一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

人類は進化したのか

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人類は進化したのか

初期の人類とされる猿人の出現から700~130万年たった現在の人類の進化はどうであろうか・・・。
確かに様々な技術は進歩し、伝達手段としての文字、印刷技術、電信、コンピュターの出現。それに各種の科学技術を駆使しての文化的な生活が可能となりました。文明は進んできました。地球外へも行くことが可能となったのです。古代人には想像も出来ない発展です。そしてそれは物質面での発明発見であり、人間としての霊性の進化とはまた、別の側面であります。

人類は太古の昔から、感染症と闘ってきました。古代エジプトのミイラからその痕跡を見ることが出来ます。近代にはいってから、都市が拡大すると衛生システムがなかったので、ゴミ、糞尿、ネズミなどを介して感染症が蔓延しました。14世紀のヨーロッパでペストの流行があり、当時はまだまだ科学も知識も進んでいなかったために、疫病が流行するや否や、都市はたちまち死者の山ができるほどの悲惨な状況となりました。
20世紀になってからは都市の過密化により飛沫や空気感染が広がるようになりました。貧困、戦争や気候変動により飢饉が起こり、これまた餓死者が累々と道端に転がるようになります。そして略奪や殺し合いが起こります。地獄さながらの様相となります。

宗教戦争はいまだに行われており、決して過去の出来事ではないのです。アフリカや中東で展開されている、これらの争いは民族間の争いのように見えてもそれは根底に宗教の違いによるものなのです。
殖民地支配は過去のことのように思ってはなりません。今でもそれは引き続き行われています。チベットウイグルなどはその状態に在ります。
また奴隷制度に関しては、2016年のオーストラリアの人権団体(WFFー私も一時加入していた)の報告によれば、世界で4580万人が奴隷状態にあるということです。その内訳は第一位にインド、次いで中国、パキスタンバングラデシュと続きます。日本でも29万人と報告されています。「奴隷制度」はアメリカの南北戦争時のリンカーンによる、「奴隷解放宣言」によって解決されたのではなく、形を変えて広く根付いています。
インドのカースト制や、世界各地に広まる性的労働や子供の物乞いなど様々です。

 世界は混迷の様相を呈している

現在の世情を見ていると、人類は本当に進化しているのだろうか、とつい疑ってしまいます。
コロナ騒動、そして止むことのない紛争・戦争、人権の無視、為政者の不正や怠慢・疑惑、拝金主義の事業家たち。そして人々の、努力を避けて流れに唯々諾々と従う姿。
例え疑問に思う事や間違っていることに気づいても、表立っては口に出さず、飲み会や井戸端会議で愚痴ります。この背景には何があるのでしょうか。

人間存在の根幹に関わるであろう教育の破壊、精神性や道徳の無視などこれらは放っておいてはならない重大な分野であるはずです。
其れなのに人々は何も考えないように、そしてひたすら保身に明け暮れています。これは為政者から一般的大衆に至るまで等しく見られます。
今がよければ明日のことなど考えないのです。目先の事だけを考えていればそれで良しとし、世の流れに乗って漫然と生きているようです。何のために生きているのかなど、考えることは無駄と決め込んで努力をしようとしません。
ただ死ぬまで美味しいものを食べ、観光地などへ旅行する。(今はコロナでそれさえも出来ない)これでは本当に“生きている”とは言い難いでしょう。“生きる屍”と言っても過言ではありません。こう言うと馬鹿にするな、とお叱りを受けそうですが、魂の抜けた状態は既に“死んでいる“と言えるのです。

第二次世界大戦敗戦後、アメリカ軍は再び戦争を起こさないようにと、日本人を骨抜きにさせる政策を押し付けました。「3S政策」です。Screen(  スクリーン=映画)、Sport(スポーツ観戦)、Sex(セックス=性欲)これを推奨することで大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策です。そして私達はそれを文化的で進歩的であると勘違いをして今日に至っているのです。75年間、まんまと騙され続けてきたのです。私達はもういい加減にそれに気づかねばなりません。
先に“教育の破壊“と挙げましたが、これについて論じるなら、何冊もの本になります。しかし私にはその力量がありませんので、今回は取り上げません。 気になるかたはその関連書をご覧ください。しかし、教育の根幹が間違っているなら、すべては虚しいものとなります。私が申し上げている”教育“とは学校教育を含めた広義の教育を指します。

 無知を克服しよう

私達は多くのことについて、あまりの無知の状態にあります。今や情報は瞬時に地球を一周することも可能になりました。火星の土を持ち帰ることもできるようになりました。科学は多くの事柄を解明してきました。しかし、私達は己自身をあまりにも知らなすぎるのです。例えば、人体はどうしてこんなにも合目的に作られているのかを知っているでしょうか。

最近、私は以下の記事を眼にしてとても感動しました。
「自然界はウイルスに満ち溢れている。庭の土をスプーン一杯すくったら、そのなかには10億個以上の生き物が居る。その多くがウイルスだという。自然界はまだまだ人間の知られていないことだらけです。病気の原因となるウイルスは“悪者”扱いされやすいですが、ポジティブな面もある。ここ20年ほどの研究で解ったことですが、哺乳類の胎児をウイルスが守っている、ということなのです。胎児の遺伝子の半分は父親の遺伝子であり、母親から見ると、半分のたんぱく質は自分とは別の物、母親の免疫系の攻撃で胎児は生きて行けないはずなのに、しかし、生きている。このことが長い間謎だってそうですがこれが解明された。それは即ちこういう事です。おなかの中に赤ちゃんが宿ると、母親の体内にいる常在ウイルスが集まってきて膜を作り赤ちゃんを包み込む。そのことで母親からの免疫系の攻撃を遮断できるというのです。ウイルスがいなければ、我々人間はこの世に存在しなかった」というものでした。まさに人類はウイルスと共存しているのです。自然は一つという証です。

 スピリチュアリズムの勃興

長い人類の歴史を見ると悲惨さや混乱ばかりが目につきます。そして今日の世界でも相変わらずそれは続いております。冒頭で“人類は進化したのか”と申しました所以です。

そもそも「人間とは如何なる存在で、如何に生きるべきか」これが解らなかったからでした。それを2000年前にイエス・キリストガリラヤに現れて、「愛の神」を説きました。しかしその教えも長い歴史の中で肝心の部分が間違った解釈をされて、さらに混迷さを増して今日に至っています。
そして150年ほど前、地上にスピリチュアリズムが勃興しました。正確には霊界の高級霊たちによる、霊界主導の地球人類救済運動であります。これは満を期して行われた一大事業であり、霊界のイエスを頂点とする何十億・何百億という高級霊が結集して行われている人類史上最大のプロジェクトであります。
混迷の続く地上世界ですが、こうした働きにより少しずつ改善の道をたどってきました。ある日突然に何もかもが変わるということはあり得ません。改善は一気呵成に成しとげられるものではありません。
霊界通信が地上にもたらされ、私達はこれまで知ることのできなかった多くの霊的事実を知ることが可能になりました。
こうして一見、何も変化はないように見えても実は地を這うがごとく、静かに、しかも確実に改善してきているのです。ですから、“人類は進化したのか”の問いに“進化している”と申し上げることが出来ます。
地上でスピリチュアリズム運動か展開されて150年たってもまだスタートラインにいると言えます。この後何百年も、あるいはもっと長い期間が必要かもしれません。しかし私達は死んでも死にません。魂は永遠だからです。ですから何ら狼狽えることはありません。
私達は目標を、指針を得ました。努力目標・到達目標です。このように生きればよいという指針です。これは希望です。希望があれば私達は元気に前に進むことが出来ます。どうかこのブログをご覧になった方が私達と共に希望を持って歩めるよう祈ります。

 

自立について

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このたび「キタキツネ物語」という映画をみました。この作品はかなり古く1978年に作成されていて、その当時の私は題名は知ってはいましたが、見てはいませんでした。今回見た作品は2013年に公開35周年を記念しリニューアルしたものでした。
ご存じの方も居られるでしょうが、北海道オフォーツクで展開されるキタキツネの物語です。ここの冬は実に厳しい環境であり、キタキツネも生まれてその冬を越せるものは数匹の中で1匹というぐらいなのです。

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キタキツネの夫婦は5匹の子を産みましたが、翌年の春までに最愛の妻を人間の仕掛けた罠にはまり亡くします。子供たちも5匹の中4匹を失います。
この夫婦は賢明に子供たちを育てますが、私が最も感動したのは時期が来て子供たちの自立を促す様子です。子別れの時です。
それまで優しく大切に接してくれていた親がある日突然に態度が変わり、子供たちを追い出し始めるのです。それは全く情け容赦はありません。どんなに子供たちが親元に残りたくても決してそれを許しません。子供は何がなんだか訳が分からない内に、追い出されてしまうのです。後ろを振替りつつ去ってゆく様は本当に切ないものがあります。

こうした子別れは知床のヒグマに関して過去に私のブログで取り上げました。
自然界では動物たちは自立しなければ生きてゆくことは出来ません。
子供が自立するべき時が来れば、親は子供に餌を与えず、または運ばないで、自立を促す厳しい行動をするのはライオンから小鳥にいたるまで例外なく見られます。

             シジュウカラの子育て日記

自立を促すという行為は何も動物に限られた話ではありません。本来人間に於いても、子供を産み育てるということは即ちその子供を一人でも生きて行けるように、自立できるようにすることが絶対的な使命であります。子供を自立させることが親としての第一の役割ということです。
其れなのに、人間界を見渡してみると耳目を覆いたくなるような育児放棄、虐待、子殺しが行われている現実があるのです。まさにこれは動物以下の所業であります。
動物は神のお決めになった役割を忠実に果たしています。人間だけが何故そうしないのでしょうか?ここに人間界における大きな問題があるのです。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉を聞いたことがあると思います。これは獅子は生まれたばかりの子を深い谷に突き落とし、這い上がってきた生命力の強い子だけを育てるという言い伝えであります。(ここで言う獅子とはライオンのことではなく、想像上の生物であり、実際のライオンは子供が崖から転落したら、すぐに助けに行くそうで、私はそうした映像を見たことがあります)

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転じて本当に深い愛情を持つ相手にわざと試練を与えて成長させるという意味で用いられています。また「かわいい子には旅をさせろ」という言葉も有名です。
本来“厳しくない愛は愛ではない”、“優しいだけが愛ではない”のです。
親は子供を愛するが故に、ともすれば子供を甘やかしすぎて、厳しい局面での人格形成がおざなりにされていることが少なくないと思われます。

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教育というとすぐに思い浮かぶのは学校教育です。しかし、子育てというのは子供が生まれてから直ぐに、いや生まれる前からもう始まっているのです。
ある宗教家は次のように論じています。“夫婦が交わるとき、どのような心境でいるか、これがそこに宿る魂を決める”というのです。これが事実だとするなら何という神秘的で且つ、恐れ多いことでしょう。これは神が”私の子供をそなた達に託す、健やかに育ててくれよ”、と人間に託したということなのですから。人間は斯くの如く、いつでも神の前に真剣で誠実であることが求められているのだと思います。

私は子供を持ったことはありません。子育てもしたことはありません。子供と接したのは小児科病棟で親から離れて療養している就学前の3歳から6歳の幼児たちのお世話をしたことぐらいです。
其れなのに教育だ、幼児教育だ、など語るのは分不相応である、そもそもそんな資格はないと仰せになる方がおられるかもしれません。
確かに実際の経験は極めて大切です。それはそうですが必ずしも全てがそうであるとは言い切れないと思います。親でなくともたとえば保育士であるとか、生活指導員であるとか、さらには幼児教育の専門家はそれなりの貢献は出来ます。また血縁上の親でなくても、里親であっても愛情を持って育てるなら、それは素晴らしいことです。

子供の成長には褒めて伸ばす、ということを推奨する方が多く見られますがが、先にも少し触れましたように、優しいだけではダメなのです。必要なときには厳しい教育が必須です。では厳しいとはどのような事かを、言葉だけでその論旨を伝えきることは私には出来ませんがあえて説明するなら、ただダメと叱るのではなく、なぜダメなのか考えさせることの出来るように促す、ということでしょうか。幼い頃から考える癖を身に着けることです。
幼児教育ではまず「他人に迷惑をかけてはいけない」これを教えなければなりません。当然のことであるから、いちいち口にしない、ではなく何度も繰り返し教えるのです。小さなマナー違反を見過ごしてはならないのです。

 幼いころの教育が不十分であれば、大人になっても真に自立した人間になれないのです。何時までも親に依存し甘えています。親もまたそれが当然のように許しています。なかには親子で共依存に陥り、そこから抜け出せない事例も見られます。確かに優しさには甘美な要素があり、人はそれを知らず知らずのうちに求めます。心地よいのです。安心感をもたらしてくれます。大人であってもそうなのですから、勿論子供はそのようにして親に絶対なる信頼と安心の境地を見出しています。
しかし、いつまでも求めるばかりではなく、成長した暁には与える立場にならなければなりません。
社会人になってもまともに仕事が出来ません。困難にブチ当るとすぐに逃げ出してしまいます。そして挙句の果てには、あの会社が悪い、社会が悪い、といちいち責任転嫁をして逃げ回ります。なかには親が悪いと恨み、怒りをぶちまけることをします。自分で責任をと取ることが出来ないのです。自立できていないのです。確かに自立できていないということは親が責任を果たしていない、親が悪い、と言えなくもありません。即ち子供を自立させることが親の第一の務めであったのですから。が、しかし、実は親の育て方だけの問題それだけではなく、ある宿命のためにそうした生れ方があります。これに関してはスピリチュリズム普及会の「霊性教育」をご覧になることをお勧めいたします。
しかし、いつまでも誰かに責任転嫁をして逃げ回っていても進歩はありません。厳しくても難しくても、助けを求めてでも苦境を打開してゆかねばなりません。
もしも本当にダメ親だったとしても、自分もダメになるのは必然とあきらめてはいけないのです。負の連鎖は並大抵の努力では打開できないかもしれません。しかしやるしかないのです。
ときには厳しくまたあるときには優しく、切磋琢磨してゆきたいものです。

最後になりましたが、ここで強調しておきたいことがあります。人間は霊と肉体から構成されており、本体は霊であり、肉体はそれに付随するものである、と言うことです。ですから霊的に成長することが何にもまして重要なのです。それには先ず「霊性教育です」

 尚、スピリチュリズム普及会では「霊性教育」についての指針を述べています。関心のあるかたはどうぞそちらをご覧ください。

 

ペットロス

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ごく最近私は16年間連れ添った愛猫を失いました。まさにペットロスの状態でした。(というか、です・・現在進行形)次のペットを迎え入れるという選択肢がありますが、60歳超えの人はペットを飼うのは諦めたほうがよいようです。
ペットフード協会によると愛玩動物の譲渡条件として
・60歳以上のみの世帯はダメ
・継続した収入源のない家庭はダメ
・単身者の場合は血縁者の後見人が必要
というのを挙げています。

数日前、ネット上に俳優の秋野暢子さん(64歳)が愛犬を失ってペットロスの状態にあったと書いてありました。いろいろ調べ考えた末、新しくペットを迎えたそうです。上の条件をクリアできるという事だったのでしょう。

アニマル・ウェルフェアなるもの

ペット飼育の最も多い国は南米のアルゼンチン、メキシコが国民の80%、ロシアが73%、アメリカが70%とのことです、日本は最近、ペットと共に暮らす人々が増加していますがそれでも国民の37%だそうです。まだまだ我国ではペットの地位は低く、生命として扱われることは少なく法的は“物“として扱われています。動物愛護後進国と揶揄されている状況です。日本では一般的にペットの入手手段はペットショップですが、ドイツやスエーデンではそういうものは殆ど存在しないということです。これは法的に禁止されているからという理由からではなく、アニマル・ウェルフェア(動物福祉)の精神からペットショップのようなビジネスが成り立たないということのようです。
ただこのアニマル・ウェルフェアなるものが如何なるものか、倫理的な観点から私は決して全面的に賛同できるものではないと思います。というか、間違って、あるいは自分たち人間の都合よいように解釈していると思われます。それを次に説明いたします。

わが国は加盟している国際獣疫事務局(OIE)から出されている勧告により、「アニマル・ウェルフェアとは家畜を快適な環境下で飼養することにより、家畜のストレスや疾病を減らすことが重要であり、結果として、生産性の向上や安全な畜産物の生産にもつながることから、農林水産省としては、アニマル・ウェルフェアの考え方を踏まえた家畜の飼養管理の普及に努めています。」としています。これは家畜を人間の所有物、つまり食料として見ているにすぎません。けっして動物の福祉のための理念ではありません。「動物福祉」とは「動物が精神的・肉体的に充分健康で、幸福であり、環境とも調和していること」です。動物も人間も命あるものであり、感覚があります。彼らにも基本的ニーズ(生理的、環境的、行動的、心理的、社会的)があり、人間と共有しています。これらを出来る限り充足、快適に苦痛なく生活できるよう配慮することが人間に求められているのです。これがほんとうの動物福祉と言えるものなのです。

わが国におけるペット飼育事情

最近、ペットと共に暮らす人々が増加しています。特に昨今はコロナの影響で外出自粛など、国民生活全般に制限が求められ、ペットを求める傾向が一段と増しているようです。そうした中で、ただ可愛いから、癒しになるからという理由だけで無計画に飼い始めてすぐに放り出す人がいることに、動物愛護団体などは苦言を呈しています。また多頭飼育などで動物を虐待すること及び近隣の住民や地域社会に迷惑をかけるという問題も発生しています。ペットの飼育をやめる、即ち捨てるということの主な理由は以下です。
認知症などの病気
・金銭的、身体的限界
・飼い主の死亡だそうです。
このように高齢者のペット飼育に関する問題が多発しています。最近の犬や猫は人間同様かなり長生きをするようになっています。犬であると、14、5歳、猫は20歳前後ぐらい長生きする子も居ります。そうして飼育する人間も同時に高齢になります。
やがて病気や体力・気力の衰えがやってきます。世話が難しくなります。別の問題としては経済的困難、そして環境の変更に関する難問の生じることもあります。さらにはペットを残して自分が先に旅立つことも起こります。こうしたことはペットにとっても飼い主にとっても辛いことです。
高齢者にとってはペットは重要な相棒・同伴者となります。世話をすることが生きがいとなっているのです。先に挙げたいくつかの制限により、高齢者はペットを諦めなければならないとするなら、それは悲しいことです。現在、それでも何とか高齢になっても、いやむしろ高齢になったからこそ、ペットとの時間を持てるようにとの工夫がされつつあります。

アニマルセラピー

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動物は私達人間の「触れ合ってつながりたい」という欲求に応えて、癒しを与えてくれる存在です。その癒し効果は直接触れなくても、傍にいるだけで得られます。たとえば「犬と人間が互いに目を見つめ合うことで、双方に“愛情ホルモン”というオキシトキシンの分泌が促進される」と言います。人間の夫婦間でもなかかなか見つめ合うなど出来ないのですが、かれらはそういうことが可能とするのです。何という幸せなことでしょうか。しかも犬や猫は気配を感じ取るのが得意で、飼い主の気配を感じていろいろなことを察してくれ、一緒にいて楽しい存在なのです。飼い主が病気の時、言葉はありませんが傍らに寄り添ってくれます。
高齢者にとってペットとの生活は沢山のメリットがあります。散歩に行く、一緒に遊ぶ、生活の世話などを通して高齢者の健康面、生活習慣の改善がもたらされます。
今、高齢者施設のあちこちでこの癒しを与えてくれるアニマルセラピーが実施されています。高齢者たちは満面の笑みで彼らを迎え、触れ合い、生き生きと別人になったかのように振る舞うそうです。
次はある麻痺のある高齢者のリハビリに貢献出来たというケースです。片手が麻痺し握ったまま開かない状態にありましたが、その硬い手の中に犬の大好きなおやつを握らせ、犬に与えるという動作です。開かないうちは犬も訓練をうけていますから、開くまでじっと待ちます。老人は何度も開こうと努力し、ついにはあれほど硬かった手が開くようになったという話しです。これはすごく感動するお話しでした。

ペットが私に与えてくれた事

最後に愛猫が私に与えてくれた大切なことを記したいと思います。
私は独身で今日まで生きてまいりました。看護師として20数年働いてきました。この間両親を看取り、仕事上でも沢山の方たちの死に立ち会ってきました。
職場では患者さんの死に関わっても泣いてはいけない、という不文律があります。この不文律の存在に関わらず私は決して涙は見せませんでした。若い人、子供さんの死であってもそうでした。両親の死でも同じように涙は一滴も生じませんでした。それなのに何という事でしょう、愛猫の死に私は泣いていました。自分でも驚くほどでした。もう必要のなくなった猫皿をみて涙が止まりませんでした。
一体これはどうしたということでしょうか・・・。

私は10数年前から、スピリチュアリズムを学んできました。それにより、真理に沿うような人間に生まれ変わるように努力の日々を重ねてきました。
スピリチュアリズムは人間とは如何なる存在か、死とは何か、人間如何に生きるべきか、神は存在するのか、を教えてくれました。スピリチュアリズムは私を雁字搦めにしていた鎖を解いてくれました。私を暗く不自由な檻から解放してくれました。人間との付き合いは困難で親友もいない、恋愛や結婚も縁がなかったなど随分と偏った人間であるという自覚はありました。そこに光をもたらし、これからの道標を明らかにしてくれたのです。
そうして幸いにも愛猫との心を開く関わりが可能となり、それまでの乾燥しきった硬い心が柔らかくしなやかになったのだろうと思われます。相手はペットではありましたが、これまで発揮できなかった”愛情を注ぐ”ということが見事にできたのです。彼は私の真の友人であり恩人でありました。

                                

永遠の旅人

          天国の花畑 | 植物 > 花・花びら | GANREF

「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」と説かれましたが、死後生命への信仰心に欠ける地上の人間には、それを実践する勇気がありません。
                          シルバーバーチの霊訓(四)p19 潮文社刊
 冒頭にルバーバーチの言葉を紹介しました。
今日はこれについて考えて行くことにいたします。
「永遠の旅人」とは何でしょうか?
これはまず、人間は死んでも死なない、ということを理解しなければなりません。つまり、目に見えるこの肉体は死んでも、魂(霊)は死なないということです。
私達人間はこの地上にオギャーと言って誕生し、それから幾多の喜びや苦難を体験するという人生の旅をします。それと同じく、死んでこの地上を去った後も霊界で永遠に生き続ける、旅を続けるということを言っているのです。
 現代社会、特に先進国においては物質科学偏重の世界観に覆われているため、死後の世界を説かれても容易には受け入れがたいようです。科学がこの地球上の全ての問題を究明してくれる、今はまだわからない事であってもいずれ科学が解決してくれる、という考え方です。

ここで世界の宗教人口、および無宗教人口について調べてみました。
キリスト教:24億人
イスラム教:19億人
ヒンズー教:11億人
無宗教:13億人
 (2021年キリスト教研究所資料より)

 無宗教はどこの国に多いか気になるところであります。
このブログを見ていただいている方はお察しの通り、第一は中国で人口の6割強です。そしてなんと第二位は我が日本であるというのです。これは日本人の半数以上であります。ただ、無宗教と自認してはいるものの、その人たちの多くは何らかの精神的、信仰を持っているとされています。
その証拠に結婚式はキリスト教会で、お葬式は仏教寺院で、新年や七五三の祈願は神社で、という風にしっかりと宗教的生活を取り入れています。
また何気ない日常会話のなかでも、天国でまたお会いしましょうとか、今度生まれ変わったら何になりたい等々。
このように私達日本人はおぼろげながら、あの世(霊界)の存在や魂の存続を知っているのです。ただ、それはちょっと照れながら語り、更にアカデミックな場では決して口にしたりしません。
信仰心があることを何処か恥ずべき事のように取り扱っているのです。
科学的ではない、迷信であると後ろめたさを感じているようなのです。これは一体どうしたことによるのか。先に述べたように、物質万能主義、神など科学によって存在証明できないものなど居るわけはない、という唯物思想から来るのです。
しかし今現在は時代が進み、多くの有識者、そして科学者と言われる人たちの中にも人間とは肉体と精神と霊から構成されている、霊界は存在し死後そこで生き続ける、ということを表明するようになりました。
唯物論者の遅れた論理に惑わされてはならないのです。自分の理性・知性・感性を研ぎ澄まし、真実を知らなければなりません。これは何も宗教や信仰に関わることだけではありません。日々の生活全てにおいて言えることであります。

私は個人的には今、世界を混乱に陥らせているコロナ騒動についても真実を知って正しい対処をしていただきたいと思っています。無責任な情報に振り回されて、どうしようと右往左往してくたびれ果てている人々が沢山おられ、本当に痛ましいことです。
長い地球の歴史上、最大級ともいえる災難でしょう。今、どうしてこのような事態を招いたのか人類は悟らねばなりません。

 ここで今回のテーマである、永遠の旅の話に戻ります。
「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」と冒頭に挙げました。これはどういうことかと言いますと、今私達はこの地球上に住み暮らしています。この世を人生という旅しているわけです。この世にはこの世なりの法、秩序があり、それぞれそれに従って生きています。しかし、それも地上の未熟な人間の智慧や経験から編み出した決め事であり、間違いや不完全なものであり、永遠の神の定めた摂理に沿わないものが多いのです。人間とは如何なる存在であり、如何に生きるべきか、これを理解してこの地上生活中に本来の在るべき生き方へと変換してください、ということなのです。

物質万能主義に汚染された現代社会では、何よりもお金第一です。お金と物さえあればどうにでもなる、幸せを手に入れることが出来ると勘違いしています。沢山の物を欲しがります。立派な家・高 級車・美食や飽食・高価な衣服や装飾品・地位や名誉を欲しがります。そうした物欲や名誉欲を満足させるために、他の人と競争しながら大切な人生をあくせくして地上人生を終えてゆくのです。
それが人間の在るべき姿なのでしょうか?違います。そうではありません。
しかし、人間はこの地上での人生だけしかない、死んだら全て終わりと思い込んでいるからそのような生き方をしてしまうのです。
”どうせ短い人生さ、大いに飲んで食べて楽しもうではないか”とは、その昔誰かが言い放った言葉です。現代人はこうした生き方を是としているのです。享楽的・刹那的な人生です。いえ、心の底からそのように思っているのではないのでしょう。が、どうしようもないという事なのかもしれません。
この世にあっても神の定めた永遠の摂理を理解して生きてください。そしてそれはすでにこの世にあってもこの世の者ではないということなのです。
迫りくる苦難もそれ相応の理由が存在します。スピリチュリストである私達は、それを 霊的視野に立って眺めるように努めています。どうかこれを読まれておられる皆さまもシルバーバーチの霊訓に触れてください。心よりお願い申し上げます。

 今、世界はコロナ騒動で大混乱の中に在ります。さまざまな意見や誠しやかなデマなども出回り、大いに混乱させられております。しかし私達は愚かであってはなりません。学者が言うことだから、権威ある者が言う事だから、と鵜呑みにしてしまうことは危険です。人類はこれまでの歴史に、そうしたことに惑わされて大きな間違いを仕出かしてきたことを見て取ることが出来ます。人間は何でも出来ると勘違いしてはなりません。まだまだ分からないことが多く在ります。神と摂理の前には謙虚であらねばなりません。

それでも私達は絶望することはありません。次のシルバーバーチの言葉をお読みくださいまして、心を落ち着かせて頂きとうございます。
 科学者のすることにも限界があります。どんなに間違ったことをしても地球全体を破壊してしまうまでには至りません。自然の摂理によって、地上でなされる被害は一部の人間が考えているほど恐ろしいものとはならないようになっているのです。しかも、究極的には大霊の意志が地上に行きわたることになっているのです。その計画を挫けさせられる人間は地上にはいません。遅らせることは出来ます。邪魔することもできます。しかし大霊を支配することは出来ません。
大自然の摂理の仕組みと働きについて幾ばくかの見識を得たわれわれは、いかなる事態が起きようと、あるいは人間がいかに愚かしいことをしでかそうと、大霊の意志は必ず行き渡るとの確信をもつことが出来ます。そしてその摂理によってますます多くの愛と哀れみと慈悲と互助とが地上で行使されるようになります。

                     シルバーバーチの霊訓(二)p151~153  潮文社

エドガー・ケーシーについて

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エドガー・ケーシーはどのような人物だったのか

歴史上、真理と神に忠誠を捧げた先人は沢山存在しました。今日はその一人であるエドガー・ケーシー(1877~1945)について考えてみます。

彼は“眠れる予言者”と呼ばれ、催眠状態でリーデングをおこない、医師も治せない難病で苦しむ多くの病める人々を癒しました。46歳から67歳で亡くなるまでの22年間に2万件にも及ぶリーデングを行ったということです。リーデングとは目に見えない情報を読み解くということであり、ニューエイジの思想に大きな影響をもたらしました。
彼は自宅のソファーに横たわり、数分もしないうちに催眠状態に入り、声も威厳に満ちたものに変わり、リーデングが始まります。この時、対象である病人は目の前にいても、遠隔地にいても変わりはないのでした。

ではその情報は何処から来るのかに関しては霊界には宇宙のあらゆる情報が貯蔵されているアーカシックレコードと言われるところがあり、彼の特別な能力によってアクセスして得るのだ、あるいは霊界の誰かによって情報がもたらせられているのだ、などと説明されています。この誰かについては、今日、スピリチュアリズムによって明らかにされましたが、それは霊界の指導霊ないしは霊医のことであります。そしてさらに重要なこととして、如何にすぐれた能力の持ち主であっても、地上人には直接アーカシックレコードにアクセスすることは不可能であることも判っています。
このように稀有な実績を持つケーシーでありますが、彼の歴史上の使命は何であったかを、スピリチュアリズム普及会では次のように説明しています。

「彼の役割はどこまでも伝統的キリスト教に対して、スピリチュアリズムの霊的真理普及の道を準備し、初期的な霊的道筋をつける、という事でした。」
詳しくはこちらをご覧ください。
(スピリチュアリズム普及会 ニューズレター11号 スピリチュアリズムから見たエドガー・ケーシー)

スピリチュアリズムから見たエドガー・ケーシー

ケーシによって、これまでのアメリカの伝統的キリスト教にはなかった、「死後生の存在(霊魂説)」「輪廻転生の存在(再生説)」「カルマの法則の実在(カルマ的因果説)」の可能性が示唆されたのです。これこそがまさにスピリチュアリズムの流れの中における彼に与えられた使命だったのです。彼は立派に霊界とのパイプとして、霊媒として使命を果たしたのでした。

ケーシ・リーデングは現在、研究と啓蒙の財団(ARE)として孫のチャールズ・トマス・ケイシー氏が引き継ぎ、世界的組織として活躍しています。

 ケーシー・リーデングは時代遅れ

ケーシー・リーデングは大きく分けて二つあります。フィジカル・リーデングと言い、病気治療に関するもので圧倒的に多く、そしてライフ・リーデングと言い、生活に関するもの、その他になります。
フィジカル・リーデングは当時は圧倒的な治癒率を挙げていました。しかし現在の“ケーシー療法”の忠実な継承者は成績をあげることが出来ません。それはケイシー療法の本質は「心霊治療」であるということの理解がされていないということ、そして100年まえの治療法は既に古く使い物になりません。当時のアメリカ人の体質も大きく変わっている(劣化している)ことからも当然のことなのです。

 先人の偉業を我々はどう見るか

歴史的な偉業をなしとげた人物は多く居ますが、スピリチュアリズム運動が地上で展開する以前ではどうしても過渡的な仕事ととなります。それ故、現在から見ると間違いや不足が散見されることになります。それは仕方ないことであります。しかし、時代を切り開くための大きな仕事であったことはまぎれもない事実なのです。それまでのキリスト教にはなかった「霊魂説」「再生説」「カルマ的因果説」という事実を明らかにしてくれたのです。まさにそれは偉業でした。
私達は先人の仕事を尊敬の目を持って見るようにしたいものです。そうした視点を忘れることなく、且つ、今現在、時代が進み最新で最高の真理を正しく求めることが重要になるのです。

 カルマと再生に深く思いを致す

この度、「転生の秘密」「エドガー・ケーシーの全て」「エドガー・ケーシーの超リーデング」の三冊及び「ニューズレター№11 普及会のスピリチュアリズムから見たエドガーケーシー」を再読いたしました。
私達は自分自身が再生の人生を送っていること、そしてそれは己の霊的成長のため、つまりは過去世で負ったカルマを清算する人生である、さらに言えば不足している面、欠けている部分を補うためである。このことは十分に理解しているつもりです。
ですが今回再学習することで、言葉での理解を超えた何かしら、迫りくるものを感じることとなりました。
今現在、苦境に在るということは、今だからこそ(今世だからこそ)カルマという負債を返却できるだけの霊的成長が成されたからであるというのです。もし少し前の前世や、あるいは今世でも、もう少し若い時では到底気づかないで返却は不可能であったからなのだというのです。とても納得がゆきました。

心に沁みる言葉を以下に挙げます。

「これはあなたのカルマです。しかし、それに対しあなたには出来ることがあります。」
「病気の場合、心の持ち方を変え、憎しみや敵意を完全に取り除くように。」
「この人は何のために病気を治したいのか、自分の肉欲を満足させるためか、ますます利己的になるためか、もしそうならば、今のまま治らぬほうが良い。」
「カルマの法則が存在するのは、霊魂の誤りを正すことにある。従って懲らしめを受動的に受け入れるのではなく、自分の置かれた窮状の持つ霊的教訓を学ぼうと積極的に努力することが大切だ。」
「ある人が窮状に在るとき、その苦しみに対して冷淡であることは己自身にカルマの懲らしめを招くことを知ってその人を助けるべく努力しなければならない。」
「カルマは解放者であり、友である。」

今世で私は女性性に関する幾つかの苦しみを味わってまいりました。それは極若いころから始まっていました。そして近年になり、女性性の象徴である、子宮と卵巣、さらに片方の乳房摘出という憂き目にあいました。このことは何らかのカルマに由来する、ということは感じていました。
今回それがよりしっくりと腑に落ちた、といいますか、理解が深まりました。
つまり、過去世において自分はそれに見合う事をしてきた、ということです。
例えば、ほんの例えですが、過去世のどこかで、私は男性で外科医であった、そして無慈悲にも、女性のからだを切り刻んできた、あるいはもっと違う形で女性性を踏みにじったという具合です。

私は霊能者に自分の過去世を教えてもらいたい、など考えたこともありません。
自分の過去世をあえて知る必要はないと言われていますし、自分の今置かれている様子からおおよその推察は可能です。
これまでの体験の上、書物からではありますがカルマと再生についてより深く知ることでその実態が理解出来、より謙虚により従順に負債の返却に向けて努力できるように思いました。転生の実情を知ることで、何故現状があるのかが分かります。

人は永遠の生を送る旅人であり、決して急いだり焦ったりする必要はなく、ゆったりと心を落ち着けて行こうと思います。いつかはカルマを清算し魂を清め、より清浄な域に到達できるとの希望を持って、人生の究極の目標である霊的成長を目指します。
喜びの内に。

参考・引用文献
「転生の秘密」    たま出版 ジナ・サーミナラ著   
エドガー・ケーシーの全て」 サンマーク出版 
エドガー・ケーシーの超リーデング 」 ヒカルランド

   霊主肉従、そして我が家の花たち

              我が家のクリスマスローズ 

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 先日、体調も良いし春めいて天気も良いし、ということで少し遠いのですが何時も行く公園までゆっくりと2時間のウオーキングをしてまいりました。しだれ柳が萌黄色に輝いており、早春の気配を満喫できました。往復とも快調でとても満足しました。が、翌々日から一気に体調不良、気力低下に陥りました。

一体どうしたというのでしょうか。冬中殆ど運動をしておらず、いきなり2時間のウオーキングは今の自分には強過ぎたということ、それから最近体調が良いことから食べる量が多くなっていて体重が増加していたことです。これらは心臓に対して大いに負荷を掛けます。 以前もお知らせしていますが私は慢性心不全で、心不全診療ガイドライン(軽いほうからA、B、C、Dと4つに分けている)の病期区分によれば、Cに該当します。これらに関しては十分に知っているはずでした。しかし、行動は間違っていました。知識が身に付いていないのです。自己コントロールができないのでした。
自己嫌悪に陥り、数日悶々としておりました。気分が沈み、エネルギーが湧きませんでした。 “体調が良い“、これは喜ばしいことなのですが、ここにも落とし穴があったのす。”わ~い、体調よいぞ~、ウオーキングしよう、沢山食べて元気をつけよう~“という極めて思慮のない短絡的な発想です。 つまり、これは肉体面に注意が注がれ霊的なことを疎かにした、ということになります。「霊主肉従」から「肉主霊従」の状態に陥ってしまっているのです。

私は医療に従事してきた人間であり、病気は敗北を意味し受け入れられない、”健康であらねばならない”という呪縛に絡めとられていたようです。

しかし、病気はこれまでの(過去世も含めて)摂理違反の結果であり、それは謙虚になり素直に受け入れなければなりません。受け入れられない、ということはすなわち傲慢であるということです。

私は健康問題、日常生活のありかたに関しては、専門分野であり自信をもって周囲の人たちに語ってきました。それなのに何ということでしょうか・・・。自分は何も出来てはいない、知識も上辺だけのもので少しも身に付いていない。他人に語る資格などこれっぽちもない。これまでも私は冷静さに欠ける、という自覚はありました。一呼吸おいてから返事をする、答えるということを自分に言い聞かせてきました。
でも、まだまだ出来ておりませんでした。
健康を考えるとき、私は肉体をもつ霊である、という人間存在の根幹を決して忘れてはならないのです。今、自分の肉体は病気であるが私の本体は霊であり、その霊は決して病んではいない、肉体は惨めな状態にあるが、私自身はけっして惨めではない、気落ちすることは全くないのです。神の分霊であり、至高なる所を目指している貴重な存在であるという自覚です。しかし、残念ながらしばしば失念しておりました。
病気であることはある意味でむしろ好ましいとさえ言えます。病気により肉体が弱まり、霊的な感性が鋭くなるからです。一種の修行と言えます。

この時の私は体調が良い故に、”よし頑張ろう”と肉体面のことに関心が向き、霊的なことが疎かになっていたのです。若い頃登山が趣味でした。”やれば出来る”、という全能感がふと、よみがえるのです。そうして、今の状態を忘れで無茶をしてしまう、コントロールが出来なくなってしまうのです。自己コントロールが出来ない人間、霊優位の生活の出来ない人間はそもそも、真理を語る資格はないと言えるでしょう。
しかし、私達地上人は発展途上の未完成の人間でありますから、繰り返し過ちを犯します。そこで反省し、努力するという道しかありません。

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 ここでスピリチュアルズム普及会のホームページからの文章を引用させて頂きます。

スピリチュアリズムの思想【Ⅲ】(3)スピリチュアリズム人生の第1歩は、霊優位のための闘いからの抜粋です。スピリチュアリズム普及会 第1公

 「霊優位」は人間が霊的存在としての立場を確立するための必須条件です。そして「人間は霊と肉の二元からなる存在である」「霊と肉はそれぞれ反対の方向性を持っている」したがって「霊と肉の間で葛藤が生じるようになる」「霊優位のためにはなんらかの闘いや修行が必要とされる」霊優位の状態では周りの人たちに対して愛の想いが湧き、肉欲が消え、エゴ的な思いがなくなり、霊的な心地よさ、すがすがしさ、明るさ、喜びを心の底から味わえます。そして「肉主霊従」という摂理に反した不調和な状態が続くとやがて心身の苦しみ、痛みを感じるようになります。それが限界にまで至ると、否応な「霊優位」の方向を目指すようになります。地上人類はこのように「霊優位」の状態と「肉優位」の状態の間を行ったり来たりする中で、少しずつ霊的成長の道をたどってきたのです。“三歩進んで二歩下がる”ということの連続です。

 今回の落ち込みも決して無駄ではなかったと今、思います。無理をせず頑張ります。
皆さんも世の中不快なことが多々ありますが、そのようなことに心を乱すことなく、平静心で生きてまいりましょう。

 お終いに気分一新のためになるかもしれませんので、我が家の庭の様子をお伝えしようと思います。北国にもようやく遅い春がやってきました。 

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今年も真っ白なクリスマスローズが咲きました。ヒヤヒンス、水仙も咲きだし、これからチューリップも赤、黄、白、橙、サーモンピンクと咲き誇ります。心浮き立つ季節です。狭い庭には約100種類の草木が植えてありますが、今年は少し整理してすっきりさせようと思います。増えすぎたことと、私自身の体力的な制限からあまり手を掛けられなくなりつつあるからです。花や木々は愛情をもって関われば、しっかりと答えてくれます。それが嬉しく天気がよければ毎日お世話しています。

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 ついでに紹介します。我が家の愛猫タマゴローは16歳になり(野良猫だったので正確な年齢は不明)、食事量、動量ともに少なくなりました。毛並みもボサボサとなり、毎日マッサージしています。私は花も動物も生き物が大好きです。地上人の全てが生き物を大切にしてくれるならこの地上世界はどんなにか美しく輝くことでしょう!!

 

宿命のドリル

孤独の猫 に対する画像結果

先日「あの世を味方につける生き方」という本を読みました。著者は美鈴という霊能者です。本の内容全体がどうであるかをここでは論じませんが、一つだけ考えさせられることがありました。「運命と宿命」というところです。
著者は言います。人はそれぞれ「宿命のドリルを持って地上にやって来る」という件(くだり)です。
これはつまり、人はそれぞれが成さなければならない宿題、あるいは使命を持って地上人生を生きるということです。前生、あるいは前々生で出来なかったこと、やり損ねたことを成し遂げるためにも今生の人生があると言います。

再生の目的は進化のためで、進化とはカルマの清算であり、魂の浄化であり、過去世からの果たせていない課題の成就です。そのために必要な運命が用意されており、用意され、というよりは自らが選んだ運命と言ったほうが良いでしょう。その運命を乗り切るために因果率の働きで数々の試練にあうのです。再生のもう一つの目的は“使命”の成就の為です。スピリチュアリストの再生の目的は、個人的なカルマの清算や自分自身の浄化(類魂の進化)の為だけでなく、それと同時にこの“使命”のためでもあります。

ここでは使命については触れません。
私が常に頭から離れないことがあります。「私は今生の人生で何を成し遂げようとして地上にやってきたのだろうか」ということです。これまでの過去世で、やり残した事、課題とは何か?
特に意識しなくてもその課題を解決するように霊界は導いてくださる、人生は自然にそのような道に導かれるのでしょうが、私はとても気になり考えずにおられませんでした。その結果、自分は「真に魂の底から、愛し信頼しあえる人間関係を築く事」であるように感じられました。

私の父親は頑固で自分勝手でDV男でした。母親は鈍感で優柔不断で愚痴ばかり言っていました。ここには夫婦愛も円満な家族関係もなく、当然信頼関係なぞありませんでした。こどもたちは本心を語るということはなく、ただただ親の顔色を見て生きていました。“家庭“とは如何なるのものかが全く分からずに大人になったように思います。

私は第二次世界大戦の最中に東京に生を受けました。戦局が怪しくなり東京大空襲がすぐそこに近づいて来た時、やっとの思いで北海道に逃れてきました。そのときの苦労を後に母が語ってくれたことがありました。「お前(2歳の私)を背負ったまま青函連絡船から飛び降りよう思った」と。その時の母の様子を後に私は想像してみました。多分こんな様子だったことでしょう。
背には2歳の私、片手には4歳の姉、もう片手には風呂敷包み、母の背後には6歳の兄がとぼとぼと歩いている、そして真っ黒い煙を吐く汽車で北海道に向かう。多分母は私の弟を妊娠していたことと思われます。では父はどうしていたのか?ということですが、父は10歳の姉が学童疎開で千葉の寺で生活していたのでそれを迎えに千葉へ立ち寄り、私達とは行動が別となったのです。

北海道での暮らしは本当に何もないところからのスタートでした。2歳か3歳の頃ですが覚えていることがあります。父が建てた家で、床は土の上に筵(むしろ)を引いただけ、壁も屋根もクマザサです。それだけです。そこに一家6人が暮らすのです。嵐が来なければ何とか雨風を防げたのです。そうして雪が降る前に近所の大工さんにお願いして、床のある家を建ててもらうことができましたが。

こんな暮らしでしたが、嬉しかったこともありました。何もない生活でありながらも、母が東京で購入してくれていた綺麗な着物を祭りの日に着せてくれたこと、毎年一度は母が手造りの洋服を作ってくれたこと、などです。私は子供の頃から奇麗なものが大好きでした。多分それは母がおしゃれ好きで、娘にも綺麗なものを着せたい、という気持ちからなのだと思われます。成長してからも、厳しい生活を強いられた時期でもなんとか少しでも綺麗でありたいという思いを持ち続けました。またナースの仕事をしていた時には誰もしていなかったことですが、ユニフォームにポケットチーフを欠かすことはありませんでした。私は今も綺麗な事、綺麗なものが大好きです。自分の庭を綺麗にし、家のなかも綺麗に保つようにしています。出来るだけ身ぎれいにして、他の人に不快を与えないように気を付けています。自分の身近な環境を、暮らす社会を、世界を綺麗にできるように何等かの働きができることを望んでいます。これは外面だけの話ではなく、内面の、魂の内側の美を希求しているのです。

私の子供時代はいじめの毎日でした。「都会から来た子」というレッテルを張り、恰好のいじめの対象とされたのです。そうして此のことは親にも教師にも言えませんでした。ひたすら耐えることのみでした。子供の時から友達はなく、いつも孤独でした。どこにも自分自身をさらけ出して気を楽にする所はありませんでした。あったとするならば猫と遊んでいるとき、それと住んでいる山奥の大自然の懐に抱かれている感覚に浸れるときであったように思います。どこまでも青く澄み渡った空を、降り積もった真っ白な雪の上に寝転んで眺めます。物音は一切聞こえません。静寂過ぎて宇宙の鼓動が聞こえます。自分は無く宇宙と一体の感覚になるのです。素晴らしい体験でした。

幼少のころの山奥での貧しく(当時は誰もが貧しかった)、且つサバイバルな生活、高校生になり一人での自炊生活のため栄養不良で脚気、更に炊事に使った炭火で一酸化炭素中毒で2度死にそうになったりしながら、なんとか死なずにやって来られました。成人してからの宗教教団での厳しい生活などをを通して、困難に耐えてゆく底力が培われたものと思っています。
私はこうして霊界から強くなれ、忍耐強く在れ、と鍛えられてきたのだと思います。

課題を達成することは簡単ではなく、厳しい試練が必要なのです。これでもか!というような試練が必要であったのです。 そして単に試練を受けるだけではダメで、それを乗り越えなければなりません。信頼することが出来きなかったなら、出来るようにならなければなりません。 愛することが出来なかったのなら、出来るようにならなければならないのです。

体験して来た事柄が間違っていた、ということを理解しなければ新たなスタートは出来ません。スピリチュアリズムの訓えはこれを強く自覚させてくれました。間違いは正さねばなりません。出来なかったことはやり遂げなければなりません。自分自身を作り変えるのです。
スピリチュリズム的人生とは、このように人間関係や社会の軋轢による葛藤を繰り返しつつ、過去世を含めてこれまでの人生で成しえなかった事を成就する生き方です。
私の中で大きな位置を占めていた課題である、対象を信頼する、愛する事の幾分かは達成できたように思います。スピリチュアリズム人生とはそう意味で厳しい試練の人生なのです。私は好き好んで皆さまを脅したりしようという思いは全くありません。ただご自身の人生の意味をご理解いただき、勇気を持って立ち向かって頂きたいと願うばかりなのです。

私は自分に課した課題を達成し、待っている類魂のもとへ帰還したいと思っています。類魂の仲間たちはきっと喜んで迎えてくれることでしょう。“おかえり!よく頑張ったね”

今度こそ本当の人間になりたいのです。“ミニチュアの神“とシルバーバーチが言う、本来の人間です。神の属性を顕現できる人間です。今生の人生は短いですがもう少しがんばります。神の願われる人間を目指して。

今回は不肖私の生い立ちなどを書かせていただきましたが、何某かの参考になればと思います。
地球上の全ての人間が作り変えられるならば、地上天国は出来上がるのです。一気に全ての人間が作り変えることは不可能です。が、気づいた者たちから、行動し努力することしか方法はありません。実に気の長い話ではありますが、人間は永遠に生きるのです。死んでも死なないのです。宇宙も地球も存続し続きます。そういう訳ですから、決して焦ることなく、倦むことなく努力してまいりましょう。