一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

霊力について

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霊力について考えて行きます。

「霊」とは肉眼では見ることが出来ませんので、存在しないとする考え方があります。現代ではそうした目に見えないものは存在しないと主張する人たちが多数を占めています。唯物的思考です。
しかし目に見えないものは沢山存在します。
電磁波とは電場と磁場が交互に作用しながら空間を伝播する波のことを言います。それには放射線、紫外線、赤外線、電波などがあります。波長が短くなるほど、エネルギーは高くなります。波と粒子の性質を持ちます。
空気はご存じのように窒素、酸素、二酸化炭素など原子からなっています。目には見えないけれど存在します。物質から構成されています。
細菌もウイルスも見えないけれども存在します。そして良くも悪くも私達に多大なる影響を及ぼしています。共存している、と言っても良いかもしれません。

そして目には見えないけれども「愛」は厳然として存在します。「霊」も同じく存在しているのです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊カというものは存在しないことになります。

では、ここで基本的なことを抑えておきたいと思います。
それは「霊」とはなにか?ということですが、私達は死んで「霊」になるのではありません。地上で生きているときからすでに「霊」なのです。しかも「霊」が本体であり、肉体は霊を包む衣服に当るのです。あなたという人間は霊と肉によって構成されています。では、どこに霊を発見することができるでしょうか?
それはあなたの言葉、行い、存在そのものに見ることが出来るのです。あなたの言葉、行い、生活そのものにあなたの霊的進化の度合いが現れているのです。

ペットや野の花の愛らしさ、自然界の美しさは汚されていないままの創造の御業が現れています。人間界の醜い在り様とは大違いです。

霊性が進化すればするほど、人間は美しいものを求めるようになるのです。次のシルバーバーチの言葉をご覧ください。

 美を求める心は魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。精神が成長すればするほど、醜い、卑劣な環境に不快感を抱くようになるものです。波長が合わなくなるからです。自分の置かれた環境をより美しくしたいと思い始めたらそれは進化と成長の兆しであると思ってよろしい。

  (シルバーバーチのスピリチュアル・メッセージ  ハート出版 P196)

 次に「霊力」とは何か?についてですが、いわゆる霊の姿が見えるという霊視能力、聞こえるという霊聴能力、そして未来予言などという狭い意味での心霊的能力のことを指しているのではありません。
霊力とはスピリチュアルな力でありここにあげた能力はサイキック能力と言い、区別されます。つまりスピリチュアルな力はあくまでも霊界から来るものであり、サイキック能力とは霊媒自身の持つ力を指し、霊界とはなんの繋がりもない、ということです。ですから、例えサイキック能力が発達していたとしても、魂の成長が伴なわなければ、低いバイブレーションの仕事しか行えません。

遠い過去から、この宇宙には霊力が注がれています。あなたが存在し考え、動き回れるのは全て霊力のなせる業です。自然界のあらゆる動き、変化を支配し四季を調節し一粒の種、一本の植物、一本の花、全てに関与し千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊の力です。その霊力が地上世界において顕現するためには、それに適した器、道具、媒体、通路、霊媒といったものが必要となります。

「霊力」は端的に言うならば、“霊界からの働きかけ“を指しています。
それは高級霊界からの啓示であり、霊界通信という形で受け取ったり、インスピレーションとして受け取ったり、様々な媒体を通しての知識であったりします。そしてそれに触発された人間は霊力を顕現させる良き道具となることが出来るのです。
それは何時でも、どこに於いても、絶えず注がれているわけではないようです。受け止められる地上の器が是非とも必要なのです。霊界側はそれを注意深く見定めています。

「霊力」は神の、そして高級霊界人の意志を受け継いだ人間を通してこの地上に顕現することになるのです。地上の進化・発展に寄与できるのは実に恵みであります。

それは私達に真の自由をもたらし、あらゆる束縛や足かせを捨てさせる方法を教えてくれ、物質界だけでなく死後にも通用する生き方教えてくれます。

美と愛と叡智、理解力と真実と幸せをもたらしてくれるメッセージです。

170年まえにこの地球上に勃興したスピリチュアリズム運動(ハイズビル事件に端を発する)はまさにこの霊力の降下そのものでした。どうしようもないほどに醜い状態に陥ってしまった地球人類を救済するために、高級霊界の霊人たちが一致団結し、入念な計画のもとに降ろされたプロジェクトなのです。

科学・医学・思想・宗教その他あらゆる分野において物質万能主義を否定して霊的事実に目を向けなければなりません。一人ひとりが霊的真理に目覚め、それを実生活に展開してこそ人類の救いがあるのです。

救世主やほかの天体から宇宙人がやってきて、人類を救ってくれる訳ではありません。一人ひとりの自らの努力が要請されているのです。これまでも、このブログでも言及してきましたが、指針は既に示されているのです。

真理を学ばなければなりません。無知であってはならないのです。あまりにも長い間、無知の暗闇に置かれて来た私達人類は、それに慣れっこになってしまっています。

暗闇でも、苦しくても何とか生きてきました。実は本当には生きているとは言えない有様でありますが・・・。しかし、もうただ耐えていることは止めにしなければなりません。目を覚まさなければならないのです。

なぜなら、時至り高級霊界から霊界通信を通して霊的真理か降ろされています。辿るべき道筋が示されているからです。私達一人ひとりが霊力の受け皿となり、この乱れ切った混迷の地球を浄化してゆく時が到来したからです。

人生観の転換と霊的成長

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今日は人生観について考えてみます。

「あなたご自身の人生観はどのようなものですか?」と聞かれ何と答えるでしょうか。殆どの人は自分自身の人生について何らかの思考を巡らしてきたと思います。
それは若い頃であったかも知れませんし、今まさにそうした考えを巡らしているかもしれません。人生って何だろう・・・、何のために人は生まれてくるのであろうか・・・運命は決められているものだろうか・・・、運命って自分で変えることができるとしたら、自分はどんな人生を望むだろうか・・・、価値ある生き方をしたい、では価値ある人生ってどんな人生なのか・・・。

 これらはすべて私自身が極若い時から抱いてきた疑問であり人生の課題でした。
しかし、その疑問も課題も解決されないまま、時は経過してきました。自分自身の生き行く道が解らない、人生の指針を見出せないという状況です。

 考えてみれば、このような状況は何も私一人に限ったことではなく、地球人類の多くがそのように生きているのです。自分はどこを目指しているのか、目的地が見いだせない。何をすべきなのかが解らないまま闇雲に右往左往しているだけなのです。地球は迷子たちで満ちているのです。どこを見ても道を見出せない迷子たちで溢れているのです。そしてこのような人間によって出来上がっているのが社会、世界なのです。どこの社会であろうと、どこの国家であろうと、状況は同じということになります。人類はすべからく迷子の状況にあるのです。

ですから、当然どこを見ても混乱に満ち満ちているのです。政治、経済、教育、科学、宗教、あらゆる分野に見て取ることが出来ます。人間とは如何なる存在か、宇宙とは何か、何のためにこれらは存在するのか、こうした最も根源的なテーマを蔑ろにしていては、どんなに労力・時間をかけて物事に取り組んでも、すべてが砂上の楼閣でしかないのです。虚しい取り組みに終わることでしょう。そうして現代人の多くは諦め、あるいは疲れ果てて虚無的になったり、刹那的快楽に生きるようになります。

スポーツや退廃的な娯楽に興じるようになります。薬物依存、セックス依存が幅をきかせています。物質至上主義に飲み込まれ、道徳は廃れ、伝統や文化は必要のない代物と扱われ精神性の危機に見舞われています。神の存在は随分と遠くなったようです。

それでも人間は魂の奥に神の分霊を宿していますから、自分自身が納得のゆくように努力します。なんとか折り合いを付けて頑張ってきました。

 テーマに戻ります。人生観とは何に価値を置くか、という価値観ということになります。つまり、人生観=価値観ということです。

スピリチュアリズムでは「神」と「神の摂理」を説いています。お金や地位、権力に価値を置く物質至上主義は間違いであり、人間とは「霊」が主で、「肉」は従であるので「霊主肉従」、そしてまた自分中心の利己愛ではなく、他を愛する「利他愛」が摂理であるとしています。これがスピリチュアリズムの価値観でもあるのです。先に述べた目標の見えない人生、迷える人生、虚しい人生は一重にこの「神と神の摂理」を知らず、摂理から外れた結果から生じているのです。

ここで私が言いたいことは、「人生観」の転換をして頂きたいということです。すなわち「価値観」の転換です。物質中心の人生から、精神と霊を主に、そして自分中心の利己愛から、他を想う利他愛の生き方に価値を置く人生にです。世界は人間によってなりたっているので、一人ひとりがこうした価値観で生きるなら、それは自分ひとりの問題解決だけではなく、広く世界の諸問題の解決に至るということです。

これはこのように一口に言うことが出来ますが、実際に実践することはそれは困難であります。何しろ間違いを間違いであるとの自覚もなく、長年続けてきた習慣を見直すことになるからです。しかも周りは皆これまでの貴方と同じく間違いの自覚がありません。そういう人たちに取り囲まれているのです。ですからそれは苦しい歩みと言えます。これまでの生き方を変更するのですから。しかし苦しみ、困難を避けていては先へは進めません。私達人間は良きものを手にしたいなら、真の幸せを手にしたいなら、努力は欠かせません。そんなことは幼稚園児でも知っています。

端的に言うならば、この地上人生とは、苦難の体験を通して、これまでの罪(あなたはどう思われるかしれませんが過去世をも含めて)の償いをし、霊的成長をする場として存在しているのです。しかし、その歩みは決して辛いばかりではありません。霊的成長をするその歩みは喜びももたらしてくれます。魂のなかから湧いてくる他のために生きる喜びです。最も身近なことから少しずつ取り組むことは可能です。気づいたことから実践するのです。スピリチュアリズムの真髄を学んでください。そうすれば、何を為すべきを知ることが出来ます。知識は大切です。無知からは向上、進歩はあり得ません。

神は愛そのものです。ですから地獄さながらの中に住む私達地球人類を救おうとされ、あらゆる手立てを講じられています。諦めないで下さい。求めてください。霊界の高級霊たちが涙ながらに手を差し伸べています。それは細い糸かもしれません。ですが、強靭に出来ており、あなたが離さない限り決してあなたを見捨てることはしません。あるいは芥川龍之介蜘蛛の糸の様であるかもしれません。あなたが自己中心の心を持たないなら、けっして切れる様なことは起こりません。

 先回でも述べましたように、スピリチュアリズムでは人生の最重要事項は「霊的成長」であると説いています。霊的成長とは「霊的価値観の確立」のことを指します。つまり、霊的価値観への転換こそ人生での最重要事項というわけです。

今回のテーマに「人生観の転換と霊的成長」と挙げたわけが幾分かはお解り頂けたものと思ます。

自由と喜びと霊的成長

 

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今日は「自由と喜びと霊的成長」に関して論じてみます。

ずっと前になりますが、ある宗教教団に属していた時、一つの囚われから解放され、心底からほっとしたことがあります。それは何と表現するのがふさわしいのか、その時にはまだ霊的真理を知らない時でしたが、いま考えるにそれはまさに霊界の大勢の霊人たちが共に喜び祝してくれている、という感覚とでも言いましょうか。
その時、私は琵琶湖近くの公園に一人佇んででいました。
見上げる空が急に表現できないように澄み渡り、まるで別世界の様でした。どこまでも明るく、光輝いていたのです。胸の中は、安堵・喜びといった想いでした。
そして最近も、あることを通して自由とは斯くも心地良いのもであるという体験をいたしました。

人は 何処の国に生まれたかによって、あるいは時代によって、そして学問の世界、思想・宗教の世界でも、それにに属することで一定の基準、規範、枠組みの中での判断・行動が要請されます。私達は法治国家日本に生まれ、憲法を始め多くの法律や条例などにより規制され、その枠組みの中で生きることになります。さらに世間には文化と言われるものや、常識とされているものが幅を利かせています。多くの人々はそれに取り込まれて身動きが出来なくなっています。まさに憲法で保証されているはずの自由が損なわれています。雁字搦めの有様です。たとえそれに何らかの不都合や違和感を感じたとしても、世の中とはそんなものだ、と妙に悟ったように諦めてしまいます。間違いも皆が言い続けるうちに、いつの間にか当たり前のこととされてしまいます。それ以上には疑いを持たず、受け入れています。洗脳と言っても過言ではないように思います。

 シルバーバーチは訓えの中で幾度にもわたって、“魂の自由”は神から子供である人間に付与された遺産である、と述べております。人間は神の操り人形やロボットではありません。自由意志を有した神の子供なのです。神は創造の御業の時“摂理“を設けられました。私達人類はこの摂理に従うも、また背くも付与された自由意志に任されてきたのです。私達は誰か他の人に“こうすべきだ、こうしてはいけない”など規制されて生きて行くのではなく、神の作られた摂理に従う事のみが要請されているのです。

  スピリチュアリズムでは人生の目的は「霊的成長」であると説いています。そして霊的成長とは”神と生きとし生けるものへの貢献”によって成し遂げられることになります。そうして、そうした歩みはまさに「幸せ」であるということが出来ます。
言い換えれば、「人生とは幸せを得るために在る」、ということが出来るのです。
今、人生が思う通りに行かなくて、あるいは病の中で苦しんでいるとしよう。こうした一見不幸と思えることも、魂の成長のための大事なステップであり、むしろ有難いことと捉えるのがスピリチュアリズムなのです。こうした苦しみはイコール不幸ではないということなのです。
例を挙げてみます。
愛する我が子のために犠牲になる親が居たとします。しかし彼・彼女は決して不幸ではなく、むしろ喜びさえ感じて居るかも知れないのです。
スピリチュアリズムでは、幸せとは如何なるものかを訓えてくれています。

 以下にすこし長くなりますが、「シルバーバーチの霊訓(四)」潮文社 p41~43 からの文章を引用します。 

『光と闇、日向と影、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして影はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。困難、障害、不利な条件、これらは皆魂の試練なのです。それを克服したとき、魂は一層充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。一体無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。勿論思われないでしょう。人生の喜び、笑いの味は、人生の辛酸を嘗め尽くして初めて分かります。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の肥やしです。そのうち、あなた方も肉体の束縛から解放されて曇りのない目で地上生活を振り返るときが参ります。そうすれば紆余曲折した一見とりとめのない出来事の絡み合いの中で、一つ一つがちゃんと意味を持ち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものを持っております。一体何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩みもない世界を想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです。』

 続けてもう一つ「シルバーバーチの霊訓(一)」潮文社 p55より   

『悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に、深甚なる意味を持つものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、一番よく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸などは地上に人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。そもそも、その教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。』     

いまこそ、私達は神から付与されている最も尊い「自由」について考え、神の子供らしく堂々と生きてまいりましょう。そのために私達を知らないうちに縛り付けている様々な間違い、しがらみを明らかにしなければなりません。無知の闇に留まっていてはならないのです。探求心、勇気が必要です。

私は医療の世界に生きてきた人間です。そこには間違った考えによる多くの不幸が発生しています。度々申し上げていますが、病気は医師が、薬が直すようなものではありません。自分に備わっている自然治癒力によるものなのです。医師、そして薬はその手伝いをするにすぎません。そして薬は数々の副作用があります。薬の添付文書をみるとそこには驚くような副作用がこれでもか!というほど沢山記載されています。例えば、かって私が服用していた抗不整脈剤の添付文書の注意事項には”不整脈”と記載されているのです。不整脈を治そうとしているのに、副作用に”不整脈”とあるのです。頭は大混乱です。それを億面もなく、製薬会社は添付文書に記載しているのです。そして更に、医師はなんら疑問もなくそれを処方するのです。
また、私の友人は医師に勧められるままに、10種類以上の薬を服用しています。一つ一つの薬にこのような副作用があるのにそれを10種類も合わさったら一体どういうことが生じると思いますか?そもそも、その一つ一つは本当にその方に必要なものでしょうか?そうしてその友人はさらに新たに別の生活習慣病見に舞われました。脳梗塞です。勿論直接に薬との因果関係が証明されたわけではありません。が、当然何らかの作用(好ましからざる作用)があると考えられます。
薬の恐ろしさについて述べましたが、これは私達の身近な問題の一つにすぎません。さまざまな分野において、私達が知らないうちにそうした間違いをも間違いとも感じなくってしまっています。

世界は混迷の極みにありますが、これも光明に至るための私達人類に課せられた大いなる宿題と捉え、困難ではありますが地道に努力し、共に立ち向かってまいりましょう。

ヨーガからスピリチュアリズムへ

       インドヒマラヤ に対する画像結果

令和三年、明けましておめでとうございます。

昨年は世界中が大変な年で明け、終わりました。政治も経済も、私達の生き方をも左右したともいえる状況でした。

この様な時こそ、私達は何が一番大切なことなのか、どう生きなければならないのかを明らかにし、様々な情報という雑音に惑わされることなく、しっかりと腰を据えてまいりたいと思います。

 私はスピリチュアリズムを知る前はヨーガを学んでいました。
20年ほど前のことになります。

インド中央政府公認のスワミ・ヴィヴェーカナンダ・ヨーガ研究財団による日本でのヨーガ・インストラクター/セラピスト養成講座を修了しました。

卒業後は看護師であるということもあって、クリニックで病気の人を対象としてヨーガ療法を指導していました。

            ヨーガ画像 に対する画像結果

その間、インドでのヨーガ修行にも参加し、それはそれで楽しい日々でした。 

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      高度4000mでのヨーガ修行               背景はヒマラヤ山脈
ここで少しだけ、ヨーガについて解説をしましょう。
以下は私のYTIC卒業論文(2002年)からの抜粋です。

ヨーガの疾病概念

ヨーガでは健康と不健康とは全く異なる二つのものとしてではなく、健康とは個人のよりよい状態を表す一連の連続した機能であることを表している。

そして低いレベルを病気と言っているのである。

私たちは日常、さまざまなストレスに曝されているが、意思鞘における「好き・嫌い」の感情が増大し苦痛を感じる。ストレスはこうした心の状態を引き起こし、「アーディ(無知)」と呼ばれる状態になる。強い怒り、欲望、恐れ、嫉妬などで、自己制御不可能になると、身体の機能、及びプラーナの流れに著しい変調を来たし、身体は機能を発揮出来なくなる。こうした意思鞘の不調和は肉体レベル、すなわち食物鞘にまで影響を及ぼす。従ってストレスを上手にコントロールすることで、肉体、感情、プラーナの不調和を正すことが可能となるのである。

 ヨーガの人間観

伝統的なヨーガ、及びウパニシャッド聖典では人間存在を『五蔵説』によって説明している。第1番目は最も粗雑な肉体レベル「食物鞘」であり、その次は「生気鞘」と呼ばれ、生命活動の根源であるプラーナによって支配されている。

3番目は「意思鞘」と呼ばれる心理的次元で、認知、分析、記憶、そして感情の働きといった心の機能を担う。4番目の「理智鞘」は識別能力、判断能力という性質を持ち、人間本来の特性との同調、つまり、完全なる健康状態を目指した人間的行動を遂行するという役割を持つ。「歓喜鞘」では、人は完全なる調和状態で自身が持つ全能力のバランスを保つことが出来、この状態は完璧なる制御能力、歓喜、そして不安を持たないといった性質によって特徴づけられる。

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               (ウパニシャッド聖典より)

ある日、同僚のヨーガ教師が教室に「シルバーバーチの霊訓」を持参してきました。それを横目で見た私は“私にもそれを読ませてください!”と叫びました。 2冊借り、自宅へ帰るとそのまま貪るように読みました。本当に驚きでした。そして残りの10冊(潮文社刊~現在は廃業)を直ちに取り寄せ読みました。なんとそこには私の若い頃からの疑問の全てに対し応えがなされていました。

それからもしばらくはヨーガの指導をしていましたが、徐々に心不全が進行し、続けることが出来なくなりました。

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 ヨーガはインド5000年の叡智を有し、身体及び精神・魂を健やかに保つための数々の訓え・メゾットがあります。ただ、最も重要である霊的真理の核心部分の理解には至っておりません。
それでもヨーガは私にとって霊的真理の理解の為の貴重な入口となったことは事実であります。スピリチュアリズムと出会うのはたまたまや偶然ではありません。人それぞれ何らかの出来事・体験が契機となります。私の場合はヨーガによって深く眠っていた魂が揺り動かされ、目覚めへと導かれたのです。これまでは知ることの出来なかった心の深い世界、霊的世界への入り口となったのです。沢山のヨーガの知識そして体験を省略しての真理の理解はなかったであろうと今でも思っています。

このように人生で出会う様々な出来事、そして体験は実はとても意味があり大切なのです。どんな時も、目の前に現れた事象には全身全霊で当たることです。一生懸命であるということです。そうして時が来れば必ず、次なる段階へと導きがあることを私は断言いたします。

あなたに新しい展開が、喜びの時が来ることを心より祈念いたします。

 

 

モラハラについて

f:id:gsirakaba:20201121130643p:plain昔、看護学校で教員をしていた時にパワハラを受けたことがありました。そこでの体験は凄まじいものでありましたが、最近パワハラならず、モラハラについて考えさせられることがありました。この度、それについて何某かを学ぶことが出来ました。それにより気持ちがすっきりといたしました。それを以下に述べてまいります。

  モラハラとはモラルハラスメントの略で、身体的暴力ではなく、言葉や態度といったモラルによる精神的苦痛を相手に与える、DV(ドメスティックバイオレンス)の一種です。

倫理や道徳といった意味を持つ「モラル」と嫌がらせという意味を持つ「ハラスメント」を合わせた言葉です。つまり倫理や道徳に反して相手に嫌がらせを行うことを指します。
職場や家庭など、大人同士の間で起こる事が多く、無視や暴言、わざと不機嫌に振る舞ったり嫌がらせをする、といったことが多いようです。また相手を必要以上に責めたり、無理難題を押し付けたりし攻撃することで、精神的に深いダメージを与えます。モラハラは相手を侮辱し軽蔑して尊厳を傷つけます。される側は傷つき自信を失い、自己嫌悪にさえ陥ります。そしてモラハラをする側は意図しないうちにそうした言動をする事がしばしばです。自覚がないのです。相手を傷つけているということに無自覚なのです。

次に何故モラハラが行われるのか?その心理をさぐって見ましょう。

そもそも、モラハラを行う人の基本的考え方は、「悪いのは相手であって自分ではない」というものですから、相手を傷つけている自覚がなく、当然謝罪の気持ちは持ちません。さらに「相手よりも優位な位置に居たい、上の立場で居たい」のです。

 そしてモラハラをする人の特徴・傾向とはどのようなものでしょうか?
・相手によって態度が大きく変わる――家庭や職場以外の場所ではボロをださない。
・古くからの友達が居ない――本当の姿を知っている人から距離をとられている。
・かって自分もモラハラを受けた――コンプレックスや自己嫌悪の感情を解消できていない。
・口下手でコミニュケーションが下手。

 そしてモラハラをされる側の特徴・傾向は
・自己主張が弱く、自分の意見を我慢してしまう。
・場の空気を読みすぎる――相手がイライラしていると、それを察知し言いたいことを飲み込んでしまう。反論しない。気を使いすぎて相手を助長させてしまう。
・真面目で責任感が強すぎる――自分よりも相手を優先することが癖になっていて、何かあれば自分のせいと悩み込む。
・自分に自信がなく、自己肯定感が低い。                               

 以上のようにモラハラの実態を調べて思うことは、本当に自分はモラハラを受けるには十分な要素を持っているなあ~という驚きと感慨にも似た想いでした。
決してそのままの心の姿勢であってはいけないと思いました。が、見方をかえれば愛すべき傾向でもあります。次の二点はどうでしょうか?
・場の空気を読みすぎる――相手がイライラしていると、それを察知し言いたいことを飲み込んでしまう。反論しない。気を使いすぎて相手を助長させてしまう。
・真面目で責任感が強すぎる――自分よりも相手を優先することが癖になっていて、何かあれば自分のせいと悩み込む。

場の空気を読む事―これは必要なことと思います。ただ、読みすぎはいけません。なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとしです。そして、真面目で責任感は大切ですがここでも強すぎはいけません。
何事も問題が生じたときは、何らかの対処が必要となります。
モラハラを受けた時の対処法とはいかに?

幾つかの方法があるようです。
・まず相手の言動がモラハラであることを毅然と伝える。
それにより、自分がどんな気持ちになったか、どんなふうに傷ついたかを具体的に伝える。
・自分に非がない場合は謝らない。
場を早く収めたいがために直ぐに謝ってしまうなら、逆効果となります。こうすることは、相手に「やっぱり自分が正しい」と思わせてしまうからです。相手の言い分が理不尽なときには絶対に謝らない、モラハラに屈しないという態度をとる。 
その他では状況により証拠を取り保存する、周りに助けを求める、別居、離婚する、などがあるようです。

今回はモラハラについて学んだ事を述べてみましたが、日常生活とはこうしたことを含めて、揉め事・争い、そしてさまざまな葛藤の連続です。

私は未熟者ながら、スピリチュアリストを自認しております。しかし霊的真理を知ったからと言って悩みは解消され何の問題もない、ということではありません。寧ろこれまで知らなかったこと、封印してきた問題が明らかになったことで、葛藤はよりシビアになったとも言えます。

地上人生は霊的成長のために存在しますから、何となく抱えていた問題・課題が浮き彫りとなり、“対処せよ“と迫ってくるのでしょう。

そういう意味ではスピリチュアリストの人生はシビアな人生なのです。安穏と気ままな暮らし、問題があっても見ないふり、ということは出来ません。
だからと言ってしり込みをしていてはなりません。私達は愛と希望と喜びをこの地上世界にも実現させるべく歩んでいます。実に意義ある人生です。そのためには多くの苦しみ・葛藤があってもそれはむしろ有難いことなのです。喜んで受け入れてまいります。これがスピリチュアリスト人生なのです。

今回もこうして学ぶことが出来ましたことを深く神に感謝しています。

心の闇~うつ病を考察する


f:id:gsirakaba:20201028131631p:plain 現代人の多くは心の奥に闇を抱えて生きているように思えます。何となく気分が沈み、毎日が辛い、何をするのも億劫だというレベルから、表面化しすでに身動きのとれない状況に陥っている場合などがあるでしょう。ここではうつ状態うつ病の症状をいちいち挙げませんが、多くの人たちが苦しんでいます。

ではどれ位の人たちがそのような状況にあるのかを統計から見てまいりましょう。
     うつ病の総数のデータをここに上げます。

     H02年 23.1万人   H11年 33.5万人    H23年 70.1万人

      (うつ病患者数の推移~平成23年「患者調査」厚生労働省大臣官房統計情報部より)

これは単純に“増加した“というだけではなく、すでに発症していたが医療機関を受診しなかった人が受診するようになったという背景があります。

それでも、この数値は医療機関を受診した人だけを拾い上げたものであり、実際はさらにかなりの人数に上るものと思われます。そして有病率は6.7%で、15人に一人は生涯に一度は罹患する可能性を指摘しています。先にも述べましたように、うつ病は年を経るごとに増加の一途をたどっています。

また、精神科の病院は他の診療科と比較して断トツに増加しており、1978年から比較すると、2016年には2.52と倍以上の増加です。このことからもいかに精神を病む人たちが増加して来たかが伺い知ることが出来ます。

 “うつ”の原因は何か?ということは非常に気になるところであります。
一般的にはストレスから来ると言われています。ストレスの元になるものをストレッサーと言いますが、それにはどのようなものがあるでしょうか。

        内的ストレッサー                 外的ストレッサー

 心理的ストレス 

 不安・怒り・緊張
 憎しみ・寂しさ
 自己肯定感低
 自信のなさ

 

 物理的ストレス

 季節温度差
 薬物・騒音・悪臭

 身体的ストレス

 疲労・怪我・疾病
 不眠・健康障害

 社会的ストレス 

 人間関係
 経済状況
 職場環境
 学校関係

 このようにストレッサーとなるものは多々ありますが、これらをストレスと感じるかどうかは人様々です。そしてストレスの解消法については一般的には次のようにも言われています。
1. 生活リズムを整える
2. 運動をする
3. 美味しいご飯を食べる
4. リラックスできる場所を見つける・・・など

そして現在の治療法は以下となっています。   

休養、抗うつ薬などの薬物療法認知行動療法などの精神療法とされています。何故か運動療法は積極的に推奨されていないようです。しかしようやく近頃になって“うつ“は”生活習慣病“という認識も一部では出始めていて、運動の効果が見直されてきているようです。

1. 血流が良くなり脳が活性化される
2. 気分転換になる
3. 満足感・達成感が得られる

などが期待されるからです。

 では次に、ストレスとメンタリティについて考えてみましょう。
先に「ストレッサーとなるものは多々ありますが、これらをストレスと感じるかどうかは人様々です」と書きましたが、本当にそのように思います。
ある人には全く問題にもしないようなことが別の人には大きなストレスとなる、ということは大いにあります。そこで職場では「職場でへたこれないメンタルトレーニング」なるものが盛んに取り入れられています。職場での生産性の向上に向けたもの、モチベーションの向上、これらはまず“目標の設定”を上げています。目標を明確にしてやる気を出させるというものです。しかし、ここでの目標とは会社であるならばそこでの業績のアップが目標であって、本人の生きる目標とは異なることに気づかねばなりません。会社の目標=あなたの目標ではないのです。
ストレスマネジメントとしてリラクゼーションの方法や仕事から離れた趣味を持つこと、相談することの効用、中にはヨガや瞑想の指導なども行われています。

どのような病気でも言えることですが、調子の悪いときは医療機関を受診し、医師の診断を受けることは大切です。
それだけではなく、可能ならば(自分の行動・考えをある程度コントロールできる状態にあること)生活リズムの改善など自分で出来ることを行うのも大切です。そしてとても大切なこととして信頼できる人を持つことが挙げられていますが、そもそもうつになりやすい人は、真面目・几帳面・融通が利かない・思い込みが激しいなどの傾向にあり、友人を作れず信頼できる人が出来にくいという傾向にありますから、なかなか難しいところであります。
また、ある研究者が言っていますが、うつになりやすい人は「自己洞察力が低い」と指摘しています。これはどういうことかと言うならば、自分や物事を正しくとらえられないということです。たとえ自分が相当に疲れているのに、“大丈夫です”と答えたりします。そして状態がかなり悪化してから初めて気づき大ごとになるという具合です。
こういう人には“アウトプット”が有効であると言います。
「書く」「話す」「行動する」などで自分自身の内面を観察できるようにするのです。これらの働きかけにより、当座の効果は期待出来ます。私自身も一時全く元気を失い、やる気のスイッチが入らず、何もしたくないという時期がありました。仕事には重い足を無理に引きずってゆき、休日はなにもせずジッと自分の部屋へ引きこもっていました。そんな時に何とか少しでもエネルギーを補充すべく、すぐ目の前にあるスーパーへ買い物に出ます。体を無理にでも動かすことで、やっと少し元気を取り戻すことができたという経験があります。ですから、私は誰かが元気をなくしていると見たときには「スーパーへ買い物に行ってきたら良いよ」と声を掛けます。これは体を動かすことと、さらに他人とほんの一言であっても会話をする、という行動が功を奏するのです。

しかし、これはまだ根本的な問題解決にはならないのです。そもそも、“自分は何のために生きているのか”、という問題を無視して上辺だけの取り組みではどうにもならないのです。何のために生きているのかそれが解らない、そうなると働くことの意味も見い出せなくなります。まさにうつ状態うつ病になります。
そういう意味から現代人の多くは、“うつ病予備群“ということが出来るでしょう。

  以前、私が病棟婦長をしていた時のことですが、あるスタッフが「今日は調子が悪くて勤務できません。休みます。」と電話してきます。当日ですから、人員確保に別の人を呼び出すというわけにもゆかず、一人欠員のまま仕事が始まるということになります。このスタッフは、しばしばこうして突然の欠勤をします。
私はその後転勤になりましたので、そのスタッフがその後どのようになったかの情報はありませんでしたが、別の例では結局退職し他院で働き始めるということを繰り返します。別の所へ移動するたびに、条件の悪い所になります。いわゆるブラックといわれるような職場に落ちてゆくのです。どうしてこうなるのか、採用する側はその人の前歴を見ます。そしてまともなところは採用しません。そうしているうちに、その人は段々に自信を消失してゆくことになります。そうしてついにはどのようなところであっても働く事そのものが出来なくなってしまうのです。たとえ看護師という資格を有していたとしてもこのような現実があるのです。
看護師だけではありません。どのような人にも起こる現実なのです。働けない、社会に順応できない、人間関係をうまく構築できない、という深刻な状況です。
日本を始め先進国では、医療・衛生・栄養状態が向上し長寿が可能となり、今や人生100年の時代などと言われており、確かに身体面では長足の進歩が見られます。しかし、精神面や霊的な視点から見るならば、それは衰退ないしは退廃ともいえる状況にあるといわざるをえません。多くの人たちが精神的、霊的に苦しんでいるからです。これは明らかに精神・霊と肉体の調和を欠いた状態であり、何とかせねばならないのです。苦しみの、病の原因を探り取り除かねばなりません。

調和を欠いた状態、とはどう言うことか・・・?
反対に調和のとれた状態とは・・・?
ここに最も根本的な「人間とはいかなる存在か」という命題を明らかにしなければならなくなるのです。
つまり、今は病気(霊、精神、肉体の)である、では病気を治すとはどのような状態にするのか?言い換えると、本来の姿ではないのを本来の姿にすることです。
一体、人間の本来の姿とはいかなる姿か?
生きる目的も知らず、自分とは誰なのかを知らず、ただ惰性で生きる姿が人間の本当の姿か?そうではありません。これまでの生き方のどこがどう間違っていたのかに気づき、修正してゆかねばなりません。
そのためには知らなければなりません。無知のままであっては改善は出来ませんし、当然進歩・向上は出来ません。問題の解決はあり得ません。一時の表面上の手当は、先に述べましたようにいろいろ工夫され実践もされてきています。そうした姑息的な手段をくりかえしていても未来は見えて来ません。

スピリチュアリストの立場からは、だからこそ霊的真理を知りそれを実践に移すことが求められている、と申し上げるのです。霊的真理は永遠の真理です。
そして、これは”他人のために生きる”ということを訓えています。ちょっと考えてみてください。何か人に親切にしたとき、されたその人は喜びます。すると自然にあなた自身も嬉しく、幸せを感じるのではないでしょうか?
自分中心主義からは幸せはやって来ないのです。他のために生きることこそが、本当の幸せを感じることが出来ます。人は利己主義を脱却して利他主義に変わらなければ救いはないのです。

うつに苦しんでいる人も自分のことはちょっと横に置いて、何か一つでも他人が喜ぶことが自分でも出来ることはないか?と探し求めてみてください。ここがあるいは突破口になるのではないでしょうか?

今、現に苦しんでいる人には何らかの手助けは是非とも必要です。私はそれを否定する気持ちは毛頭もありません。相談に乗りたいと思います。できることがあれば手を差し出したいと思います。一緒に苦しみから脱却しょうではありませんか。

同じ地球に同じ日本に同じ時期に生まれ合わせた縁です。お互いが出来る限りの支えあいを実践してまいりましょう。これが今の私に言える事です。

 

魂の目覚め

 

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このブログの第一回ではスピリチュアリズムとは何か、について述べました。ここでもう一度取り上げ、振り返りましょう。

スピリチュアリズムとはイエスを中心とする地球圏霊界の高級霊達が結集して計画された人類史上初めての地球人類救済計画です。それは「霊的真理」を地上にもたらすことであり、地上人が理解し受け入れることを目的にした大プロジェクトであります。地球人類は長きに渡って「神」「死」「死後の世界」「人生の目的」について全くの無知に置かれてきました。あらゆる宗教、思想もこれらについて明確に答えることが出来ずにきました。その為、人類は数々の悲劇のうちに過ごさざるを得ませんでした。
そして「物質至上主義」「利己主義」に陥り、地球に悲劇を蔓延させて来たのです。
戦争・紛争、発展途上国に於ける飢餓、対する先進国における飽食・美食による肥満・生活習慣病、貧富の格差、環境破壊、動植物への虐待、精神性の凋落等々、正に地獄の様相を呈するようになったのです。

 スピリチュアリズムは宗教の観点から見ると、これまでの全ての宗教を凌駕する宗教、超宗教であります。つまり宗教革命なのです。そして個人には真の救いをもたらすものということになります。つまり、一人ひとりの救いと全世界の救いをもたらすもの、と言えます。世界は一人ひとりの人間により構成されていますから、一人ひとり個人の救いなくしては全世界が救われる、ということにはならないのです。

 それでは人類の救いとは何でしょうか?
そもそも人間とはいかなる存在であるか?何のためにこの地上に誕生してきたのか?死んだらどうなるのか?死後の世界は存在するのか?こうした最も根源的な問題を究明することを私達は永い間疎かにしてまいりました。ですから、人類の不幸は依然として延々と持ち越されてきたわけです。私達人間は神の分霊であります。故に本質的には神の神性・属性を持ち合わせています。が、あまりにも永きに亘り霊的真理から切り離されてきたために、神から譲り受けた神性・属性は魂の奥深く押し込められ、眠った状態に置かれてきたのです。

 スピリチュアリズムはこの眠ったままの魂を揺り起こすべく、霊界から私達地上人にもたらせれたのです。
「魂の目覚め」「魂の新生」です。
そうは言っても、現実には地上人の多くは「そもそも自分は何ゆえに救われなければならないのか?」「救いなど必要としていない」というふうに言います。本当にそのように思っているのでしょうか・・・。

しかし、片方ではさまざまの問題を抱え苦しんでいる人々が存在します。生きる意味を見出せない、信仰している宗教はどこか腑に落ちない、働けど働けど生活は苦しくなる一方だ、家庭の問題が絶えず生じている、なぜ自分はこんなにも次々と病気に見舞われるのか、どうして自分はこんなに酷い事故・事件に巻き込まれるのか?、このように様々な困難・苦難が押し寄せてまいります。

しかし、実は眠っていた魂が目覚めるのはこの時なのです。そうして世界は今、新型コロナウイルス問題に困惑し翻弄されています。沢山の死者が出ています。人々はパニック状態になっています。これに伴い経済問題は深刻です。

先日、テレビで「2012」という映画を見ました。”世界の終わりーハルマゲドン”の到来を物語ったものです。これを見て今現在の世情を重ね合わせた方も居られたことでしょう。

困難・問題、不幸は誰にとってもあまり歓迎しないことであります。が、しかし、深く眠りこけている魂を揺り動かす、目覚めさせるには並大抵のことではないのです。荒療治ともいえるような厳しく辛い体験を経て始めて、これまで見いだせなかった光明に気づくことができるようになります。絶望のどん底に落ちて初めて目が覚めるのです。地上的な努力だけでは、物の世界には真の慰めとなるもの、希望を与えてくれるもの、魂を鼓舞してくれるものがないことを悟った時に魂が目を覚ますのです。

辛い人生行路は「霊的真理」という目標に到達するための巡礼の旅であったというわけです。

シルバーバーチの霊訓(二) (スピリチュアルズム普及会版) P196には次のように書かれています。

スピリチュアリズムの全目的とは、人類の魂を呼び覚まして一人でも多くの人間に本当の自分に気づかせること、自分とは一体何か、誰なのか、を知ることによって、普段の日常生活の中において霊の本性と属性を発揮することが出来るよう導いてあげることです。

 続いて同じページには

神の子が享受すべく意図されている本来のもの―気高さ、崇高、威厳、豊かさ、光輝、美しさを見出すことでしょう。

とあります。私達がその人格に備えるべく資質は本当に高貴な特質ばかりです。
私は密かに思いました。そこに温かさ、優しさが加われば嬉しいのだが・・・と。でもそれって極めて人間的すぎるでしょうかね。

 シルバーバーチが挙げた本来の人間の備える資質は本当に素晴らしいものばかりです。さて、私自身はどうでしょうか?あなたご自身はどうでしょうか?

高貴さ、どうでしょうか・・・。

美しさ、これは?

そうです、どれ一つとってもまだまだ目標は遥か遠くに感じられますが、しかし、気落ちすることはありません。何しろ、目標は明確に示されていますので、いつも忘れずに、意識して物事に接することです。それ以外に魔法の小槌はありませんので。

私達にはすでに光明が与えられています。あとは勇気をもって志を同じくする同志と励まし合い進むだけです。何事も成就するためには時間と忍耐を要します。巡礼の旅はまだ始まったばかりなのです。これで完璧、という段階は永遠にやってきません。

例えそれが辛い道程であっても、明るい未来への道であることを知っていれば耐えることは出来ます。むしろ喜びを持って歩めることでしょう。あなたが一層の光明を見出すことを祈ります。