一スピリチュアリストの声

10年前からスピリチュアリズムを学んでいます。まだ学びの途中でありますが、これまでに学んだこと、経験をふまえて綴ってまいります。                                                                                    

霊的視野から観た回顧録

         

 これまでも、自身の人生を振り返った記事をブログにアップしてきました。今回は少し趣を変えてみます。 霊的視野から自分自身の人生を観るという試みです。80歳を迎えて、この地上ではできることは殆どありません。しかし、同志の闘いの後方支援という仕事なら少しは出来ます。そうして、改めて自分自身の人生を霊的視野で整理してみようと思うに至ったという次第です。

  スピリチュアリズムとは「霊界主導の地球人類救済計画」であります。霊界主導とあります。イエスを中心とした大霊団が結成されていて、一糸乱れぬ計画に基づき精力的に霊界人たちが働いています。更に、地上での仕事をするための人材が必要となります。2000年前にイエスが12弟子を選ばれたように、この地上での仕事を担当出来る人材を早くから見定め・指導してこられたのです。そのことを私達地上人はなかなか知ることができません。どうしても地上的な視野からしか物事をみることが出来ないのです。しかし、霊界は間違いなくそのように動いてきました。
 霊界はまず霊界と親和性のある人物を探し出します。ある時にはその人物が生まれる前から、その人物に白羽の矢をたてて、導き・指導を開始します。シルバーバーチの交霊会で霊媒を務めたモーリス・バーバネルがそうでした。本人が好む・好まざるに関係なく、また意識しないうちに、さまざまな手段を用いて導き・訓練が成されていきます。
 では、自分は何故スピリチュアリズムに出会ったのか?
それをここで振り返ってみようと思います。 私は十数年前にヨーガ教室で講師の持っていた「シルバーバーチの霊訓」を眼にし、すぐにそれを借りて読みました。12巻全てを読み干すまでそれほど時間は必要ありませんでした。何しろ乾いたスポンジが水を吸うがごとく全てに納得でき、アッという間で読破したのです。其れからの人生は寝ても覚めてもスピリチュリズム、というように変貌してしまったのです。
  次に、ではなぜヨーガ教室に通うようになったのか?
事の始まりは、新聞広告で「アーユルヴェーダ」(ご存じの方も多いとは思いますが、インドの伝統的医学であり、かの地では保険適応となっています)の講演会の案内を目にし参加しました。そこの受付に置いてあった「ヨーガ教室へのお誘い」のチラシに惹かれたというのが成り行きでした。
  私は長年医療者として生きてきましたが、アーユルヴェーダは現代西洋医学のさまざまな問題点にたいして、何らかの回答を与えてくれるのでなかろうか、という期待からでした。
  私は高校を卒業する少し前に、ある“啓示”を受け取りました。それは “おまえは修道院へ行け”というものでした。え!?何故私が?と思いました。教会に行ったこともなければ、聖書を読んだこともありませんでした。どうすれば良いのか皆目解りませんでした。そこでふと看護学校へ行こう、と思いました。深く考えもせず、何となく同じような所という単純な考えからでした。果たしてそこは全寮制の学校で、日本赤十字社が設立母体であり、戦後15年ばかりしか経っていない頃でしたので、規律はしっかりと保たてれており、先輩後輩の関係は厳しいものでありました。そして有事には戦地へ赴くことが義務化されていました。
 毎日の朝礼時には「ナイチンゲール誓詞」なるものを全員で斉唱します。
それは次のような言葉から始まります。「我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん・・・」というものであります。このように知らぬ間に毎日神様の前に立っていたのです。何も知らない者に、神の存在や信仰心、道徳観念などを教えようと霊界は導いてきたのであろうと今は解ります。
  神を崇敬する、全体に奉仕する(看護職というのは病める人々に奉仕することを天命とするとされていた)という、きわめて崇高な精神を育んでくれる所でした。何も知らない真っ更な精神にはすんなりと浸透していきました。そこでは人生で最も大切な事柄の一つを教えて頂いたと思います。修道院ではありませんでしたが、その精神はまさに神に至る道を指し示して居るように思います。霊界が“修道院”と言ったのは、じつは修道院のような所、という意味のことだったのかと思います。霊界がある目的のために計画的に私を導いて来られて故であろうと確信しています。私は幼いころから、誰に教わったわけでもありませんが、霊界や神様の存在は当然のことと認識していたように思います
  2歳の時、先の世界大戦の災禍から逃れて、東京から北海道に越してきました。何もない原野を開墾して住居や畑を作りました。住居といっても、地面に熊笹を直接差し込み、また屋根は同じく笹で覆い、床は土の上に筵を敷いての生活です。そこで家族6人が暫く暮らしました。雪が積もる前に土地の所有者の方が床のある家を建ててください ました。 畑を開墾するとは、まず原野に生い立つ木を切り倒します。其れから前年に切り倒しておいた、根株を堀り起こします。父と二人スコップで満身の力を込めての仕事です。そうして初めて土を耕し、種を撒くことが出来るのです。まだ小さい女の子ですから、何ほどの仕事も出来ませんが、私は何故か父とのそのような仕事をすることがはとても嬉しかった記憶があります。
  学校に行くようになってからは、毎日が“いじめ“の日々でしたが、自然豊かな中での暮らしはとても楽しいものでした。山野を掛け回り、珍しい草木を発見して喜び、ターザンごっこをしたり、裏を流れる川で魚を取ったり、ザリガニを取ったり、飼い猫とじゃれ合って遊ぶことも大きな喜びの一つでした。春、野に行くと黄にピンク、白の草花が当たり一面に咲き乱れているのを見るのは本当に素晴らしいことです。冬、真っ白な雪の原野に寝転び、真っ青な空を眺めることも子供心にも至福の時でした。そうした大自然の中で私はこの宇宙の偉大さ・素晴らしさを体感することが出来たのです。
  私は友達が出来ませんでした。親や兄弟はいましたが、一部父との良い思い出はあるものの、親密な関係を築くことにはならなかったように思います。たとえば、“いじめ“についても決して親には言いませんでした。勿論教師にもです。そうやって耐えてきたというのは本当です。成長してからも所謂孤独な人生でした。表面的には付き合いはあっても、親友が居ませんでしたし、恋愛や結婚という話もありませんでした。
  23歳の時、今日悪名高い統一教会に入信し、約年10年間をそこで過ごしました。これに関しては、過去にこのブログで紹介ましたので、ここでは述べません。
  今、こうして人生を振り返ると全て霊界側が、計画的に段階を踏んでの導きであったことが解ります。霊界側の深淵なる計らいであり、決して偶然ではなく必要があってのことだったのです。
 私がスピリチュアリズム、「イエスが主導する地球人類救済運動」に出会うためには、こうした霊界側の計画、配慮があったことが明らかなのです。即ち、幼少のころ大戦の惨禍からの逃亡や、北海道での大自然の中での神・宇宙と一体になるような体験をさせて頂きました。
  自然を愛する、生き物を慈しむ、猫と友達になるということは、自然界と人間が完全な姿で生きるための秘訣でありましょう。弱者を支えるべき医学の道へと進む事は必然であったように思います。それなのに、これまで私はそうした人生を送って来た自分を“未熟”の一言で己を評価し、自己嫌悪という縛りの中に自分自身を閉じ込めてきました。しかし、実はそうではなく人と表面的に仲良くすることよりも、神とその被造物を大切にする心を養わんがためであったと理解します。私はこれまで、自分の人生を霊の視点で観ることが出来ていませんでした。しかし、今こうして振り返って見ることが出来ました。実はスピリチュリズム普及会インフォメーショ47号(地上再臨に向けた、イエスの二千年にわたる準備のプロセス)を拝読させていただくことで、こうした回顧録を書こうと思い立った次第であります。改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございます。                           

 

霊的生活とこの世の生活

令和5年、新年おめでとうございます。今回は「霊的生活とこの世の生活」について考えてまいります。

 スピリチュアリズムに基づく「心霊現象」、「霊界通信」によって私達は霊界の存在を理解し受け入れています。私達は真の意味で死んでも死なないのであって、霊界こそが本来の生活の場であり、この地上世界はほんの一時学びのために訪れているのです。霊的成長の基盤を作る為であります。
霊界がメインで地上世界はサブ
「霊界がメインで地上世界はサブ」なのです。これを説明する文章をスピリチュアリズム普及会ー思想「Ⅲ」『シルバーバーチの霊訓』の画期的な『二世界関係論』から抜粋して再度理解を深めたいと思います。
少し長くなりますが以下に引用します。
  地上人が霊的成長をなすためには、霊的真理を実践して地上人生を「霊優位」なものにしていかなければなりません。霊的真理の実践とは、全ての思考と行動を「霊優位(霊中心)」にすることです。それは地上世界のあらゆる物事を霊的観点から眺めることすなわち「地上世界を霊界の下に位置づけして地上人生を歩む」ということを意味します。霊的真理の実践に人生の軸足が移ることによって、地上人の意識は自動的に霊中心になっていきます。地上という物質世界にいながら、意識は常に「霊優位(霊中心)」ならざるを得なくなります。こうして霊界が地上界よりも、全ての点で優位に立つことになります。霊的真理を実践し、霊的成長を目指して歩むことによって必然的に「霊界がメインで地上界はサブ」と言う関係論が実際に成立することになるのです。

霊的真理の正しい理解の為に
 私達の住むこの地球は多くの悲劇によって覆われています。
①戦争・紛争 ②貧困・飢餓 ③間違った宗教による霊的牢獄化 
④精神の堕落・退廃 ⑤動物虐待・環境破壊 ⑥霊界下層の地獄化
これ以外にも私達は日常的にさまざまな苦しみ・困難を体験しています。何のためにこの世に生まれて来たのかが解らない、生きる目的が解らない、仕事がうまくゆかない、いつも病気をしている、家庭問題が絶えない、等々。
 スピリチュアリズムにより、これらの解決法は既に知らされています。あとはただ実践すれば良いのです。「霊的真理の正しい理解」、「正しく実践する」と言うことです。実は残念なことに、この「霊的真理の正しい理解」、「正しく実践する」ということが本当に為されている人はとても少ないらしいのです。
 実践するということはその人の価値観、人生観、幸福観などによって左右されます。どんな事に価値を置くのか、幸福とは如何なる状態を描いているのかなどです。もしその人が描いている価値観、幸福感が霊的真理の示すものとづれているとしたら、それは即ち「霊的真理の正しい理解」をしていないことになります。「価値観」を正さねばなりません。これは絶対に避けてはならないことです。
 その人の価値観というものは親の教えや、長年の地上生活によって築かれ、骨身にしみこんでいますから改めることはとても困難です。ですが学び、そこを乗り越えることこそが試練なのです。霊的成長はこうした試練を幾つも乗り越えてなされてゆくものだからです。地上に誕生した意味はそういう事になります。人生は苦労を避けてはならないのです。どんなに困難で苦労に感じてもです。どこかに励まし支えてくれる人は居るはずです。この地上でだけではなく、霊界には私達一人ひとりに守護霊がついて居ます。きっと支え援助してくださいます。自分の一つ一つの言葉が、行動が霊的真理に一致するか否か、これを問う毎日となってゆくことでしょう。これが即ち、霊的観点で物事を観る、霊的人生ということになります。例えば隣人に優しくできたであろうか、贅沢な生活はどうでしょうか、肉食はどうでしょうか・・・。人間関係はどうでしょうか・・・。

人間の感情とは 
次に人間の感情について調べてみます。

                              信頼     怒り    

                 期待                   驚き         

    嫌悪               恐れ

       喜び  悲しみ

     (プルチックの感情の輪を示す) 
 人間は“感情の動物“と言われていますが、ここにプルチックの唱える感情の輪を挙げてみました。感情は大きく分けてこの八つに分類されるとしていますが、それに関連する様々な感情があり、喜んだり、悲しんだり、ときには怒りに支配されてしまうこともありましょう。 
 脳科学では感情は何処から来るのかの答えとして、大脳の皮質系、および辺縁系が刺激を受けることで生じるとしています。しかし、実際の所はっきりとした定説はないようです。感情は人間だけでなく、動物にも存在します。ペットを観察している人ならすぐにそれが解ります。彼らは素直に感情を表します。このように感情は動物にとってなくてはならない要素なのだと思います。

感情をコントロールする
 感情そのものは良くも悪くもありません。 良い感情が起こったならそれはさらに広げると良いですし、悪感情が生じたとしたら、これまでの生き方によりあなたがそう反応したということです。ここで例を挙げて考えてみましょう。ある会社で新人の仕事が遅いので、上司のあなたはつい怒鳴ってしまいました。その時の感情は“怒り“です。どうして怒りの感情が生じたのか・・・、それは新人とはまだ一人前の仕事が出来ない存在である、という認識が欠けている事からです。認識を改めなければなりません。悪感情をコントロールするということは自分の至らなさを認識することから始まります。”新人”とは如何なる存在か、人間とは・・・、相手を尊重するとは・・。無知のままではダメということです。これは日常的なノウハウを説いているだけではなく、「霊的真理」、「霊的知識」そのものでもあるのです。
 更に、スピリチュアリズム普及会ー思想「Ⅲ」スピリチュアリリズムへの敵対者との戦いから引用します。
 霊性レベルによって「魂の窓」の開放状態が決まります。霊性レベルが高くて、「魂の窓」が大きく開いている人は、多くの霊的エネルギーを取り入れることが出来、感情の部分にまでコントロールが及ぶようになります。反対に霊性が未熟で「魂の窓」があまり開いていない人の場合には、霊的エネルギーを少ししか取り入れることが出来ないために肉体的感情に支配されるようになり、霊的世界に対する実感をもてなくなるのです。(中略)不安や恐れというマイナスの感情は、その人間の「霊性レベル」を示すバロメーターと言えます。どのような悩みや不安を抱えているかによって、本人の霊性レベルが知られるようになっています。悩みや不安の念は、その人の価値観や考え方を端的に示しています。(中略)たとえ真理を受け入れた人間であっても、一定のレベルに達していない限り、実感を持って真理を理解することは出来ないのです。“知”ではわかっていても、“情”では納得できないという状態に陥ってしまいます。

 ここにも「価値観」という言葉が出てきます。その人の価値観によって外的事象に如何様にも反応するからです。結局は「霊的真理の正しい理解」というところに行きつきます。真理によって自分自身を作り変える、「魂の新生」と言うことになるのです。
 この世の生活は如何にあるべきか?の問への答えは、即ち霊的生活であること。これに尽きるのです。今回の記事の多くをスピリチュアリズム普及会ホームページから引用させていただきました。毎日が訓練であり修行です。学びの日々です。これらを深く心に刻み、新しい年を希望の内に共に歩んでまいりましょう。

             

       

80歳の誕生日を迎えて

80歳の誕生日を迎えました
 今日の日をむかえることに深い感慨があります。果たしてどんな人生であったかを振り返って見ます。先の大戦の最中に東京に生をうけ、九死に一生で北海道に逃げてきて最低の生活が始まりました。その後も何度か事故や病気で死にかけながら、今日を迎えました。
 人生に意味なんてないとか、生きる目的なんてない、たまたま偶然にこの世に誕生したのだ、という考えには納得できませんでしたから、若い頃から人生の目的を探してまいりました。そして、十数年前にスピリチュリズムに出会いました。スピリチュリズムとは何か?これについては私のこれまでのブログで簡単に紹介してまいりました。 詳しくは以下をご覧ください。
  スピリチュアリズムシルバーバーチの霊訓の総合サイト  https://spiritualism.jp/help

ここは人間存在の奥義を教えてくれる「霊的真理」を余すところなく、紹介してくれています。
人間の生きる目的はなにか、神は存在するのか、人間は死んだらどうなるのか、霊界は存在するのか、人間如何に生きるべきかなどなどです。 
人生は山あり谷ありで、決して平たんで安楽なものではないことはどなたも承知です。深い谷に降りての体験は決して無駄になることはなく、人間性を深め豊にしてくれます。
 ここからは私自身の過去の信仰体験を披露いたします。決して自慢できるものではありません。自分の愚かさ、未熟さを晒すこととなり些か身の縮む思いがいたしますが、何らかの参考になればということから書かせて頂きます。

過去の信仰体験を振り返る
 23歳の時、今世間を騒がせている宗教に入信しました。問題は解決したか?いや、全く正反対でした。そこの教えは「われわれが地上天国を創るのだ」とします。入信したと言っても無理やり献身させられたようです。(決意したのは勿論自分自身であり、他人に責任を転嫁してはなりません。自分の責任であります。)
 そこでの生活は早朝5時ごろに起床して礼拝をします。それから私に与えられて仕事に就きます。そこは大学生たちのホームでしたから、食事作り・掃除・若い男子の汚れた下着などの洗濯など寮生のまかないさんか、むしろ下女のような扱いを受けていました。時間を見て当てもなくとぼとぼと伝道に出ます。また、万物復帰と称して詐欺的手法で物品販売をしたり、カンパを募ります。全くエネルギーは湧くはずもなく、成果がまるでなく、とても惨めでした。自尊心が酷く傷つきました。これが信仰生活か?どうにも納得がゆかないまま、誰にも相談することも出来ず、ただ己の信仰心のなさに打ちのめされてきました。後日、ある人物が言いました。曰く、“姉弟に仕えることは神に仕えることである”と。当時私にはそういう信仰心はまるでありませんでした。
姉弟(?)たちを愛の目でみることは出来ませんでした。仕えることなど出来ませんでした。それはどうしてでしょうか・・・。教義を信じていないのか?そもそも人を愛することが出来ないからか?多分その両方であったと思います。

自問自答を繰り返しても解決出来ませんでした。苦しんで苦しんで疲れ果て、自殺未遂までしました。その後、放心状態に陥り考えることを止め引きこもりを続けました。一切の義務を放棄しました。
やがて少しづつ冷静に物事を考えられるようになり、そこからの脱出を準備し実行にうつすことができました。洗脳から開放されたのです。しかし、それには8年間という歳月を要しました。脱会=神への裏切り=地獄行き、という構図が出来上がっていたからです。
 今、世間で統一教会の2世や元信者が様々な被害や苦しみを訴えています。それを見聞きしていますが、私がここに述べたような己の信仰自体に苦しんだ、というお話しはあまりありません。多いのは、自由恋愛が禁止されていたとか、貧乏であったとか、高額の献金をさせられたとかです。どういう事なのでしょうか・・・。一つには、今現在は“献身制度”なるものが緩くなっているのか。私が献身したのは1960年台であり、時代はだいぶ前でした。それだけではなく、もっと他の理由があるように思います。それは”信仰”そのものの捉え方のように思います。

信仰心はどのように育つのか
 一体、信仰心とは如何様にして育まれるのでしょうか。これについては今まで私は明確に答えることができないで来ました。
私の両親は信仰心や道徳観念など有るとは思えない人間でした。ですから私もそういった事柄に関しては、全く関心を持つことはありませんでした。それでも幼いころから何となく神様が居て私を見ておられる、という感覚は持ち合わせていたように思います。ひとりぽっちで広~い北海道の原野にいることがとても好きでした。周りはピンクや白の野の花が咲き誇り、神さまと私だけがいるようでした。
 看護学校では毎朝「ナイチンゲール誓詞」という誓いの言葉を唱和いたします。その誓いは次のような文から始まります。「我はここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん・・・」このように知らぬ間に、毎日神様の前に立っていたのです。そうして、ここは主事がクリスチャンで全寮制であり、先輩後輩の関係は厳格で規律はしっかりと保たれていました。知らぬ間に信仰心や大切な道徳心が養われていたように思います。今思うに、これは明らかに霊界がある目的のために計画的に私を導いて来られたことと思います。私はそれまで特定の宗教は持っていませんでしたが、知らぬ間に信仰心の基礎が築かれてきたことと思われます。
 それなのに何故、あの教団は私の居場所にはならなかったのでしょうか。
修練会なるものには長期、短期と何回も参加しましたし、断食もしました。毎朝、祈祷から一日が始まりそれぞれ伝道に出かけます。宗教的な生活そのもののようですが、私の心は常にそこから離れていました。どうしてでしょうか?ホームで一緒に生活している仲間は誰一人として、不満げな様子をしている者はいません。私は一体どうして彼らと同じような心境、信仰に至れなかったのでしょうか?
 信仰とは何かを信じる、と言う心の在り様です。心の底から信じられなければ、信仰には至らないのであって、そこで展開されている諸々の事象は私が求めているものではなかったという事のように思います。私が求めていたのは、互いに思いやり、困ったことがあればそれを表現し、共に助け合い、喜びも苦しみも共有できる、そのような集団です。しかしそこは全く異なりました。
 信仰心とは生まれ持ってきた素質があり、その上に絶対なるものを発見し、それに帰依する心の態度と言えるように思います。天(神)は求める者には適切な時期に与えてくださいます。”求めよ、さらば与えられん”です。あの時、私は完全には洗脳されませんでした。教義がどうあれ、そこに展開されている実態に真実なるものを発見できなかったからと思います。発見できなくて幸いでした。今思います。神さまが守ってくださいました。私が真理を真理として見極められるように、十分に心(魂)を耕して受け入れられるように時間を稼ぎ、導いて下さいました。私にはどうしても必要な訓練でした。。

人間は親なる神を求める 
 困ったことが生じたからとか、人生が苦しいからと言った事で宗教に走ると思われていますが、信仰心とは本来そういうものではないと思います。人間とは本来親である神を求める存在であり、それが信仰だと思います。ですから、元来人間に備わっている特性でありましょう。霊的親である神に近づきたい、親のような存在になりたい、という永遠の願望です。これは地上の親子にも見られることです。即ち尊敬する立派な親のような人間になりたい!という願望です。しかし、残念なことに現在はそのような親や子は殆ど見かけず、“毒親”という言葉さえ市民権を得ている状態です。

宗教の間違いに気づく
 巷間には掃いて捨てるほどの宗教があり、その教えには多くの間違いがあり、人類を間違った方向へと導いています。それは本来存在するべきではありません。それを見極める目が求められます。シルバーバーチの教えの中に、“神から与えられた理性を用いなさい”と言うのがあります。つまり、ご利益がありそうだからとか、親や親せきが進めるから、といった他愛もないことに左右されてはなりません。理性を十分に働かせて正しいと判断できるものを見極めなさい、ということです。これは盲目的・狂信的信仰にならないためには非常に重要な事です。

 現在は地球規模でも世界規模でも危機的状態にあります。毎日、世界中で生じている出来事を見聞すれば、いやでもその差し迫った困難・危機を知ることになります。ここでも、理性を働かせて慎重に物事を判断し応じなければ大きな間違いを起こすことになります。テレビや新聞、マスコミの言うことを鵜呑みにしてはならないのです。この地球を覆う惨状を生み出している原因を一掃することでしか問題は解決しません。スピリチュアリズムシルバーバーチの霊訓はそれを教えてくれています。今はもう姑息的な解決法では間に合わなくなっています。そのことにどうか気づいてくださいます様、お願いいたしまして、今回の記事をおわりに致します。最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

不完全燃焼の人生を打ち破る

Neutral World *慶應ナースリカちゃん*

  過去にこのブログで、“霊界の導きとスピリチュリズム”というタイトルでこれまでの自分の人生の幾つかの場面を切り取って考察してきました。 

私は良く夢を見ます。ユング心理学に基づく夢分析を学んできました。
 最近3日続けて昔の仕事関連の夢を見ました。どちらかというならそれは悪夢ともいえる内容です。仕事がまるで進まない、ある事案がうまく処理できない、不手際続きでどうにもならないというものです。人生の多くの時間をそうして過ごしてしまい、不完全燃焼のうちに仕事を終えたという感じでした。もう仕事を退いてから24年、四半世紀も経過しているというのに。これは何かを悟りなさい、と言うことと理解しました。

 私は看護師をしてきましたが、病院という組織のなかで、納得のゆかない仕事を命じられることが多々ありながら、それに反論することもなく、不承不承にやり過ごしてきました。反論するほどの知識も経験も乏しく、また勇気もありませんでした。

 そもそも私は多くのことを知らなさ過ぎました。今生じていることが果たしてどんなことで、どんな意味があるのか、なにが正しいのか、こういったことがまるで判断できないのです。組織にはそこなりの論理があり、それに盾突くならそこには居ることは出来ません。解らないまま不承不承の中で仕事をしている人間は私だけではありません。皆それぞれ生活のため、と我慢し自分を納得させて生きているのです。我慢をし自分をなんとか言いくるめて正当性を見出しているのです。決して主体性のある人生ではありません。多分多くの人達・同僚は仕事とはそんなもの、人生なんてそんなもの、としてやり過ごしてきたのではないでしょうか。言うならば、自分の意見など端からない付和雷同です。一番安全な生き方なのです。
 いつもオドオドしたり、ときには虚勢を張ったりと惨めで悲しく、全く自信のないままで生きた自分の人生は不完全燃焼だったいう思いばかりでした。
やり切った、自分の力を精いっぱい出し切ったという充足感はこれまで殆どありませんでした。
 何故そんなにオドオドしなくてはならないのだ?何を恐れていたのか?それは自分の考えが受け入れられないのではないかという不安、恐れだったように思います。皆と一緒でないと安心できない、仲間外れにされたくないと思いながら、実際には私は他の人達とはあまりうち溶けないでいました。違和感を感じるのです。しかし、何度も繰り返すことになりますが、自分に自信が持てないということが主なる理由でありましょう。

 しかし次第に、これではいけない何とかしなければいけない、という焦りのようなものを抱いていました。何とかそれを克服したい、最近特に強く感じられるようになりました。その理由は自身が地上を去る時はそう遠くはない、つぎのステージへと行くためにはどうしてもクリアしたいからなのです。 これを疎かにしていては順調にステージアップできそうもないと思うのです。目指せ!完全燃焼!!です。

この度の夢でそれを悟ることが出来ました。そうして一日置いて今朝素晴らしい夢を見ました。皆さまに報告出来ることを大変に嬉しく思います。

 私は兼ねがねやりたいと思っていたことを実行するという夢です。素晴らしい夢でした。少し時間がかかるかもしれませんが、ぜひとも実行に移したいと考えています。    もう自分の至らなさを悔いたり、不完全燃焼だった自分自身を責め、後悔するこことはいたしません。確かにそうでした。未熟さに、惨めさに打ちのめされてきました。しかし、今スピリチュアリズムに出会えて思うことは、そうした不完全感があったからこそ、完全を求めるという魂の欲求が芽生えることができたのだと確信しています。
 辛い思い、悲しい思いの峠をいくつも乗り越えて眺めるその視界には、燦然と輝く光の世界があります。今、それが実感として感じられます。

 この現世は何が間違いであり、何が正しいのかがまるで解らないという無明の世界です。時代により地域により善悪の判断が異なってきました。普遍的な善悪の基準をうちだせないできました。人々はそれぞれに主義主張を叫び大混乱を作り出しています。収集のつかない世であり、正に終末の観を呈しています。スピリチュアリズムは無知を知に変え、闇を光に変えます。
 
 私は自分の人生は不完全燃焼だったと思って来ました。たしかにこれまではそうでした。しかし、今はそれを打ち破ることが出来そうに感じています。私にはもう何も捨てるものはありません。怖いものはありません。恐れることは何もありいません。

 2000年前、洗礼ヨハネと言われる人物がいました。彼は当時のユダヤ人たちが理解できない中、声高に救い主キリストの到来を叫びました。彼は”荒野に呼ばわる声”でした。聞く耳を持つ者たちに呼びかけていたのです。そうして彼は最終的には殉教の人生を送ったのです。今、そうした時代ではありませんが、聞く耳を持つ人達に語り掛ける、という意味においては全く同じであると思います。魔女狩りはありませんし、殉教はありません。なんという自由さでしょう!後は永遠の大霊、神の定めた摂理に従って歩むのみであります。スピリチュリズムがそれを教えてくれています。

有難うございます。

霊的新生について

スピリチュアリズムでは①霊的真理を正しく理解し、それを②忠実に実行、③霊的成長をしていくことが地上人類の目的としています。

 こうして霊的新生が成されて行くことになります。そこで今回は霊的新生について考えてまいります。私達人間は霊的な事柄に関しては酷い無知状態にあります。地球上のあらゆる惨状は霊的無知ゆえに生じています。これまでの地上の学問は寄って立つ確固とした真理を見出せないままに築き上げてきたため、どの分野に於いても中途半端で不完全の域に留まっています。真に人間を幸福にすることができないで来ました。
 そのため、霊界の高級霊たちがスピリチュアリズムという人類の霊的復興運動を地上に展開すべく働きかけて来ました。
その高級霊のひとりにシルバーバーチという霊がいます。この霊は3000年前に地上を去り高度に進化した私達の先輩です。その霊がこれまで人類が全く知らなかった数々の知識・叡智を伝えてくれました。私達人類の進むべき道を示してくれました。
人類が長い長い間、眠りこけて居たところを目覚めさせ、進歩・成長をして行くためには、こうした叡智が必要でした。

今回は9月の東京スピリチュアリズム・サークル読書会で学んだ内容を踏まえての記載となります。ではまず、①霊的真理を正しく理解するについてです。
 私達スピリチュアリストは「シルバーバーチの霊訓」を現在の地球上に於いては、最高の教えと受け止めています。それでは、私達は「シルバーバーチの霊訓」を本当に正しく理解しているのでしょうか?
 シルバーバーチを読んだ、という人は可成りの数に及ぶことと思われますが、それではどのぐらい読んだでしょうか。せいぜい1~2回ではないでしょうか。中には正しく理解していないことが多々あるようです。
 自分の感動した所はしっかりと読んではいるが、耳に痛いところはすっと流し、それで済ませてはいないでしょうか。また、シルバーバーチの言葉を自分の都合に合うように、捻じ曲げて解釈してしまうなどしてはいないでしょうか。
 点の理解・部分的理解となっては本当に理解したことにはなりません。全体を包括的・系統的に理解して初めて真の理解ということになるからです。
真理の学習は徹底した学習がどうしても必要です。1~2度の学習で済ませてよいものでは決してありません。さらに付け加えるなら、祈りと感謝の念が必要です。

次に②忠実に実行と言う事についてです。
 スピリチュアリズムの教えの中でも最も重要な事と言えば、“霊主肉従”という項目が挙げられます。全ての事柄において霊的なことを優先させるということです。
これに関して、私達は次のような言葉を口にしたり、あるいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。“そんなことを言っても現に今は地上にいるのだから、現実社会に適応しなければならない、そのような原理主義的な発想は出来ない“というものです。しかし、この考えは自分の都合です。私達はシルバーバーチの教えに忠実であろうとしているのではないですか?私達はどちらかの教えに従うことしかできません。折衷という考え・行動はあり得ません。勿論、今この地球という惑星はあまりにも未熟でありますから、何事も完璧というわけにはまいりません。今スグには出来なくとも、心を強くし努力することは出来ます。軸足をしっかりと霊界に置き、理想を見失うことなく堂々と立ち向かっていくしかありません。
 私は常にこう思うようにしています。“自分は今この世を旅しているが、この世の者ではない、身はこの世にあるが魂はいつも霊界に居る”と。つまり、自分は霊界人である。必要あって今地上に修行に来ているのである、ということです。努力によって私達は霊的成長ということが可能となります。

   ここから今回のテーマである③霊的成長(霊的新生)というところに入りたいと思います。霊的新生ということはこれまでの自分を捨て去り、新しく生まれ直すということに他なりません。古い自分、誤りや、未熟さ、こうした傾向を一掃し違う自分になるのです。慣れ親しんだ自分をすっかり捨て去る、ということは簡単に出来ることではありません。今流に言うならば、アイデンティティの問題に関わることになりますので正に死に値するといえます。これまでの常識・習慣・価値観・正義、これらを見直すのです。否定するのです。今一度、わたしたちは霊的に生まれ直すことが要請されています。一度死ぬのです。
”自分は何も捨てるものはない、全てこれまでと同じで何の問題もない、生まれ変わる必要などない”、と主張されるなら、その方は私達とは縁がなかったということでありましょう。しかし、そのような方でも、内心では自分の弱さ・未熟さを隠して置きたい、という心の現れではないかと私は思います。実はどんなに隠しても霊界からは全て見通されていることを思い出してください。
 本当にどうにもならない絶体絶命の窮地に立った時、初めて己の心を顧みることが出来るようになるのかもしれません。“生まれ変わる“ためには、深い内省の末に魂が揺り動かされて初めて可能となるのでしょう。敢えて言うならば、「荒療治」が必要と言ことになります。言い訳をしたり、シルバーバーチの言葉を自分の都合の良いように捻じ曲げて受け止めているうちは、自己変革・新生のスタートラインに立つことは出来ません。過酷ではありますが真に魂が目覚めるためには、こういう体験が何度でも味合うことになると思われます。一度だけでは足らないということもあり得ます。
 私事で恐縮ではありますが、私は死を連想するような病気を何度かしております。一度では十分に目覚めることが出来なかったならばその試練は何度でもやってきます。それを嫌な事、禍々しいと捉えるのではなく、至らないところを深く反省をし、この様にしてでも導いてくださる、神さまと霊界に感謝の念を捧げてまいりました。
 ただ、こうした試練は必ずしも今生の生き方に問題があるためばかりではありません。つまり前世・前々世・ず~と過去の生き方、さらに人類全体のカルマという問題がからんでいるということです。ですから、この試練は全部自分のせいと自分を責め、落ち込む必要はありません。だからと言って開き直ることを奨励しているわけではありません。
 スピリチュアリズムの目的は人類の魂を呼び覚まし、一人でも多くの人間に本当の自分に気付くことが出来るようになることにあります。日常生活の中に於いて霊の本性と属性を発揮することが出来るようになることです。
本来の人間の備える資質をシルバーバーチの言葉の中から探してみました。
・気高さ ・崇高さ ・威厳 ・豊かさ ・光輝 ・美しさ などです。
 これらはそれぞれの側面として現われることもありますが、すべて混然一体となって表現されるでしょう。例えば、美しさの中には更に寛容さや優しさ、温かさも含まれると思います。これらは全て美しく、そしていうならば愛そのものの現れでありましょう。
 人類の救いと言うとき、その人類の中に自分自身が含まれるという事をよく理解していなければならないでしょう。論評で良く耳にすることとして、社会が悪い、政治が悪い、学校が悪いなどを口にし、それを正せねばならない、と主張します。ではその社会は誰が作ったのか、自分自身の責任はまるで感じていないかのようです。自分自身は一体どのような人間なのか?という視点が欠落しています。
 物事を観るとき、全体を観る、そして自分自身を見る、という二つの視点が欠かせません。どちらかを抜きにして論じようとするなら、その点をあらかじめ断った上でなされるべきでありましょう。私達は評論家ではありません。あくまで霊的真理を土台とした実践者ですから、自分の都合の悪いことを棚上げしたまま、という態度はいけません。事を一般論にすり変えて潜り抜けようという図り事はなりません。たとえ一時、問題を先送りしたとしても解決しない限り、問題は永遠に未来へと引きずったままとなります。古くから言われている言葉があります。“人を変えようとする前に自分自身を変えよ”です。
最後にシルバーバーチの言葉を紹介して今回の記事を終わりといたします。
「地上には自分を変えようとせずに、世の中を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革にはまず自分から始めなくてはなりません。地上人類の霊的新生という大変な事業に携わっていることは事実ですが、それにはまず、自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて魂の内界の神性を存分に発揮しなければなりません。」    シルバーバーチの教え(1)p164

 

死生観を持つことの大切さ

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今回は現代西洋医学とホリスティック医学を概観しながら、死生観について書きます。

”死”は恐怖か?
    病気、特にがんと宣告されるなら、すぐさま“死“に直結させて落ち込み絶望を感じ、人生終わりと考えてしまう人がいます。死んだら自分という存在は消えてなくなってしまうのだろうか、あるいは死後どんな所へ行かされるのであろうか、愛する人と永遠に分かれ分かれになって仕舞うのだろうか、など不安は尽きません。
 多くの人達にとって“死“は恐怖です。今もその恐怖の中でもがいている人ははおられることでしょう。”死”とは何か?これが解らないままに人類は歴史を重ねてきました。医療界では“死“の問題は自分たちの関与する領域ではなく、宗教、僧侶や牧師のかかわる領域という認識できました.。

がんセンターに勤務する
 私は長年にわたり看護職に従事してきました。その間沢山の方の死に関わってきました。とくにがんセンターということもあって、がんで亡くなる方が殆どでした。その私自身も何度かがんに罹患しています。左右の乳がんと肺がんです。その他にも心不全に陥り、今も生活に制限がある状態です。若い頃からホスピスに関心があり、様々な勉強を重ねてまいりました。ホスピス病棟で働きたかったのですが、当時のがんセンターには残念ながらホスピス病棟はありませんでした。退職してからボランティアでホスピスの啓蒙や患者会の運営に関与して来ました。
 しかし、そこでの活動も限界を悟ることとなりました。というのも、宗教や魂に関することはタブー視されていたのです。がんに罹っているというのに死後の生や魂について語らない、とはとんでもない話です。ある時仏教の女性僧侶が会にやってきました。しかしその時、運営の責任者が次のように言いました。「今後はお出でにならないでください」と。また私は同時期にホリスティック医療にも関心を持ち学んでいました。
 現代西洋医学は病気を観ても患者を診ない、病気治療とは傷んだ臓器を元に戻すことという唯物的医療です。こうした人間を肉体のみとするとんでもない間違いを犯していますので、そのNPOも多分にもれず、その流れを踏襲していたのは無理からぬことでした。この頃、私はすでにスピリチュアリズムを学んでいましたから、そこでの仕事は出来ないと悟りそこを去ることになりました。

現代西洋医学の実体
 現代西洋医学は「唯物的人間機械論」を土台にしており、ただ寿命を長引かせることにその目的を置いています。そこには人間とはどのような存在なのかという視点が全くと言ってよいほど欠落しています。人間とは霊と精神と肉体から構成されているという視点です。ホリスティック医療については、その必要性が叫ばれるようになってから久しくなります。しかし現代西洋医学の世界ではなかなか受け入れようとしません。インフォームドコンセントセカンドオピニオンという言葉もすでに多くの患者たちは知っています。こうした中にあってもまだまだ患者たちは弱い立場に置かれ、医師主導のまま傷んだ臓器及び周辺のリンパ節を切除する拡大郭清術や過酷な抗がん剤治療を受けています。患者のQOL(生活の質)を保つという配慮がありません。食道がんの手術でも、前立腺がんの手術でも、どの部位のがんでも手術や抗がん剤による治療が行われており、身心に及ぼす侵襲は甚大なものがあります。
 医療者たちの考えには、「命あってなんぼのもの」ということが根底にあります。これはたとえ手術や抗がん剤治療によって辛かろうが障害が起ころうが、死んでしまっては元も子もないのだから”命のためだから全部我慢しろ”という事です。
医療というものは医師が主導すべきものであるという認識です。そうした雰囲気の中では、患者が自分の考えを述べると、医師は一笑に付すか機嫌を損ねます。それを忖度して患者たちはただ従うことになります。自分の思う事を率直に話せないのです。医療とはその人間の立場に立って、最善の治療が受けられるように配慮することが肝要ではないでしょうか。人間をトータルとしてとらえるなら、当然のことではないでしょうか。

ホリスティック医療の必要性
 こうした厳しく、且つ悲しい現実の中にも、気骨のある優れた医師は存在します。帯津良一という方でホリスティック医療の先駆者であり、日本ホリスティック医学協会会長をされて来ました。現在86歳になられます。志を持って埼玉にご自身の病院を作られ、現在は名誉院長をされております。治療内容は漢方薬・気功・鍼灸・食事療法、そして西洋医学をその患者に会うように組み合わせて行うというものです。
最近また彼の著書を読みました。「ガンに勝った人たちの死生観」という本です。“勝つ”という意味は必ずしも治癒することをさしているわけではありません。死を受け入れ自分に合った、あるいは自分の好む治療を選択し、穏やかにそして毅然として与えられた地上人生を全うする事を指しています。死んでもがんに負けたということにはならないのです。死生観を持つことで、がんに屈しないことを“勝つ”と表現しているのです。彼ら彼女たちは“死“を当然のこことして受け入れ、そして死後もすばらしい人生の旅を続けられるという希望をもつことが出来た人達なのです。
 次に著者が述べる死後の世界に関するファンタジーを紹介しましょう。同書の142ページから引用します。
「私達は、往路150億年、復路150億年、つまり300億年の循環の中に居るのですから、死は小さな通過点にすぎません。肉体を離れた私のエネルギーはたくましく、死を突き抜け光の中を新しい世界へと旅だって行くのです。これが私の思い描く死生観、死後の壮大なファンタジーです。好奇心の強い私は、自分の死後の150億年の未知の世界への冒険旅行を考えるだけで、胸がワクワクしてくるのです。」
 このような心で患者さんたちに向き合い治療を行っておられます。どの様なファンタジーを持つか、300億年の循環というのは本当か、という問題は依然として残されておりますが、死後の世界への希望を示せることはとても大切なことと思います。

スピリチュアリズムによる本当のホリスティック医学
 死後の世界を認めない、死んだら全て終わりだ、という前提のうえで繰り広げられる現代西洋医学の世界に身を置かざるを得ない私達患者は、実に息苦しく魂は窒息しそうです。辛く苦しい治療が好む好まないに関わらず展開していくことになるからです。
 ホリスティック医療はその問題を解決してくれる第一歩となります。しかし、現時点でのホリスティック医療はまだまだ乗り越えなければならない関門が幾つもありますから、これで一安心というわけにはいきません。そもそも人間とはどのような構成になっているのか、健康とはどのような状態をいい、病気とは如何なる状態か、ここの出発点があいまいのままでは、先へは進んでは行けません。

 スピリチュアリズムがこの地上で展開されるようになってから170年程たちますが、シルバーバーチという進化した霊が膨大な量の通信を送ってくれています。これにより、これまで人類が知ることの出来なかった霊的真理を知ることが可能となりました。これからこの混迷せる医学界を、真のホリスティックなものへと変えてゆくことが出来るようになることでしょう。希望があります。

自衛の手段~賢い患者になる
 理想を現実のものとするまで、ある程度の期間が必要でしょう。そんな今、私達は自衛の手段を構じなければ現代西洋医学の泥のなかに引きづり込まれることになります。常々申し上げていることですが、”賢い患者になりましょう”、ということです。医師の言う事を鵜呑みにせず、解らないことがあれば何ら恐れることなく質問することです。それでも疑問が残るなら、信頼のおける人物に相談することです。セカンドオピニオンを活用することも出来ます。その他の社会資源を活用することも出来ます。
 こうした対処の仕方はなにも健康問題に限ったことだけではありません。人生全般における生きる姿勢にも当然当てはまるのです。自分の人生は自分で切り開くのです。もちろん有る意味での運命、というか宿命は存在しますが、そのなかにあっても出来ることは在ります。せっかくこうして恵まれた日本という国に誕生したのですから、精一杯出来ることをして参りましょう。理論や具体的な方法は「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」ホリスティック医学・健康学研究所刊をご覧ください。必ずあなたのお役に立つことを保証します。皆さまの光溢れるこれからの人生を祈念して、今回の記事をを終わりとさていただきます。

 参考・引用文献
「ガンに勝った人たちの死生観」 主婦の友社 2004/04/01 帯津良一
「ホリスティック医学入門&ホリスティック健康学入門」ホリスティック医学・健康学研究所刊 2021/10/01
  [見えない世界の科学が医療を変える」 でくのぼう出版 2015/05/21 長堀 優 
「やはり死ぬのはがんでよかった」 幻冬舎 2021/03/25 中村仁一

カルマの清算と苦しみの人類史

 シルバーバチの言う”全ての宗教は間違いであり、無い方が良い”ということに関して考察しましたので、それを僭越ながらここに述べさせて頂きます。あくまでも現時点の私自身の到達したレベルでの私見となることを始めにお断りさせて頂きます。
人類史は宗教と共に在った
 科学的世界観が広まった今、人間は努力によってそれまで不可能だったことを可能にし、進歩ができることを知るようになりました。人間主義個人主義とも相まって欧米、特にヨーロッパにおいては宗教離れが目立つようです。
 とは言え、人類は歴史上いつも何らかの宗教と共に生きてきました。きっても切り離せない関係にあったのです。我々日本人がたびたび口にする言葉に”私は無宗教です”というものがあります。ところが新年や7.5.3のお祝には神社に詣で、愛車には交通安全祈願のお守りをぶら下げ、結婚式はキリスト教会で行い、クリスマスを祝い、さらに葬式は仏式で執り行ったりします。信仰心は深くはないが(いや信仰心はなく、むしろ形式化している)、それなりに宗教と関わりを持っていることが伺えます。
 ヨーロッパでは2000年来キリスト教が主流でした。イエスが地上に居た時は弟子たちはイエスの教えを真に理解することができませんでした。そうして民衆の無知ゆえにイエスは十字架に架り地上を去ることになって仕舞いました。その後西暦1848年にスピリチュアリズムが勃興するまでの1800年間は、地上に一切の霊的光の差し込まない暗黒の時代となりました。この間、時の為政者・民衆の無知ゆえに圧政・貧困・病苦に苦しむ歴史が延々と続いてきました。神の書とされて来た聖書も、後の為政者たちの都合に合わせて書き加えや改竄が成され、イエスの教えからは大きく外れてしまったのです。間違った教え、贖罪論や三位一体説など大きな誤りを犯したのでした。
 日本では、平安時代中期に阿弥陀仏への他力本願を根本とする浄土思想がもたらされ、人々はそこに救いを求めました。当時の人々もまた圧政・戦争・天災・貧困・疫病に息も絶えだえ、死者が続出するありさまでしたから、来世にせめてもの希望を託し阿弥陀仏にすがったのです。他力本願の教えは自分で努力して向上しようという思想ではありません。
無知の暗黒のなかで
 冒頭でシルバーバーチは”全ての宗教は間違いであり、無い方が良い”と述べていることをあげました。それは、これまでの宗教は霊的知識を正しく教えないばかりか、霊的事実から大きくかけ離れた教えにより、人々を”霊的牢獄”に閉じ込め霊的成長を妨害してきたからと言うことなのです。
 当時の人々は無知の暗闇の中で暮らさざるを得ない状況でしたから、他力本願はダメとか、努力が足りないなど彼らを責めることは一切できません。しかし、間違いは間違いなのです。この後述べてまいりますが、その時はまだ人類全体としてのカルマの清算が成されておらず、救いのための宗教が様々起こされて来たものの、根本的な救いとは程遠く部分的救いでしかなく、更には間違いが多々ありました。しかし、今は明らかに事情が異なります。時代は大きく変わったのです。いつまでも旧態依然のままで良いはずはありません。
 クリスチャンたちは天国へ、仏教徒たちは極楽へ行けるようにと、ただすがって来ました。しかし、人間は自分自身で努力し進化・向上してゆくよう創造されていますから、お願いばかりの他力本願、間違った教えでは誰一人として天国、あるいは極楽には行けないのです。 最近の霊界通信で明らかにされたこととして、2018年に99歳で死去した現代の最も偉大なるキリスト教の伝道師と言われたビリーグラハムの霊界での様子が知らされました。それによると、彼は死後、混乱と激しい心の葛藤と苦悩の中にいるというのです。以下は霊界に行ったビリーグラハムの言葉です。
「驚いた。天国に行けると思っていた。それなりの地位をえていたから。自分で言うのも何だが、それにふさわしい場所へ赴くと思っていた。それなのに、そのはずだと思いこんでいた自分が大バカだったのだ。信じられない。どうしてこの私がこの境遇なのだ?の連続だった」
20世紀最大のカリスマ伝道師の死後の様子 スピリチュアリズム普及会 インフォメーション44からの抜粋   宗教界で最も偉大なる人物とされてきた彼でさえ、天国とは程遠い所に置かれていたのです。これが実態なのです。
地球を覆うカルマ
 この地上世界の霊的暗黒というのは、言うなれば地球人類全体としてのカルマということが出来ると思います。今、このカルマが清算されることで、ようやく地上にも霊的光が差し込むことができるようになったのです。
これにより、イエスの地上への霊的再臨が可能となったのです。
 では地球人類全体としてのカルマとは何でしょうか?それは2000年前に人類の無知ゆえにイエスを十字架上に追いやった罪を挙げることが出来るでしょう。歴史に”もし”ということは禁句ではありますが、もし、イエスがあのような死に方をしなかったなら、人類史は違っていたはずです。もっと人類は進化し霊的なことがらにも通じ、光明の中に暮らせたと思います。今のような戦乱・無慈悲と残酷・数々の誤り・混乱はなかったはずです。
神が人類と宇宙を創造した目的
 それでは人間は何故に創造されたのかを復習します。
ここでは、神が人類及び全ての被造物を創造されたということが前提となります。神は自分に似せて人間を霊的存在として創造しました。神は愛の存在でありますから人間や他の被造物を愛し、人間は神を愛するという関係を願ってです。人間は初めから完全ではありません。少しずつ肉体・精神・霊を成長させ進化してゆきます。つまり大人になってゆくのです。子供のうちは親から一方的に愛されますが、大人になり自ら愛の存在になることを神は願われ、私達を創造されたのです。つまり私達人間の究極の目的とは霊的成長を為し、親である神に似た存在となる、ということに尽きるのです。
エスの地上再臨とは
 スピリチュアリズム普及会では「イエスが地上に再臨を果たした」と、2021年4月にインフォメーション41号で公表しています。
エスの再臨は2000年間クリスチャン達が待ち望んできたことです。地上天国が実現し、永遠の救いに与ることができるというものでした。
 ”イエスの再臨は霊的な事ゆえ、私たち地上人には特別な人間以外には認識できません。しかし、すべての高級霊界人達が認めることであり、時間の経過とともに全世界に広まり認識されてゆくものとなります”、ともインフォメーション41号に述べられています。これが「霊的新時代の到来」ということなのです。真っ暗だった地球上にようやく霊的な光が差し込むことが出来るようになったのです。居眠りをしていてはなりません。光は何処にあるか、その片鱗はどこにあるか、騒がしい世にあっても注意深く耳を澄まし眼を凝らして頂きたいと思います。霊的新時代に相応しい人間となれるよう共に頑張りましょう。