一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

ヨーガからスピリチュアリズムへ

       インドヒマラヤ に対する画像結果

令和三年、明けましておめでとうございます。

昨年は世界中が大変な年で明け、終わりました。政治も経済も、私達の生き方をも左右したともいえる状況でした。

この様な時こそ、私達は何が一番大切なことなのか、どう生きなければならないのかを明らかにし、様々な情報という雑音に惑わされることなく、しっかりと腰を据えてまいりたいと思います。

 私はスピリチュアリズムを知る前はヨーガを学んでいました。
20年ほど前のことになります。

インド中央政府公認のスワミ・ヴィヴェーカナンダ・ヨーガ研究財団による日本でのヨーガ・インストラクター/セラピスト養成講座を修了しました。

卒業後は看護師であるということもあって、クリニックで病気の人を対象としてヨーガ療法を指導していました。

            ヨーガ画像 に対する画像結果

その間、インドでのヨーガ修行にも参加し、それはそれで楽しい日々でした。 

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      高度4000mでのヨーガ修行               背景はヒマラヤ山脈
ここで少しだけ、ヨーガについて解説をしましょう。
以下は私のYTIC卒業論文(2002年)からの抜粋です。

ヨーガの疾病概念

ヨーガでは健康と不健康とは全く異なる二つのものとしてではなく、健康とは個人のよりよい状態を表す一連の連続した機能であることを表している。

そして低いレベルを病気と言っているのである。

私たちは日常、さまざまなストレスに曝されているが、意思鞘における「好き・嫌い」の感情が増大し苦痛を感じる。ストレスはこうした心の状態を引き起こし、「アーディ(無知)」と呼ばれる状態になる。強い怒り、欲望、恐れ、嫉妬などで、自己制御不可能になると、身体の機能、及びプラーナの流れに著しい変調を来たし、身体は機能を発揮出来なくなる。こうした意思鞘の不調和は肉体レベル、すなわち食物鞘にまで影響を及ぼす。従ってストレスを上手にコントロールすることで、肉体、感情、プラーナの不調和を正すことが可能となるのである。

 ヨーガの人間観

伝統的なヨーガ、及びウパニシャッド聖典では人間存在を『五蔵説』によって説明している。第1番目は最も粗雑な肉体レベル「食物鞘」であり、その次は「生気鞘」と呼ばれ、生命活動の根源であるプラーナによって支配されている。

3番目は「意思鞘」と呼ばれる心理的次元で、認知、分析、記憶、そして感情の働きといった心の機能を担う。4番目の「理智鞘」は識別能力、判断能力という性質を持ち、人間本来の特性との同調、つまり、完全なる健康状態を目指した人間的行動を遂行するという役割を持つ。「歓喜鞘」では、人は完全なる調和状態で自身が持つ全能力のバランスを保つことが出来、この状態は完璧なる制御能力、歓喜、そして不安を持たないといった性質によって特徴づけられる。

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               (ウパニシャッド聖典より)

ある日、同僚のヨーガ教師が教室に「シルバーバーチの霊訓」を持参してきました。それを横目で見た私は“私にもそれを読ませてください!”と叫びました。 2冊借り、自宅へ帰るとそのまま貪るように読みました。本当に驚きでした。そして残りの10冊(潮文社刊~現在は廃業)を直ちに取り寄せ読みました。なんとそこには私の若い頃からの疑問の全てに対し応えがなされていました。

それからもしばらくはヨーガの指導をしていましたが、徐々に心不全が進行し、続けることが出来なくなりました。

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 ヨーガはインド5000年の叡智を有し、身体及び精神・魂を健やかに保つための数々の訓え・メゾットがあります。ただ、最も重要である霊的真理の核心部分の理解には至っておりません。
それでもヨーガは私にとって霊的真理の理解の為の貴重な入口となったことは事実であります。スピリチュアリズムと出会うのはたまたまや偶然ではありません。人それぞれ何らかの出来事・体験が契機となります。私の場合はヨーガによって深く眠っていた魂が揺り動かされ、目覚めへと導かれたのです。これまでは知ることの出来なかった心の深い世界、霊的世界への入り口となったのです。沢山のヨーガの知識そして体験を省略しての真理の理解はなかったであろうと今でも思っています。

このように人生で出会う様々な出来事、そして体験は実はとても意味があり大切なのです。どんな時も、目の前に現れた事象には全身全霊で当たることです。一生懸命であるということです。そうして時が来れば必ず、次なる段階へと導きがあることを私は断言いたします。

あなたに新しい展開が、喜びの時が来ることを心より祈念いたします。

 

 

モラハラについて

f:id:gsirakaba:20201121130643p:plain昔、看護学校で教員をしていた時にパワハラを受けたことがありました。そこでの体験は凄まじいものでありましたが、最近パワハラならず、モラハラについて考えさせられることがありました。この度、それについて何某かを学ぶことが出来ました。それにより気持ちがすっきりといたしました。それを以下に述べてまいります。

  モラハラとはモラルハラスメントの略で、身体的暴力ではなく、言葉や態度といったモラルによる精神的苦痛を相手に与える、DV(ドメスティックバイオレンス)の一種です。

倫理や道徳といった意味を持つ「モラル」と嫌がらせという意味を持つ「ハラスメント」を合わせた言葉です。つまり倫理や道徳に反して相手に嫌がらせを行うことを指します。
職場や家庭など、大人同士の間で起こる事が多く、無視や暴言、わざと不機嫌に振る舞ったり嫌がらせをする、といったことが多いようです。また相手を必要以上に責めたり、無理難題を押し付けたりし攻撃することで、精神的に深いダメージを与えます。モラハラは相手を侮辱し軽蔑して尊厳を傷つけます。される側は傷つき自信を失い、自己嫌悪にさえ陥ります。そしてモラハラをする側は意図しないうちにそうした言動をする事がしばしばです。自覚がないのです。相手を傷つけているということに無自覚なのです。

次に何故モラハラが行われるのか?その心理をさぐって見ましょう。

そもそも、モラハラを行う人の基本的考え方は、「悪いのは相手であって自分ではない」というものですから、相手を傷つけている自覚がなく、当然謝罪の気持ちは持ちません。さらに「相手よりも優位な位置に居たい、上の立場で居たい」のです。

 そしてモラハラをする人の特徴・傾向とはどのようなものでしょうか?
・相手によって態度が大きく変わる――家庭や職場以外の場所ではボロをださない。
・古くからの友達が居ない――本当の姿を知っている人から距離をとられている。
・かって自分もモラハラを受けた――コンプレックスや自己嫌悪の感情を解消できていない。
・口下手でコミニュケーションが下手。

 そしてモラハラをされる側の特徴・傾向は
・自己主張が弱く、自分の意見を我慢してしまう。
・場の空気を読みすぎる――相手がイライラしていると、それを察知し言いたいことを飲み込んでしまう。反論しない。気を使いすぎて相手を助長させてしまう。
・真面目で責任感が強すぎる――自分よりも相手を優先することが癖になっていて、何かあれば自分のせいと悩み込む。
・自分に自信がなく、自己肯定感が低い。                               

 以上のようにモラハラの実態を調べて思うことは、本当に自分はモラハラを受けるには十分な要素を持っているなあ~という驚きと感慨にも似た想いでした。
決してそのままの心の姿勢であってはいけないと思いました。が、見方をかえれば愛すべき傾向でもあります。次の二点はどうでしょうか?
・場の空気を読みすぎる――相手がイライラしていると、それを察知し言いたいことを飲み込んでしまう。反論しない。気を使いすぎて相手を助長させてしまう。
・真面目で責任感が強すぎる――自分よりも相手を優先することが癖になっていて、何かあれば自分のせいと悩み込む。

場の空気を読む事―これは必要なことと思います。ただ、読みすぎはいけません。なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとしです。そして、真面目で責任感は大切ですがここでも強すぎはいけません。
何事も問題が生じたときは、何らかの対処が必要となります。
モラハラを受けた時の対処法とはいかに?

幾つかの方法があるようです。
・まず相手の言動がモラハラであることを毅然と伝える。
それにより、自分がどんな気持ちになったか、どんなふうに傷ついたかを具体的に伝える。
・自分に非がない場合は謝らない。
場を早く収めたいがために直ぐに謝ってしまうなら、逆効果となります。こうすることは、相手に「やっぱり自分が正しい」と思わせてしまうからです。相手の言い分が理不尽なときには絶対に謝らない、モラハラに屈しないという態度をとる。 
その他では状況により証拠を取り保存する、周りに助けを求める、別居、離婚する、などがあるようです。

今回はモラハラについて学んだ事を述べてみましたが、日常生活とはこうしたことを含めて、揉め事・争い、そしてさまざまな葛藤の連続です。

私は未熟者ながら、スピリチュアリストを自認しております。しかし霊的真理を知ったからと言って悩みは解消され何の問題もない、ということではありません。寧ろこれまで知らなかったこと、封印してきた問題が明らかになったことで、葛藤はよりシビアになったとも言えます。

地上人生は霊的成長のために存在しますから、何となく抱えていた問題・課題が浮き彫りとなり、“対処せよ“と迫ってくるのでしょう。

そういう意味ではスピリチュアリストの人生はシビアな人生なのです。安穏と気ままな暮らし、問題があっても見ないふり、ということは出来ません。
だからと言ってしり込みをしていてはなりません。私達は愛と希望と喜びをこの地上世界にも実現させるべく歩んでいます。実に意義ある人生です。そのためには多くの苦しみ・葛藤があってもそれはむしろ有難いことなのです。喜んで受け入れてまいります。これがスピリチュアリスト人生なのです。

今回もこうして学ぶことが出来ましたことを深く神に感謝しています。

心の闇~うつ病を考察する


f:id:gsirakaba:20201028131631p:plain 現代人の多くは心の奥に闇を抱えて生きているように思えます。何となく気分が沈み、毎日が辛い、何をするのも億劫だというレベルから、表面化しすでに身動きのとれない状況に陥っている場合などがあるでしょう。ここではうつ状態うつ病の症状をいちいち挙げませんが、多くの人たちが苦しんでいます。

ではどれ位の人たちがそのような状況にあるのかを統計から見てまいりましょう。
     うつ病の総数のデータをここに上げます。

     H02年 23.1万人   H11年 33.5万人    H23年 70.1万人

      (うつ病患者数の推移~平成23年「患者調査」厚生労働省大臣官房統計情報部より)

これは単純に“増加した“というだけではなく、すでに発症していたが医療機関を受診しなかった人が受診するようになったという背景があります。

それでも、この数値は医療機関を受診した人だけを拾い上げたものであり、実際はさらにかなりの人数に上るものと思われます。そして有病率は6.7%で、15人に一人は生涯に一度は罹患する可能性を指摘しています。先にも述べましたように、うつ病は年を経るごとに増加の一途をたどっています。

また、精神科の病院は他の診療科と比較して断トツに増加しており、1978年から比較すると、2016年には2.52と倍以上の増加です。このことからもいかに精神を病む人たちが増加して来たかが伺い知ることが出来ます。

 “うつ”の原因は何か?ということは非常に気になるところであります。
一般的にはストレスから来ると言われています。ストレスの元になるものをストレッサーと言いますが、それにはどのようなものがあるでしょうか。

        内的ストレッサー                 外的ストレッサー

 心理的ストレス 

 不安・怒り・緊張
 憎しみ・寂しさ
 自己肯定感低
 自信のなさ

 

 物理的ストレス

 季節温度差
 薬物・騒音・悪臭

 身体的ストレス

 疲労・怪我・疾病
 不眠・健康障害

 社会的ストレス 

 人間関係
 経済状況
 職場環境
 学校関係

 このようにストレッサーとなるものは多々ありますが、これらをストレスと感じるかどうかは人様々です。そしてストレスの解消法については一般的には次のようにも言われています。
1. 生活リズムを整える
2. 運動をする
3. 美味しいご飯を食べる
4. リラックスできる場所を見つける・・・など

そして現在の治療法は以下となっています。   

休養、抗うつ薬などの薬物療法認知行動療法などの精神療法とされています。何故か運動療法は積極的に推奨されていないようです。しかしようやく近頃になって“うつ“は”生活習慣病“という認識も一部では出始めていて、運動の効果が見直されてきているようです。

1. 血流が良くなり脳が活性化される
2. 気分転換になる
3. 満足感・達成感が得られる

などが期待されるからです。

 では次に、ストレスとメンタリティについて考えてみましょう。
先に「ストレッサーとなるものは多々ありますが、これらをストレスと感じるかどうかは人様々です」と書きましたが、本当にそのように思います。
ある人には全く問題にもしないようなことが別の人には大きなストレスとなる、ということは大いにあります。そこで職場では「職場でへたこれないメンタルトレーニング」なるものが盛んに取り入れられています。職場での生産性の向上に向けたもの、モチベーションの向上、これらはまず“目標の設定”を上げています。目標を明確にしてやる気を出させるというものです。しかし、ここでの目標とは会社であるならばそこでの業績のアップが目標であって、本人の生きる目標とは異なることに気づかねばなりません。会社の目標=あなたの目標ではないのです。
ストレスマネジメントとしてリラクゼーションの方法や仕事から離れた趣味を持つこと、相談することの効用、中にはヨガや瞑想の指導なども行われています。

どのような病気でも言えることですが、調子の悪いときは医療機関を受診し、医師の診断を受けることは大切です。
それだけではなく、可能ならば(自分の行動・考えをある程度コントロールできる状態にあること)生活リズムの改善など自分で出来ることを行うのも大切です。そしてとても大切なこととして信頼できる人を持つことが挙げられていますが、そもそもうつになりやすい人は、真面目・几帳面・融通が利かない・思い込みが激しいなどの傾向にあり、友人を作れず信頼できる人が出来にくいという傾向にありますから、なかなか難しいところであります。
また、ある研究者が言っていますが、うつになりやすい人は「自己洞察力が低い」と指摘しています。これはどういうことかと言うならば、自分や物事を正しくとらえられないということです。たとえ自分が相当に疲れているのに、“大丈夫です”と答えたりします。そして状態がかなり悪化してから初めて気づき大ごとになるという具合です。
こういう人には“アウトプット”が有効であると言います。
「書く」「話す」「行動する」などで自分自身の内面を観察できるようにするのです。これらの働きかけにより、当座の効果は期待出来ます。私自身も一時全く元気を失い、やる気のスイッチが入らず、何もしたくないという時期がありました。仕事には重い足を無理に引きずってゆき、休日はなにもせずジッと自分の部屋へ引きこもっていました。そんな時に何とか少しでもエネルギーを補充すべく、すぐ目の前にあるスーパーへ買い物に出ます。体を無理にでも動かすことで、やっと少し元気を取り戻すことができたという経験があります。ですから、私は誰かが元気をなくしていると見たときには「スーパーへ買い物に行ってきたら良いよ」と声を掛けます。これは体を動かすことと、さらに他人とほんの一言であっても会話をする、という行動が功を奏するのです。

しかし、これはまだ根本的な問題解決にはならないのです。そもそも、“自分は何のために生きているのか”、という問題を無視して上辺だけの取り組みではどうにもならないのです。何のために生きているのかそれが解らない、そうなると働くことの意味も見い出せなくなります。まさにうつ状態うつ病になります。
そういう意味から現代人の多くは、“うつ病予備群“ということが出来るでしょう。

  以前、私が病棟婦長をしていた時のことですが、あるスタッフが「今日は調子が悪くて勤務できません。休みます。」と電話してきます。当日ですから、人員確保に別の人を呼び出すというわけにもゆかず、一人欠員のまま仕事が始まるということになります。このスタッフは、しばしばこうして突然の欠勤をします。
私はその後転勤になりましたので、そのスタッフがその後どのようになったかの情報はありませんでしたが、別の例では結局退職し他院で働き始めるということを繰り返します。別の所へ移動するたびに、条件の悪い所になります。いわゆるブラックといわれるような職場に落ちてゆくのです。どうしてこうなるのか、採用する側はその人の前歴を見ます。そしてまともなところは採用しません。そうしているうちに、その人は段々に自信を消失してゆくことになります。そうしてついにはどのようなところであっても働く事そのものが出来なくなってしまうのです。たとえ看護師という資格を有していたとしてもこのような現実があるのです。
看護師だけではありません。どのような人にも起こる現実なのです。働けない、社会に順応できない、人間関係をうまく構築できない、という深刻な状況です。
日本を始め先進国では、医療・衛生・栄養状態が向上し長寿が可能となり、今や人生100年の時代などと言われており、確かに身体面では長足の進歩が見られます。しかし、精神面や霊的な視点から見るならば、それは衰退ないしは退廃ともいえる状況にあるといわざるをえません。多くの人たちが精神的、霊的に苦しんでいるからです。これは明らかに精神・霊と肉体の調和を欠いた状態であり、何とかせねばならないのです。苦しみの、病の原因を探り取り除かねばなりません。

調和を欠いた状態、とはどう言うことか・・・?
反対に調和のとれた状態とは・・・?
ここに最も根本的な「人間とはいかなる存在か」という命題を明らかにしなければならなくなるのです。
つまり、今は病気(霊、精神、肉体の)である、では病気を治すとはどのような状態にするのか?言い換えると、本来の姿ではないのを本来の姿にすることです。
一体、人間の本来の姿とはいかなる姿か?
生きる目的も知らず、自分とは誰なのかを知らず、ただ惰性で生きる姿が人間の本当の姿か?そうではありません。これまでの生き方のどこがどう間違っていたのかに気づき、修正してゆかねばなりません。
そのためには知らなければなりません。無知のままであっては改善は出来ませんし、当然進歩・向上は出来ません。問題の解決はあり得ません。一時の表面上の手当は、先に述べましたようにいろいろ工夫され実践もされてきています。そうした姑息的な手段をくりかえしていても未来は見えて来ません。

スピリチュアリストの立場からは、だからこそ霊的真理を知りそれを実践に移すことが求められている、と申し上げるのです。霊的真理は永遠の真理です。
そして、これは”他人のために生きる”ということを訓えています。ちょっと考えてみてください。何か人に親切にしたとき、されたその人は喜びます。すると自然にあなた自身も嬉しく、幸せを感じるのではないでしょうか?
自分中心主義からは幸せはやって来ないのです。他のために生きることこそが、本当の幸せを感じることが出来ます。人は利己主義を脱却して利他主義に変わらなければ救いはないのです。

うつに苦しんでいる人も自分のことはちょっと横に置いて、何か一つでも他人が喜ぶことが自分でも出来ることはないか?と探し求めてみてください。ここがあるいは突破口になるのではないでしょうか?

今、現に苦しんでいる人には何らかの手助けは是非とも必要です。私はそれを否定する気持ちは毛頭もありません。相談に乗りたいと思います。できることがあれば手を差し出したいと思います。一緒に苦しみから脱却しょうではありませんか。

同じ地球に同じ日本に同じ時期に生まれ合わせた縁です。お互いが出来る限りの支えあいを実践してまいりましょう。これが今の私に言える事です。

 

魂の目覚め

 

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このブログの第一回ではスピリチュアリズムとは何か、について述べました。ここでもう一度取り上げ、振り返りましょう。

スピリチュアリズムとはイエスを中心とする地球圏霊界の高級霊達が結集して計画された人類史上初めての地球人類救済計画です。それは「霊的真理」を地上にもたらすことであり、地上人が理解し受け入れることを目的にした大プロジェクトであります。地球人類は長きに渡って「神」「死」「死後の世界」「人生の目的」について全くの無知に置かれてきました。あらゆる宗教、思想もこれらについて明確に答えることが出来ずにきました。その為、人類は数々の悲劇のうちに過ごさざるを得ませんでした。
そして「物質至上主義」「利己主義」に陥り、地球に悲劇を蔓延させて来たのです。
戦争・紛争、発展途上国に於ける飢餓、対する先進国における飽食・美食による肥満・生活習慣病、貧富の格差、環境破壊、動植物への虐待、精神性の凋落等々、正に地獄の様相を呈するようになったのです。

 スピリチュアリズムは宗教の観点から見ると、これまでの全ての宗教を凌駕する宗教、超宗教であります。つまり宗教革命なのです。そして個人には真の救いをもたらすものということになります。つまり、一人ひとりの救いと全世界の救いをもたらすもの、と言えます。世界は一人ひとりの人間により構成されていますから、一人ひとり個人の救いなくしては全世界が救われる、ということにはならないのです。

 それでは人類の救いとは何でしょうか?
そもそも人間とはいかなる存在であるか?何のためにこの地上に誕生してきたのか?死んだらどうなるのか?死後の世界は存在するのか?こうした最も根源的な問題を究明することを私達は永い間疎かにしてまいりました。ですから、人類の不幸は依然として延々と持ち越されてきたわけです。私達人間は神の分霊であります。故に本質的には神の神性・属性を持ち合わせています。が、あまりにも永きに亘り霊的真理から切り離されてきたために、神から譲り受けた神性・属性は魂の奥深く押し込められ、眠った状態に置かれてきたのです。

 スピリチュアリズムはこの眠ったままの魂を揺り起こすべく、霊界から私達地上人にもたらせれたのです。
「魂の目覚め」「魂の新生」です。
そうは言っても、現実には地上人の多くは「そもそも自分は何ゆえに救われなければならないのか?」「救いなど必要としていない」というふうに言います。本当にそのように思っているのでしょうか・・・。

しかし、片方ではさまざまの問題を抱え苦しんでいる人々が存在します。生きる意味を見出せない、信仰している宗教はどこか腑に落ちない、働けど働けど生活は苦しくなる一方だ、家庭の問題が絶えず生じている、なぜ自分はこんなにも次々と病気に見舞われるのか、どうして自分はこんなに酷い事故・事件に巻き込まれるのか?、このように様々な困難・苦難が押し寄せてまいります。

しかし、実は眠っていた魂が目覚めるのはこの時なのです。そうして世界は今、新型コロナウイルス問題に困惑し翻弄されています。沢山の死者が出ています。人々はパニック状態になっています。これに伴い経済問題は深刻です。

先日、テレビで「2012」という映画を見ました。”世界の終わりーハルマゲドン”の到来を物語ったものです。これを見て今現在の世情を重ね合わせた方も居られたことでしょう。

困難・問題、不幸は誰にとってもあまり歓迎しないことであります。が、しかし、深く眠りこけている魂を揺り動かす、目覚めさせるには並大抵のことではないのです。荒療治ともいえるような厳しく辛い体験を経て始めて、これまで見いだせなかった光明に気づくことができるようになります。絶望のどん底に落ちて初めて目が覚めるのです。地上的な努力だけでは、物の世界には真の慰めとなるもの、希望を与えてくれるもの、魂を鼓舞してくれるものがないことを悟った時に魂が目を覚ますのです。

辛い人生行路は「霊的真理」という目標に到達するための巡礼の旅であったというわけです。

シルバーバーチの霊訓(二) (スピリチュアルズム普及会版) P196には次のように書かれています。

スピリチュアリズムの全目的とは、人類の魂を呼び覚まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体何か、誰なのか、を知ることによって、普段の日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することが出来るよう導いてあげることです。

 続いて同じページには

神の子が享受すべく意図されている本来のもの―気高さ、崇高、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。

とあります。私達がその人格に備えるべく資質は本当に高貴な特質ばかりです。
私は密かに思いました。そこに温かさ、優しさが加われば嬉しいのだが・・・と。でもそれって極めて人間的すぎるでしょうかね。

 シルバーバーチが挙げた本来の人間の備える資質は本当に素晴らしいものばかりです。さて、私自身はどうでしょうか?あなたご自身はどうでしょうか?

高貴さ、どうでしょうか・・・。

美しさ、これは?

そうです、どれ一つとってもまだまだ目標は遥か遠くに感じられますが、しかし、気落ちすることはありません。何しろ、目標は明確に示されていますので、いつも忘れずに、意識して物事に接することです。それ以外に魔法の小槌はありませんので。

私達にはすでに光明が与えられています。あとは勇気をもって志を同じくする同志と励まし合い進むだけです。何事も成就するためには時間と忍耐を要します。巡礼の旅はまだ始まったばかりなのです。これで完璧、という段階は永遠にやってきません。

例えそれが辛い道程であっても、明るい未来への道であることを知っていれば耐えることは出来ます。むしろ喜びを持って歩めることでしょう。あなたが一層の光明を見出すことを祈ります。

「死ぬことは怖いか?~私の霊界探訪」

今回は死ぬことは怖いか? という極めて深刻な問題について考えてまいります。

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私達スピリチュアリストは霊的真理を学んでいますから、人間の本質は肉体ではなく、霊であることを知っています。霊は永遠です。私達は死んでも死なないことを知っています。それなのにある時、死ぬことを恐れている自分に気づきました。

 夢を見ました。

自分が処刑されるために、処刑場へ誘導されて行きます。何人かが見送りにきてくれました。私は笑顔で手を振り、「又ね」と言い歩を進めました。”又ね”というのは霊界でいずれの日にか再び会うことがあるでしょう、という確信があったからです。しかしその時の自分は恐怖そのものでした。私がどの様な罪を犯したのかは分かりませんでしたが、刑に服して処刑されることは受け入れていました。そして私は死んでも生きる、ということも知識としては知っていました。それなのに何を恐れているのでしょうか?目が覚めても、わたしは自分が死を恐れていると認めざるをえませんでした。(ある意味では人間はすべて死を宣告されていると言えます。ここではたまたま罪人であることとされていますが、すべての人間は死を受け入れて今を生きています)

これではスピリチュアリストと自認することが憚れると思いました。
一体どうしてこうなのでしょうか?考えました。

 一般に「怖い」という感情はこの先どうなっていくのか分からないから、知らないから不安、恐怖の念が起こるのです。

私は知識としては死後の世界、死後の生活についてある程度知っていると自分では思っていました。“霊界通信”はいくつもが書籍になっていて、沢山の実例が紹介されています。そこにはかなり詳しく、ありありと情景が描写されています。ですがそれも書物を通しての知識であり、実感を伴ったものとはなっておらず、そういう意味からはやはり“知らない”のです。そこで翌日、“死後の世界、霊界についてもっと実感の伴う方法で教えてください”と守護霊にお願いして就寝しましたところ、早速その夜に次のような夢で、“霊界探訪“をすることが出来ました。昨日に続き二日間に亘る霊界探訪です。

 訪れたそこは、薄暗く殺伐としていて、人影も殆どなく寂しい所です。医療現場か、研究施設のようなところで、一人の人間が横たわっています。その女性(らしい)は全身のあちこちに巨大な褥瘡が出来ており、そこを最新の医療技術で修復手術を施してあります。あちこち赤黒く変色しており無残な姿です。そして何故かその女性は生きたまま体を切り刻まれてゆきます。(私は医療者でありましたから、このように解りやすい場面を見せつけられるのだと思います)

別の部屋では40歳ぐらいの女性が入院していますが、何ら適切な処遇は受けておらず消されてしまいます。その後片付けも出来でいないうちに、次の患者が入院してきます。若い男性の患者で、不安そうに当たりをきょろきょろしています。この人も間もなくいなくなってしまいました。一体どこへ消えてしまったのかは分かりません。

超高齢で一見老賢者ともいえそうな人物が見えます。ここは病院というよりは高齢者の施設の様です。ここにはこの人物以外には誰一人姿は見当たりません。彼は誰かを待っているようです。やがてそこにある人物が現れ、なにやら話し合いっていましたが、相手に翻弄されたあげく、彼もまた何処かに消えてしまいました。

また、身ぎれいな高齢の女性がいます。育ちも良く教養も高そうです。彼女もまた、迎えに来た何者かによって何処へやら連れ去られてしまいました。

ここは騙しあい、策略、殺掠の横行するところで、それ以外は何も残っていないのでした。まさに地獄とはかようなところか、と納得がゆきました。最後には、私自身が30~40代と思しき男性と一騎打ちの戦いとなり、私は辛うじて勝利しました。そこで目が覚めて地上世界へ戻りました。

以上が夢の内容の要約です。

昨晩、“霊界の実態を実感をもって知りたい”と守護霊にお願いした結果、連れられて行ったところが幽界の最下層、地獄とも言える所(ここからが地獄ですよ、というような境界線などは存在しない、同じような低い霊たちが自然と集まる)だったのです。想定外でした。私は美しく、喜びや、安心・安らぎの満ちている階層を想定していたからです。しかし、結果は真逆でした。地獄を見せられました。これは一体どういうことか?

守護霊は私に何を悟れというのかと訝りましたが、直ぐに理解できました。

それはこうです。

「お前は(あなたは)自分が安心したい、喜びを得たい、というのが動機である。しかし、それは利己愛であり、永遠の摂理である利他愛の真逆にある。その次元にいるお前をその境涯へは到底連れてゆくことは出来ない。見せられない。まずは、苦しみと不幸の境涯に永遠ともいえる長い間、そこに留まる哀れな同胞を見るが良い」ということのようです。

このように、守護霊が直接に言葉を発したわけではありません。そのように私は理解したということです。

かれらは殺し合い、騙し合い、失望という地獄に何百年、何千年と閉じ込められている魂なのです。暗く、冷たく、寂しい荒涼とした世界で蠢いて暮らすのです。殺されても死なないのですから。かれらは地上生活の時は、地位や身分も卑しからぬ存在で、それなりの尊敬をも享受していたかもしれません。教養もあり、立派な人物とされていたかもしれません。
それなのに、霊界ではこのように幽界の最下層の地獄とも言えるような境涯で苦しんでいるのです。
この事実を知ったものは、己の喜びや心の安らぎを最優先に求めてはならないのです。なににも増して優先すべきは彼らの魂の救済です。永遠とも言えそうな地獄からの救済です。そして、今地上で人生を送っている70数億の大勢の人々は、これから霊界にゆくわけですが、これらの人々も救済されなければなりません。この人々が地上では勿論救済され、幽界でも地獄へ赴くことなく、順調に霊界生活に順応していっていただきたいのです。

私達は持てる全ての力をふり絞って霊的真理の普及に尽力しなければなりません。この度の霊界探訪は私に以上のことを教えてくれました。
美しいもの、喜び、安らぎはその先に用意されているはずです。その時の楽しみとしてとっておきます。

「死ぬのが怖い」ということは知らないからだ、ということも勿論あるでしょう。が、それよりも寧ろ「今、やるべきことをー真理の普及」を第一にして生きてゆけば、その途中で死んでも一切の心残りは生ぜず、また不安も恐怖も生じないことと思われます。それが出来ていないから恐怖を覚える。こちらの方が主なる理由と言えるかもしれません。

「死」は自然現象です。肉体をもっての地上人生は学びのための一時的に過ごす場所、旅における一時的な逗留の場です。ですから、その学び・仕事を終えるなら、そこにそれ以上留まる必要はありません。ですが、そこでいう「死」は自然死であって、「処刑」は含まれません。夢では私は「処刑」です?

もしかしたら、私は「自然死」であるならば、恐怖は感じなかったかもしれません。

「刑死」が問題であったかも知れないのです。「刑死」これは自分が何か誤りを犯したということなのです。それが何かは解りませんでした。あるいはそれとは異なり、イエスの十字架上の死、殉教者の死、ソクラテスの死、現代でいえば職務上の死、すなわち殉職ということも考えられます。すなわち、罪にたいする罰としての処刑ではない、ということです。私には解りかねます。殉教者の死であるならそれは恐怖ではなく、喜んで処刑されるでしょう。解らないから、恐怖を感じたのかもしれません。本来ならば喜びをもって死んでゆけるのに、です。

ただ今、分かることと言えば、私は未だやるべきことを一心不乱に取り組んでいないということのようです。実際、今だ解決できず気になっている課題があるとの自覚があります。このことを理解することができました。更なる努力を模索してまいります。霊界と守護霊にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

一心不乱に取り組むことです。

これを今日の結語といたします。

宇宙を貫く真理~愛の摂理  

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地上世界は永い間、悲劇・悲しみ・苦しみの中にありました。無知のなかに置かれてきました。今現在もその最中にあります。

 神はご自身が愛なるがゆえに、ご自身の属性である愛を顕現させるために人間界、そしてこの全宇宙を創造されました。であるから、このように悲惨さが満ち満ちた地上世界を何とかして救おうとされてきました。高級霊を用いてこの悲惨な地球を救おうとされてきたのです。高級霊、それは高度に進化した我々の先輩にあたる人霊です。

 ある苦しみの中にいる一人の人物を取り上げてみましょう。

彼は事業に失敗して借金地獄に陥りました。もうどうになりません。銀行は勿論、友人知人もいざとなると誰も助けてはくれません。家族も離散してしまいました。もう夜逃げするか、自殺するしかないのです。

こうした状況は現代では頻繁に生じています。なぜ、彼はこんなに苦しまなければならないのでしょうか?
一体どこに神の愛を見つけることができるのでしょうか?
“神も仏も存在しない!”と嘆きます。

 転じて、霊界という所は一切の「悪」「悲劇」は存在しません。何時もそこには“愛”が満ち満ちていて、平和であり、心安らぐ世界です。ただし、低い階層にはさながら「地獄」ともいえそうな所はあります。(場所は存在しないのであって、そこはそういう魂の人間の集まる階層を言う)

 しかし、この地上世界はあまりにも無知と未熟さに覆われているのです。霊界の常識が通用しない世界なのです。
そこで、私達人類はみな、さまざまな身体的・精神的苦しみの体験をして、その中から真なるものを探し求めてゆかねばならないのです。
家庭であれ、組織であれ、また個人の内部に於いても、生きるプロセスにおいては、戦い・葛藤・不一致・仲たがいなどを繰り返すことになります。

“利他“の思いは何処へか消し飛んで、”エゴ”が首を擡げ、成長・進歩を願う己を悩ますこととなります。己自身が生き延びることに精一杯となり、一体どこに“愛”の欠片を見出すことができるでしょうか。

しかし、それでも私は“神の愛”が根底にあると言います。どうしてそのように言い切れるのでしょうか。全ての苦しみ、悲しみ、悲惨さは“無知“から生じていることはすでにこれまでのブログでも書きました。
私達はその無知を克服するために、学ばなければなりません。あなたが無知、と言っているのではありません。我々人類は皆総じてあまりも無知なのです。

 *私たち人間が何のために生まれてきたのか?

*どこからやってきたのか?

*神は存在するのか?存在するとしたら、どのような存在か?

*死んだらどうなるのか?

*死後の世界はあるのか?

これらについて全く答えられないのです。
科学がいくら進歩しても、これらの疑問に回答できないでしょう。
医学生理学者が、いくら細胞や遺伝子を調べてもその答えは見いだせないのです。
 学ぶことは易しいことではありません。強い意志と忍耐と努力が必要です。少々のことで諦めたり、放り出すようではいけません。問題解決のプロセスは簡単ではありません。
それは多くの要素が複雑に絡み合いごちゃごちゃになっているからです。その一つ一つを丁寧にひも解いてゆくことが必要となるので、痛みが伴います。無傷でというわけにはまいりません。忍耐が要求されます。

病気治療と同じです。病気を治すためには、まず、原因・要因を明らかにしなければなりません。次いで、それに見合った対処が必要です。痛みと苦しみが伴います。しかし、それは“治る“という希望があるから、耐えることが出来ます。的外れでは治りようもありません。“がん“が何故治らないか、考えたことがおありでしょうか?
原因を見極められていないからです。的外れの治療をします。当然治りません。いくら医師が誠意をもって治療に当っていたとしても、虚しいことなのです。悲しいことです。
それと全く同じことです。私達地球人類の不幸の原因を究明しなければなりません。苦しみつつ明日の、未来の希望の向かって努力することです。
厳しいけれど、苦しいけれど、問題に堂々と直面し、何をどうするか明らかにしてゆかねば、問題は何一つ解決に至りません。

一人では難しければ、他に信頼できる人の助けを借りましょう。
勇気と知恵を求めて祈りましょう。
祈って、なにが変わるだろうか?気休めではなかろうか?とお思いになるかもしれません。しかし、考えてみてください。何かを成し遂げたときは、それなりの行動をしました。そして、その行動を起こす原因となる想いがあったはずです。想いは祈りです。“こうしたい、こうなりたい”という願いです。その願いが真っ当で真摯なるものであるなら、必ず神・霊界は答えてくださいます。これを“祈り”と言います。
“こうしよう“と決めたら、迷いを払拭して他人がどう言おうと自信をもって堂々と進みましょう。こうした態度に関してはあるいは、周囲からの反発や非難は覚悟しなければなりません。
“冷たい人間だ”と思う人もいることでしょう。それに怯んではならないのです。それも時間が経つことで、互いに必要な痛み・苦しみであったとの理解に至ることでしょう。
 問題を見て見ぬふりをしていては、問題は永遠に引きずったままとなります。不幸から逃れることは出来ません。
人類の歴史を見ればそのことは明らかであります。他人がどう思おうが、己の良心に従って英断をもって前進しようではありませんか。
注意点としては、相手かまわず、太刀をふるってバッタバッタと切り込んでよい、ということではありません。その相手に相応しい時に、相応しいやりかたで接して行くことが要請されます。

非常に落ち込んでいるときに、優しさの欠片も持たずに、厳しい言葉を投げかけられるならば、その人は立ち直れなくなります。自殺さえしかねません。
適切な時に適切な働きかけが重要となります。難しいことであり、大いに悩むところではあります。私自身もそのことで随分と失敗を重ねてきました。
しかし、いつも言いますように地上人生は学ぶために在ります。神は愛なるが故にこうして私達を救おうとされています。どんな人にも失敗・過ちはあります。それも成長に必要な一プロセスなのだと理解し、今日も生きています。

私達は実に不完全で未熟者であります。それを自覚して努力の最中にあるのであって、これからも失敗や過ち、そして葛藤や苦しみは続くことでしょう。でも、それでよいのです。そうやって人類は少しづつ成長・進化してゆきます。大切なのはそれで諦めないことなのです。

 たいへんに説教じみた内容になりました。未熟な自分が大それた発言と、些か心苦しくはありますが、どうしても皆さまに伝えたいという思いから書かせていただきました。どこか貴方の心に残るものがあれが幸いと存じます。

貴船菊~霊性への気づきに至る道

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今年も我が家の庭で秋明菊シュウメイギク咲きだしました。秋の訪れです。これを見ていてふと往年のある時を思い出しました。

私は10日間の瞑想修行のため京都を訪れていました。それが終了して鞍馬山へ出かけようと思い、叡山電鉄鞍馬駅へ向かいました。

鞍馬山は標高584mの山で牛若丸が天狗相手に剣術修行をした所として有名であり、パワースポットとして人気の霊山となっています。鞍馬寺の本尊は目に見えない宇宙の力なので鞍馬山に満ちているエネルギーは大きなものとされています。

私が訪れたときも大勢の修行者らしき人々が般若心経を唱えながら、境内にある沢山の寺院巡りをしていました。

これらの寺院の御朱印めぐりなど、鞍馬山を広く散策するハイキングコースは人気があります。御朱印は私の関心事ではなく、そこに満ちる清涼なエネルギーに触れたいという思いからでした。何百年、あるいは何千年も聳える自然林がその根元が複雑でかつ蛇のようにくねって地表に浮き出ている様、この根の間を身軽に飛び越えながら、剣術修行をする牛若丸の姿が目に浮かぶようでした。貴船駅へ続く渓谷沿いには料理旅館が立ち並び、夏季には「川床」が供され、蒸し暑い京都の納涼に処しています。その渓谷沿いには貴船菊が満開に咲いていて、私の目を楽しませてくれました。貴船菊とはこの辺りに自生しているため、そう呼ばれていますが、本当は秋明菊と言います。

そして私がなぜ鞍馬山へ足を延ばしたかというと、その時私はレイキの学習中で、その開祖とでも言える「臼井甕(みか)雄(1865~1926)」なる人物がこの鞍馬山で断食・瞑想の後、悟りを開きレイキを感得したと知らされていましたので、是非ともその地を訪れてみたかったからです。

ここで、レイキに関して少しばかり補足しておきます。

レイキとは宇宙に存在する生命エネルギーを活性化し、回復し、調和させる方法です。その歴史は古く古代チベットに辿り着くのですが、長い間に伝統が消失し封印されてきました。それが19世紀の終わりに、臼井博士により再発見されました。戦前、日本では「手当療法」の全盛時代で、その中心がレイキであったとされ、日本での信奉者数は100万人超えだったそうですが、戦後は極限られた人々に受け継がれて表面に出ることはほとんどありませんでした。

教えを受けたハワイ在住の日系2世の「ハワヨ・タカタ女史」の功績により海外へ普及していったという経緯があります。

それが廃れていた日本に逆輸入されたのが1985年だったのです。

現在、レイキは世界で最も人気の高いヒーリングで、イギリス、ドイツ、オーストラリア、カナダ、オランダでは医療保険が適応となっています。

私がレイキのティチャーズ・ディグリーを取得したのは2002年12月のことです。少しばかり、ヒーリングやディグリーの伝授を実践していた時期もありましたが、私にはヒーラーという天命はない、とい感覚があり現在は休止中です。

もちろん、宇宙に充満する生命エネルギーそのものは、いつの時代でも変わることなく存在していますから、レイキは自己ヒーリングとしてのみ、用いています。何よりも、”ヒーリング”は自分が行いたいからする、というものではなく、その能力は天命として与えられるものであることを今は理解しています。

ここで、私がどのような経緯を経て、「霊性」ということに気づいてきたかを整理してみましょう。

  • 看護学校と臨床で病める人々に奉仕するという「奉仕の精神」の大切さを学ぶ。
  • その後ある期間宗教団体に所属して、「宗教」というものを苦しみつつ知る。
  • 仕事上での人間関係を向上させるべく、心理学を学ぶ。
  • 広く教養を積むべく、放送大学で人間の探求を専攻する。
  • ユング心理学をベースとした自己開発セミナーを受ける。
  • 精神分析夢分析を受ける。
  • 瞑想の学習を始める。
  • レイキ・テイチャーとなる。
  • ヨーガを学び、ヨーガ療法士となる。
  • スピリチュアリズムを知り、今日に至る。

学習中、そしてそれからも沢山の病気を体験し、今スピリチュアリズムに出会ったことにより、長年の探求課題であった、人生の目的、神の存在、死後生について知ることができました。

思えば長い道のりでした。気がつけば地上人生のほとんどが費やされていました。

私は少しばかりの苦労や学びではなかなか悟れない無知で頑固人間でした。ですから、こうして挙げてみれば①から⑩までのようにこれでもか!というほど手間暇がかかりました。しかし、人生とはこうして知識と理解(悟りとも言います)を得るための学びの道程ということが出来るでしょう。私はそういう意味で本当に幸せ者であります。

私はいつでも真剣に物事に対峙してきたつもりです。しかし、それが故に人生は生きずらいものとなっていました。適当に妥協する、ということが出来ないのです。仕事においても、味方は少なく敵は多いほうでした。

こうした性格は物事を進めるうえで、プラスとともにマイナスともなります。

今は、そうした自分の傾向を知っていますので、そのバランスをとることに心を砕いています。

どんな場合に許し、どんな場合には厳然と対処すべきか、これを冷静にそして焦らず考えてゆくことが少しは出来るようになったと思っていますが、果たしてどうでしょうか・・・。

地上人生が終わるその時まで、いえ、あちらの世界に於いても私達は学び、そして他の人々に奉仕し続けるのです。勇気を持って顔を上げて進みましょう。