は周りの、地域社会の、国の、あるいはグローバル化されている現在ではそこで喧伝されていることと自分が同化されてしまいます。人間社会を覆っている金銭欲、物欲、利己主義、争い、欺瞞。その姿が人間である、と信じているのかもしれません。あえて、美なるのも、真実、善なるものを求めない、また、幸せは求めても叶えられない、という諦めの思いが強く人々の心に浸透してしまっているように思います。今さえ良ければそれで良し、お金と美味しいものがあれば其れで良い、といように刹那的な快楽を求めていきます。

人間は己の置かれた環境の中で、得られた知識という限界の中でもがき苦しみながら生きてきたのです。“人間など所詮こんなもの”と考え、自分を納得させてきました。

人間の多くはこうした諦めの中に生き、そして死んでいきました。それでも心底から諦めてしまうことはできなできませんでした。

  • 人間とはいかなる存在か?
  • 何ゆえにこの地上に生まれてきたのか?
  • そして何処へ行くのか?

こうした疑問はどんなに自分自身をごまかしても、完全に打ち消すことは出来ませんでした。そうして、このことを知らない故に、人間は不幸・混乱から抜け出せなくなっているのです。知らなすぎ、無知の深淵にあるのです。
 たったの3つの項目でありますが、この内容は深く且つ膨大です。

長い歴史を掛けて我々人類は少しずつ進化してきました。残虐さはまだまだありますが、民主主義が世界に浸透し、中世の暗黒時代からはほんの少しマシになったといえるでしょう。
そして過去には知りえなかった真実が幾らかずつ理解できるようになったのです。
求める者には真理の宝庫の鍵が与えられます。どのような人物に対してもこの法則は適応されます。学びは少しずつ、着実に進めてゆけば良いでしょう。

「人間の魂には宇宙最大の富が宿されているのです。あなたがた一人ひとりが神の一部を構成しているのです。地上のいかなる富も財産もその霊の宝にまさるものはありません。私どもはあなたがたに内在するその金鉱を掘り起こすことをお教えしているのです。人間的煩悩の土塊の中に埋もれた霊のダイアモンドをお見せしようとしているのです。」      [シルバーバーチの霊訓」(四) p15 スピリチュリズム普及会版   

 ご存じの方もおられると思いますが、上記の文節はスピリチュアリズムを地上にもたらす為に、シルバーバーチと名乗る霊が交霊会で語った一部です。

 続いて同じページの次の言葉はいつも私を勇気付けてくれます。

「できるだけ高いバイブレーションに感応するようになっていただきたい。自分が決して宇宙で一人ほっちでないこと、いつもまわりに自分を愛する霊がいて、ある時は守護し、ある時は導き、ある時は補佐し、ある時は霊感を吹き込んでいてくれていることを自覚していただきたい。そして霊性を開発するにつれて宇宙最大の霊すなわち神に近づき、その心と一体となっていくことを知っていただきたい。そう願っているのです。」

 今私は年齢的・体力的にも多くのことは出来かねます。それでも地上に在るうちは、ほんの少しでも人々の役に立ちたいという願いを持って生きております。どうぞこの拙い文をお読みくださいました皆様が、それに続いてくださるなら、この上もない幸甚に存じます。

 

「生きづらさ」について

             今回は生きづらさ、についてです。

           希望のささやき~ 由紀さおり・安田祥子 - YouTube

生きずらさを大人になってから自覚する場合と、すでに子供の頃からそう感じてきた、という方も多いと思われます。きっかけはいろいろあるでしょうが、幼稚園に行きたくない、あるいはどうしても学校に行きたくない、と不登校になってしまった、さらには何とか社会に出て働き始めたものの馴染めない、ストレスが高じて鬱になり出社来ず、ドロップアウトしてしまう。

社会できちんと仕事をし、生活してはいるものの、周りの人達とは親密になれない、どこか浮いている、親友は一人もいない、何かと問題を起こしてしまうなど困難を感じている場合もあります。

今、不登校・引きこもり、ニートなど社会問題になっています。この社会という現実に馴染めない、違和感を感じる、そのために上記のような現象が起きてしまっているのです。
今、自宅に自室に引きこもっているあなたは、何故そうしているのでしょうか?
他の皆と同じようにどうして学校に行かないのでしょうか?
なぜ会社に行かなで引きこもっているのですか?

 外の世界は危険がいっぱいで自分を傷つける、恐怖、不安、どうして良いか分からない、学校や会社へゆく意味を見出せない、誰も友達はいない、相談する人なんか居ない、更には人間なんて信じられない、そもそも何でこの世に生まれて来たのかさえも判らない。譬え親であっても信じられない。信じられないけれど、自分ひとりでは生きてゆけない、だから取合えず自宅・自室に閉じこもる。

 自分の居場所が何処にもないのです。周りは皆「敵」に見えます。天涯孤独ともいえる状況です。希望が何処にも見出せないのです。できることならこの世から消えてしまいたい、とすら思います。そうして本当にそれを実行してしまう場合があります。でも、ちょっと待ってください、と今私は申し上げます。

私もかって、高いビルの上から身を投げようか、と思ったことがあります。ですが、その時、ふと、屋上から足を離し地面に落ちるまでのホンの0.何秒間に“しまった!早まった!”思ってもすでに取返しがつかない、と思ったのです。それでそれは実行に移すことはありませんでした。そうして今日の私が存在しています。

 人々は実は小さな穴の中、しかも暗く狭く、周囲が全く見渡せない世界に落ち込んでいると言えます。外の世界がどうなっているのかが分かりません。そもそもそこ以外に世界があるということすら理解できません。つまり、”井の中の蛙”です。そこが人生のすべてと思い込み、理不尽なこと、矛盾することがあっても、不満があっても我慢します。身動きが殆ど取れなくてもです。江戸時代の鎖国下にあった我々日本人もまたそういう状況でした。

しかし、それに納得し兼ねる者たちがそこで反旗を翻します。これはおかしい、これが人間のあるべき姿ではない、もっと違う世界があるはずだ、と。

若いかたには「井戸」といものがどういうものかピント来ないかもしれませんね。昔、私の子供時代には、家の前に井戸がありました。まさに”井戸”とはそのような代物です。
ついでですが、「お菊の皿」という怪談を聞いたことはありませんか?
その元となるものは幾つもあるそうですが、お菊という身分の低い女性が主の大事にしてきた皿を一枚割ってしまい、殺され、そして井戸に投げ込まれた、それを恨み、お菊の亡霊が夜な夜な現れる、という話です。井戸は命の水をくみ上げる大切なものであると同時に暗く悲惨なものの象徴とされてきました。

 ところで、引きこもっているあなたは、社会で何事も無いかのように過ごしている多くの方々よりも、むしろ私は立派であると思います。どういうことかと言いますと、それはこういうことです。

世の中は間違い、偽り、欺瞞、無知に満ちているにもかかわらず、井戸の中での生活しか知らないので、それを疑問に思わず、ただ多くの人たちがそうであるので、取りあえず“右へ倣え“形式に唯々諾々と流れに沿って歩いていると言えます。まるでロボットの様です。(最近のロボットは進化していて、かなり自律性を得ているようではありますが)人間とは本当はどうあるべきか、脳はあるが考えていない、目は開いているが見ていない、耳はあるが聞いてはいないのです。狭くそして深く暗い無知の井戸に居続けるのです。しかし、あなたはその誤りに気づいてしまったのです。だから、世間に自分の居場所がなく感じられるのです。

この社会は生きずらい、これは何処かおかしい、変だ、と。周りが変なのか、自分が変なのかわけが分からなくなってしまう。誰かが、あなたをあなたの自室から引きずり出してくれても、そこに光がなければまた同じことの繰り返しになってしまいます。そこはあなたの居場所ではないからです。

ではどうすればよいのでしょうか?

光明を賢明に求め続ること、諦めずに真実を求めること、としか私には言うことは出来ません。それでも真に求め続けるならば天はかならず答えてくださる、と申しあげます。

 次の言葉は、交霊会()での高級霊の祈りの言葉です。『願わくはあなた(神)のインスピレーションを受ける通路(チャンネル)が俗信に捉われず俗物に汚されることなく、彼らをつうじてあなた(神)のメッセージがふんだんに流入して、ますます多くの子らがあなたの真理のイルミメーションの中へ導かれんことを』※数人から十数人の人間が一部屋に集い、霊媒といわれる人物を通して霊界の住人である高級霊の言葉を聞く会を言う。20世紀にイギリスにおいて盛んに行われていた。
シルバーバーチの霊訓――スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ8章)スピリチュアリズム普及会版

『世間でいう“成功者”なるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手にいれたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは、自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると信じたものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。
シルバーバーチの霊訓――地上人類への最高の福音 3章)(スピリチュアリズム普及会版)

 人生は途切れることなく進んでいくように思われますが、時には一休みすることも必要と思います。何か変だな?あるいは疲れた・・・、と感じたときは休憩することが是非とも必要かと思います。

一休みしながら、ゆっくりすることです。そこで自分の人生を振り返ったり、反省したり、心に沁みる本を手にされて読んでください。「シルバーバーチの霊訓」を手にされてください。あるいは外国旅行なども良いかもしれません。

真面目に最短距離で成功を求めるばかりが人生ではないと私は思います。

ゆっくり、着実にときには遊びを入れて。そう楽しんで生きられたらそれは最高です。しかし、楽しみだけの人生など、ありえませんが。

 人生とは山あり谷ありで、喜びは苦しがあって初めて実感できるものだからです。病気をして初めて健康の有難さ、喜びを知るようになるのです。

そして、ここが大切なところとなりますが、そうした苦しみも辛さも、一人では持ちこたえられない、挫折してしまうことがあるのです。

 もう一つ今社会問題となってきている問題に“孤独死“があります
私は孤独死すべてを悲惨であり、なくすべきとは思いませんが、その多くの事例の背景には頼れる身近な人間が居ない、相談することもなく、ひっそりと一人で人生の幕を下ろしてしまうのです。これはやはり悲しいことです。

マザー・テレサはインドの路上で誰に看取られることもなく、息を引き取ろうとする老人の顔を、手を拭いてさしあげました。かたわらに寄り添い、老人を見送ったのです。これはどんなすぐれた行為にも勝る奇特な行為でありましょう。

そしていまも尚、喜びも悲しみも分かち合うことのできる他人がどうしても必要です。子供時代は親が、成長してからは友人、恋人がというふうに、人生には相棒・伴侶が必要なのです。

心から信頼できる他人です。ここがキーポイントです。

うわべだけの人間関係ではだめなのです。私は今一人暮らしです。やはり私はこの世を卒業するとき、心から信頼できる人に見送ってほしいと切に思います。

 人生には互いに信頼しあえる人が必要であるのは、臨終のときだけの話ではありません、生まれてからずっと必要です。ただ、間違えないでいただきたいのは、“ずっと”の意味です。なにも360日24時間いつも一緒、という意味ではありません。身は遠くにあっても心はいつも一緒、といういことです。

 子供は生まれて2~3歳までは親にべったりですが、それ以降ともなると、母親から離れても不安なく遊びに夢中になれます。それは母親が完全に自分を守ってくれている、という確信があるからです。喧嘩をして、あるいはケガをしても泣いて母親のもとへ駆け戻った来ます。母親は絶対なる信頼、安心の根源です。心理学用語では“安全基地”といいます。

 “生きづらさ“を感じて苦しんでおられるとしても、どうぞ諦めないでください。求める者には何時か必ず天は答えてくださることを信じて、どこかに希望の光はないだろうか、と目を凝らしてみてください。耳をそばだててください。手探りしてみてください。これが私からの切なるお願いです。