一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

「死ぬことは怖いか?~私の霊界探訪」

今回は死ぬことは怖いか? という極めて深刻な問題について考えてまいります。

                        f:id:gsirakaba:20200920150052p:plain

私達スピリチュアリストは霊的真理を学んでいますから、人間の本質は肉体ではなく、霊であることを知っています。霊は永遠です。私達は死んでも死なないことを知っています。それなのにある時、死ぬことを恐れている自分に気づきました。

 夢を見ました。

自分が処刑されるために、処刑場へ誘導されて行きます。何人かが見送りにきてくれました。私は笑顔で手を振り、「又ね」と言い歩を進めました。”又ね”というのは霊界でいずれの日にか再び会うことがあるでしょう、という確信があったからです。しかしその時の自分は恐怖そのものでした。私がどの様な罪を犯したのかは分かりませんでしたが、刑に服して処刑されることは受け入れていました。そして私は死んでも生きる、ということも知識としては知っていました。それなのに何を恐れているのでしょうか?目が覚めても、わたしは自分が死を恐れていると認めざるをえませんでした。(ある意味では人間はすべて死を宣告されていると言えます。ここではたまたま罪人であることとされていますが、すべての人間は死を受け入れて今を生きています)

これではスピリチュアリストと自認することが憚れると思いました。
一体どうしてこうなのでしょうか?考えました。

 一般に「怖い」という感情はこの先どうなっていくのか分からないから、知らないから不安、恐怖の念が起こるのです。

私は知識としては死後の世界、死後の生活についてある程度知っていると自分では思っていました。“霊界通信”はいくつもが書籍になっていて、沢山の実例が紹介されています。そこにはかなり詳しく、ありありと情景が描写されています。ですがそれも書物を通しての知識であり、実感を伴ったものとはなっておらず、そういう意味からはやはり“知らない”のです。そこで翌日、“死後の世界、霊界についてもっと実感の伴う方法で教えてください”と守護霊にお願いして就寝しましたところ、早速その夜に次のような夢で、“霊界探訪“をすることが出来ました。昨日に続き二日間に亘る霊界探訪です。

 訪れたそこは、薄暗く殺伐としていて、人影も殆どなく寂しい所です。医療現場か、研究施設のようなところで、一人の人間が横たわっています。その女性(らしい)は全身のあちこちに巨大な褥瘡が出来ており、そこを最新の医療技術で修復手術を施してあります。あちこち赤黒く変色しており無残な姿です。そして何故かその女性は生きたまま体を切り刻まれてゆきます。(私は医療者でありましたから、このように解りやすい場面を見せつけられるのだと思います)

別の部屋では40歳ぐらいの女性が入院していますが、何ら適切な処遇は受けておらず消されてしまいます。その後片付けも出来でいないうちに、次の患者が入院してきます。若い男性の患者で、不安そうに当たりをきょろきょろしています。この人も間もなくいなくなってしまいました。一体どこへ消えてしまったのかは分かりません。

超高齢で一見老賢者ともいえそうな人物が見えます。ここは病院というよりは高齢者の施設の様です。ここにはこの人物以外には誰一人姿は見当たりません。彼は誰かを待っているようです。やがてそこにある人物が現れ、なにやら話し合いっていましたが、相手に翻弄されたあげく、彼もまた何処かに消えてしまいました。

また、身ぎれいな高齢の女性がいます。育ちも良く教養も高そうです。彼女もまた、迎えに来た何者かによって何処へやら連れ去られてしまいました。

ここは騙しあい、策略、殺掠の横行するところで、それ以外は何も残っていないのでした。まさに地獄とはかようなところか、と納得がゆきました。最後には、私自身が30~40代と思しき男性と一騎打ちの戦いとなり、私は辛うじて勝利しました。そこで目が覚めて地上世界へ戻りました。

以上が夢の内容の要約です。

昨晩、“霊界の実態を実感をもって知りたい”と守護霊にお願いした結果、連れられて行ったところが幽界の最下層、地獄とも言える所(ここからが地獄ですよ、というような境界線などは存在しない、同じような低い霊たちが自然と集まる)だったのです。想定外でした。私は美しく、喜びや、安心・安らぎの満ちている階層を想定していたからです。しかし、結果は真逆でした。地獄を見せられました。これは一体どういうことか?

守護霊は私に何を悟れというのかと訝りましたが、直ぐに理解できました。

それはこうです。

「お前は(あなたは)自分が安心したい、喜びを得たい、というのが動機である。しかし、それは利己愛であり、永遠の摂理である利他愛の真逆にある。その次元にいるお前をその境涯へは到底連れてゆくことは出来ない。見せられない。まずは、苦しみと不幸の境涯に永遠ともいえる長い間、そこに留まる哀れな同胞を見るが良い」ということのようです。

このように、守護霊が直接に言葉を発したわけではありません。そのように私は理解したということです。

かれらは殺し合い、騙し合い、失望という地獄に何百年、何千年と閉じ込められている魂なのです。暗く、冷たく、寂しい荒涼とした世界で蠢いて暮らすのです。殺されても死なないのですから。かれらは地上生活の時は、地位や身分も卑しからぬ存在で、それなりの尊敬をも享受していたかもしれません。教養もあり、立派な人物とされていたかもしれません。
それなのに、霊界ではこのように幽界の最下層の地獄とも言えるような境涯で苦しんでいるのです。
この事実を知ったものは、己の喜びや心の安らぎを最優先に求めてはならないのです。なににも増して優先すべきは彼らの魂の救済です。永遠とも言えそうな地獄からの救済です。そして、今地上で人生を送っている70数億の大勢の人々は、これから霊界にゆくわけですが、これらの人々も救済されなければなりません。この人々が地上では勿論救済され、幽界でも地獄へ赴くことなく、順調に霊界生活に順応していっていただきたいのです。

私達は持てる全ての力をふり絞って霊的真理の普及に尽力しなければなりません。この度の霊界探訪は私に以上のことを教えてくれました。
美しいもの、喜び、安らぎはその先に用意されているはずです。その時の楽しみとしてとっておきます。

「死ぬのが怖い」ということは知らないからだ、ということも勿論あるでしょう。が、それよりも寧ろ「今、やるべきことをー真理の普及」を第一にして生きてゆけば、その途中で死んでも一切の心残りは生ぜず、また不安も恐怖も生じないことと思われます。それが出来ていないから恐怖を覚える。こちらの方が主なる理由と言えるかもしれません。

「死」は自然現象です。肉体をもっての地上人生は学びのための一時的に過ごす場所、旅における一時的な逗留の場です。ですから、その学び・仕事を終えるなら、そこにそれ以上留まる必要はありません。ですが、そこでいう「死」は自然死であって、「処刑」は含まれません。夢では私は「処刑」です?

もしかしたら、私は「自然死」であるならば、恐怖は感じなかったかもしれません。

「刑死」が問題であったかも知れないのです。「刑死」これは自分が何か誤りを犯したということなのです。それが何かは解りませんでした。あるいはそれとは異なり、イエスの十字架上の死、殉教者の死、ソクラテスの死、現代でいえば職務上の死、すなわち殉職ということも考えられます。すなわち、罪にたいする罰としての処刑ではない、ということです。私には解りかねます。殉教者の死であるならそれは恐怖ではなく、喜んで処刑されるでしょう。解らないから、恐怖を感じたのかもしれません。本来ならば喜びをもって死んでゆけるのに、です。

ただ今、分かることと言えば、私は未だやるべきことを一心不乱に取り組んでいないということのようです。実際、今だ解決できず気になっている課題があるとの自覚があります。このことを理解することができました。更なる努力を模索してまいります。霊界と守護霊にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

一心不乱に取り組むことです。

これを今日の結語といたします。